第2話

大天使


 パリの不動産屋さんに行くけれど、家賃はかなり高い。父親が払ってくれるのだけれど、私はなんだか気が引けた。

 不動産屋さんに案内されたのはサンジェルマンデプレ付近で、小さいながらも二部屋あり、一人で住むには十分だった。壁がなぜかイギリスの田舎を思い出させるグリーン地に小花柄の壁紙だった。

 不動産屋さんは日本人女性で、白髪交じりボブスタイルで五十代後半に見える。ずっと異国で生活しているのだ、と思うと素直にすごいな、と思った。


「ここだったら治安も悪くないですし、いいと思いますよ」


「…そうですね」


「後、セーヌ川沿いにもお高くなりますけど…、見られますか」


「はい」

 パリの人がどんな家に住んでいるかとても興味があったし、私はいろんな部屋を見て回りたかった。


「今は弟さんのところで暮らされてるとか?」


「…はい。早く家を見つけなきゃ…なんですけど」


「…一人暮らしもいいですけど。どなたかとシェアされることもお考えですか?」


「シェア?」


「はい。意外といいですよ。困った時、トラブルに会った時、病気になった時、誰かがいてくれるっていうのは外国では特にありがたいですから」


「…そうですか」


「えぇ。シェアハウスもご案内できますから」


 私は律がたった十四歳でフランスに来た時の気持ちを初めて知る思いだった。フランスのピアニストで先生の家にお世話になれたから、淋しくはなかったかもしれない。それでも意思疎通できるまでは大変だったはずだった。


 律が十一歳の時にお母さんが亡くなった。律のお母さんがピアニストで律もその才能を受け継いだようだった。私の父が律のお母さんに惚れたのか、そこらへんは曖昧だけれど、活動資金の援助もしていたようだった。


 私の母は

「お父さんはATMとしては優秀だから」と私にはっきり言った。


「悲しくないの?」


 その問いに答えはなかったけど、律が家に来るのは反対しなかった。


 律が来た時のことを今でも覚えている。お母さんを亡くして、全く知らない家庭に連れてこられて、不安そうに立っていた。私はその反対で、小さな律が可愛くて、緩いウエーブがかかった髪と黒目がちな瞳はまるで天使のようだと思った。

 でもたった三年で律はいなくなってしまった。


 そして三日前に久しぶりに会った律はあの頃の律じゃなかった。背も私を追い抜き、肩幅も広く、小さな律なんて言えなかった。


「久しぶり。莉里ちゃん」と微笑まれた時は天使かと思ったが、小さなキューピッドみたいな天使ではなく大天使ミカエルのような神々しさすらあった。


「お久しぶりです」と思わず他人行儀な口調で私は返事を返してしまった。


 律の部屋に入って驚いたのはベッドルームに大きなベッドが一つ置かれているだけだった。


「あ、私、ソファで」と言うと

「莉里ちゃん、どうして? 昔は一緒に寝てたよ?」と言われてしまった。


 お母さんを亡くした律がかわいそうで、私は律の部屋を夜、そっと覗いた。律が眠れないのか、ベッドの上で泣いているのを見ると、たまらなく母性本能がくすぐられた。


「一緒に寝ましょう」と私は律のベッドで何度も眠った。


 あの頃なら、まだしも…とは言え、飛行機は疲れたので、シャワーを浴びてベッドで横になっているといつの間にか眠ってしまった。律のピアノを聞きながら、心地いい夢の世界にいた。

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