第1話
一番近くて遠い人
ピアノの音が流れている。
「おはよう。
「ううん。おはよう」と言って、私は冷蔵庫を開ける。
起きてすぐに冷蔵庫を開けるのは癖になっている。何があるのか把握するくらい、なにも入っていないというのに。バターと卵。運が良ければハムがある。今日は普通の日だから、ハムはなかった。
「りっちゃん。卵食べる? 朝ごはん食べた?」
「食べてないよ。パンも買ってない」
「うん。パン、買って来ようか」と私は聞いた。
「そうだね。クロワッサン…食べたいな」
「分かった」と言って、私は洗面台に行って顔を洗った。
三日前にパリに来た。律は腹違いの弟で、私が中学二年生の頃、母親が亡くなったと、三年間だけ一緒に過ごしていた。律にはピアノの才能があって、その後、フランス留学した。本人の希望かどうか分からない。引き取ったものの、母がやはり嫌だったのかもしれない。
私は大学卒業後、フランスの語学留学をするためにパリに来た。部屋を探すまでの間、律のところにお世話になることにした。二歳下の律はもうフランスの音楽院を卒業したと言う。私は身支度を済ませて近所のパン屋に出かけた。
憧れのフランスに住む。習った言葉を使う。空気が全然違っていた。初夏なのに、涼しい。パン屋に並ぶ。美味しいパン屋は行列ができている。前にいるおばさんは「バゲットはしっかり焼いてるの。焼き目がしっかりしてるのをお願い」と言っていた。
(焦げてる…。日本人だったら敬遠するだろうに)と私は微笑んだ。
つられてバゲットと律のクロワッサンを買って、私は帰る。手に持って帰るのだけど、それが住んでいる気分にさせられる。部屋に戻ると、まだ律はピアノを弾いていた。
「おかえり」と弾きながら言ってくれる。
「買ってきたけど、今食べる?」
「うん。コーヒー淹れようか」と律は立ち上がった。
びっくりするぐらい身長が伸びていた。
「りっちゃん、大きくなったね」
「うん。こっちの牛乳のせいだと思うよ」
「えー? ほんと? じゃあ、飲もうかな」
「いや、もう無理じゃない」と笑いながら、キッチンスペースに来る。
この部屋は二つしか部屋がなくて、ベッドルームとリビング兼ダイニング兼キッチンだ。だから私は律の隣で寝ている。初日は緊張して眠れないかと思ったけれど、移動と時差で疲れすぎてすぐに眠ってしまった。
「今日も部屋探しするからね。ごめんね。なるべく早く出ていくから」
「別に急がなくていいよ。僕も…来月はいろんなところに行くから」
「どこに?」
「オーストリア、イタリア…。スペイン。演奏旅行」
「えー。かっこいい」
「付いてきてもいいよ」
「スペインは行きたいなぁ」
「莉里ちゃん、スペイン行きたいんだ」
「うん。治安が不安だから、誰かと行きたいって思って。見たいものも、食べたいものもたくさんあるから」
「じゃあ、おいでよ」と律は何事もないように言う。
「…うん」
私も何事もないように返事した。
きっと律は忘れている。あの日、キスしたこと。
あの日は梅雨だというのに、きれいに晴れた日だった。学校から帰ると、律が部屋をノックした。私は天気がいいから、律といっしょに散歩に出かけて、アイスでも食べて帰ろうかと思っていた。そんなのんきな考えをしていた私に突然、律はさようならを言った。
『莉里ちゃん…。フランス行くんだ』
『え? どうして?』
『ピアノの勉強しに』
『日本でもできるのに?』
『うん。でも…フランスに行かなきゃ…。今まで親切にしてくれて、ありがとう』
まだ十四歳ぐらいだった律は背も低くてあどけない顔をしていた。私に突然できた弟は天使みたいな顔をしていたし、一人っ子だった私はもっと早く家に来てくれたらよかったのに、と思っていたから、突然の別れを受け入れられなかった。
『莉里ちゃん…泣いてるの?』
どうやら涙が零れていたようだった。一瞬、驚いたような顔をした律は『ごめんなさい』と言って、優しく微笑んで、唇をつけた。
驚いて涙が止まったけれど
『さよなら』と言われて、また涙が零れた。
それから一週間で律はいなくなってしまった。
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