第91話
中崎透馬は誰?
僕は久しぶりに実家に戻った。お母さんは嬉しそうに迎えてくれたし、お父さんも笑顔だった。
「透馬、おかえり…。どうしたの?」とお母さんが優しく言う。
「どうもしなくても帰ったらいいんだよ」とお父さんが気遣ってくれた。
「ちょっと思い出したことがあって…」
僕がそう言ったけれど、二人は家に入るように言う。手土産に買ったケーキを渡すと喜んでくれた。昔から、この二人は穏やかで、優しい。本当の子供の代わりに僕を育ててくれた。僕はその想いに応えようとずっといい子にしていた。
「仕事はどう?」とお母さんがいい匂いのする紅茶を淹れながら聞いてくる。
「うん。順調だよ。今日は…昔の自分を思い出したくて…」と言うと、二人は驚いた。
「それで…何か分かったのか?」
「…うん。不確かなことだけど…。川沿いのアパートに住んでいた気がして…」
「お母さんのこと、思い出した?」とちょっと辛そうな顔でお母さんが生みの親のことを聞いてきた。
僕は十子ちゃんに聞いたことを説明する。二人は不思議な話を、でも疑うことなく聞いてくれた。
「今更…会いたいとかじゃないんだ。僕は本当に二人に育てられて幸せだったけど…そんな資格あるのかなって」と言うと、お母さんを泣かせてしまった。
「資格…とかそんなんじゃないの。あなたがいることで私たちは救われたから」
そして謝られた。亡くなった我が子の代わりとして頑張ってくれているのを分かっていたけれど、どうしていいのか分からなかった、と。そう言われて僕もなぜか謝るしかできなかった。
しばらく互いの気持ちを話した。大人になって初めてじゃないだろうか。こんなに打ち解けて話したのは。話したからといって、すぐに距離の近い仲良し家族になるわけじゃないけれど、僕はぼんやりと温かいものを感じた。
家を出て、駅に向かう。
そして十子ちゃんに連絡をした。
連絡がつかなくなるなんて、その時まで思いもしなかった。何度か電話をかけた後、メッセージが届いた。
『先に帰りますね。今日は私も実家に戻ります。楽しかったです』
何度も繰り返し、僕はそのメッセージを読んだ。
『これで、私のお役目終わりですね』と言っていたことを思い出す。
「お役目…」と僕は呟いた。
(最初から彼女はここでお別れをしようとしていた?)と思うと背中が冷たくなった。
ホテルのロビーで僕を見送る時はいつもと同じように可愛い彼女だった。
『はい。行ってらっしゃい。ゆっくりしてきてください』
最後の言葉はどんな気持ちで言ったのだろうと考えると胸が詰まる。笑顔で僕を見送ってくれたけれど、あの時にはもう終わりにしようと思っていた。
それからどうやって家まで帰ったのか覚えていない。
気がついたら、彼女がいなくなった部屋に一人でいた。陽もすっかり落ちて、部屋が暗いから灯りをつける。
出かける前に干している洗濯物がベランダで揺れている。彼女の頑張って買っていた下着も残っていた。洗濯物を取り込み、僕は紙袋に入れる。その他にも彼女の使っていた化粧品も入れた。
メッセージを送っても既読にならない。電話も繋がらなかった。きっとブロックされているのだろう、と思うと、動けなくなる。
『中崎さん』と柔らかい声が聞こえる気がした。
僕は自分が何者か分からなくて、怖くて動けなかった。いい人をずっと演じていた。自分もそういう人であって欲しい、と思っていたから。十子ちゃんはいつも不器用ながら、眩しいくらい自分だった。落ち込んだり、浮かれたりしているのも全て偽りがなかった。最後に…僕に嘘をついて去っていくまで、ずっと僕に好きだと言ってくれていた。
ソファに倒れ込む。
体が重くて動けない。好きだけど、どうしていいか分からないと言う僕の煮え切らない回答を促すでもなく、ただ自分の感想を笑顔で言ってくれていた。
『私も分かりません。でも…両思いは単純に嬉しいです』
「僕が幸せにする」
そんな言葉も言えなかった。きっと僕が言うことはないと分かっていたのに、一緒にいてくれて、あの場所までついて来てくれて、義理堅く…あぁ、そんなことを本人が言ってたな、と思って少し笑った。
『あの…もし…私が逃げる心配をされるのなら、…私…のこともお手伝いしてくれたら、それでいいです。私、自分で言うのもなんですけど義理堅いので、ちゃんとします。私のこと…必要とされてるのなら…。ギブアンドテイクで…本当にちゃんとします』
震えながら言ってる様子に申し訳ないと思いながらも、同時に、どうして僕にはそんな態度なんだろう、と悔しくなった。同期の吉永には好意を向けていたのに、僕には少し引いたような態度だったし、ちょっと話かけようとしても、後退りして去っていく。
(そんな態度だから気になったんだろうか)
(何も飾らないから…心が惹かれたんだろうか)
そんなことを考えて、僕は起き上がる。理由なんて、どうでもいい。本当に好きだった。ただ僕が彼女を幸せにできるのか自信がない。過去を思い出しても、僕はあのアパートで暮らして、妹さえ…守れなかった。彼女には幸せになって欲しい。それが僕じゃなくても…。
シャワーを浴びて、ベッドに入ると、彼女の匂いがした。
『透馬さん』と名前呼びするときはちょっと恥ずかしそうで、その声も可愛かった。
ハートを一緒に作った時も、無理やりの笑顔も…。そう思うと僕は随分、彼女に無理をさせていたな、と気づく。
一緒にベランダから星を見た時間も、ベッドで抱きしめて眠った夜も…全て僕の我儘だった。だから彼女が決めた選択を僕は尊重しよう。微かに甘く柔らかい彼女の匂いが残るベッドで、彼女を想いながら目を閉じると、涙が溢れた。
すぐそばにいた温もりは空っぽになってしまったけど、淋しさには慣れてるはずだから。
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