第77話

新妻ごっこ


 仕事に行く中崎さんと別れて、私は地元の不動産屋さんに向かった。地方なので、予算は抑えられる。


「日当たりが良くて…海が見えるところがいいです」と言って、案内してもらう。


 二件目のマンションがとても良くて、気に入った。ベランダから海が見える。ここで日がな一日海を見ていたら何もかも忘れられそうな気がした。契約は会社の了解も必要だし、まだ辞令が出ていないと聞いていたので、ちょっと仮押さえだけしてもらうことにする。


 思ったより早く見つかって、私はその後、のんびり散策した。誰も自分のことを知らない街にいるというのは気楽でよかった。適当な店を探してお昼を一人で食べる。海鮮丼を食べて、大満足する。


(大丈夫。きっと一人でも楽しくやっていける。職場の人達も優しそうだし)


 空は青くて、冷たい風が通り過ぎていった。私はスーパーを見つけて、今夜の買い出しをする。お刺身はそのままで食べれるので、カゴに入れる。明日帰るのに、お米を買うのは勿体無くてお寿司を買った。


(生魚が多いなぁ)と思って、インスタントのお味噌汁も買う。


 一人新妻ごっこをしてスーパーを出る。ついでにデザートも買おうと街をうろうろする。何かないかと知らない街を探検するのは楽しかった。それでも時間を持て余したので、一度帰って、冷蔵庫に入れてから、また歩くことにした。歩きながら、美容室が目に入ったから入ってみる。思えば、ずっと美容室に行けてなかった。


「あの…予約してないんですけど」


 平日の昼間だったので、すぐに案内された。明るい色にカラーをしてもらって、カットも少ししてもらう。それだけで随分印象が変わって自分でも気分が明るくなった。


「ありがとうございます」


 この街でやっていく、と何度も繰り返した。


 定時になった頃、中崎さんから連絡があった。


「晩御飯どうする?」


「スーパーで買って用意してます」


「じゃあ、帰るね」


 まるで新婚みたい、とまた思って微笑んだ。胸が微かに痛むけれど、私は今の幸せは存分に楽しもうと心に誓った。私はお湯を沸かして、インスタントのお味噌汁を用意して、お寿司と刺身をお皿に並べる。後、少しだけ頑張って、卵焼きを焼いた。卵焼きに格闘している時に中崎さんが帰ってきた。


「ただいまー」と言うので、私は慌てて玄関に向かう。


 まるで本当に新妻みたいに出迎えた。


「お帰りなさい」と言うと、中崎さんは目を細めてくれた。


「あれ? 可愛さが増してる」


「美容院行ったんです。可愛くなってますか?」と聞いてみる。


「うん。ものすごく可愛い。それにお出迎え、嬉しいな」と言って、頭をぽんぽんしてくれた。


 私は意気揚々と中崎さんの鞄を持って、リビングに行って思い出した。卵焼きを放置していたことを。ガスは切っていたが、完全に固まってしまって、ただの広がった薄焼き卵とも言えない微妙な卵焼きができていた。


「あ…丸フライパンで卵焼き焼くの難しいですね」


「いいよ。食べたら同じだから」


「うーん。違うんですよ? 卵焼きになっているのと、そうでないのとでは食感が。もう一回チャレンジします。これは私が食べるので」とお皿に取り出した。


「これはこれで美味しそうだけど」と中崎さんが言ってくれるけれど、私はもう一度だけチャレンジすることにした。


 その間に、中崎さんは手洗いをしてくるという。慎重に卵を巻いていく。不細工な形だけれど、卵焼きが作れた。


「十子ちゃん、ありがとね。いろいろ用意してくれて」


 ほぼ買ってきたものを並べ直したものなのに感動してくれる。


「お魚美味しいか確認しないと」と私が言うと、苦笑いしていた。


 ご飯を二人で食べて、お皿の片付けも二人でする。こうして一緒にいる時間が不思議と当たり前のようになってしまって、それが幸せで、そして少し辛い。


「あ、お風呂も沸かしちゃいましょうか?」と聞くと、中崎さんが慌てて首を横にした。


「ちょっと外を散歩しない?」


「あ、いいですね。星が綺麗でした」と私は言って、上着をとりに二階に行った。


 上着を来て、私は下に戻る。


「行こっか」と中崎さんもジャケットに薄手のコートを羽織っていた。


 知らない夜の街を二人で歩く。空がゆっくりと青から黒くなっていく。


「お仕事、上手くいきましたか?」


「うん。鯖の甘辛煮とか、イカの味噌煮とかお酒の当てになるようなそんなのを可愛いデザインの缶で販売しようってなって」


「へぇ。美味しそうですね。もしかしたら、私、試食とかできちゃいますか?」


「十子ちゃん、本当に出向するつもり?」


「はい? 家も借り決めしてきましたよ」


「…そっか」と中崎さんが俯いた。


 私は中崎さんの手を取って、勝手に繋いだ。


「でも仕事があるから、たまには会えますね」と笑いかける。


「…うん。なるべくこっちに来れるような企画を考える」


「じゃあ…泊まりで来てくださいね。それか金曜とか」と勝手なことを言う。


 たまに会えるだけでも幸せだ、と笑いかけようとして、涙が溢れた。


「十子ちゃん…」


「…ご、めんなさい」


 心配かけるつもりはなかったのに、涙が止まらない。私の涙を指で拭ってくれた。私は無理に笑って、きっと変な顔になっている。


「どうしたらいい?」と中崎さんは自分に聞くように言う。


「大丈夫。私、ちゃんと…ちゃんと元気でここにいます」


 中崎さんに抱きしめられて、匂いと温かさに包まれる。綺麗な星の下で、私は視界を閉ざした。

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