第69話

目指せ女子力アップ


 会社に着くと、私は梶先輩を探した。見つからなかったので、給湯室にお茶とお菓子を置いて、俯く女の子に聞いてみる。


「ねぇ、下着ってさ。履き心地優先してた? それとも見た目?」


 ビクッとしたような感じで顔を上げる。


「私、友達いなくて、聞けないの。教えて」とかなり焦って聞く。


 多分、有無を言わさぬ圧もかけたのであろう。彼女の声を初めてちゃんと聞いたし、顔も初めて見た。大人しそうな顔だったが、目は大きくて可愛い顔立ちだった。


「…可愛いの。気分が…上がる…から」


「…そうなんだ」と私は衝撃を受けた。


 女性が自分のために下着を可愛くするなんて思ってもみなかった。私は厚くお礼を俯く彼女に言った。そして給湯室から飛び出す。絶対に今日は下着を買いに行こうと心に決めた。廊下でようやく梶先輩に会った。


「あ、梶先輩」と呼び止めて同じ質問をする。


「え? 下着? クマのじゃダメなの? 十子いつも愛用してるでしょ?」


「じゃなくて、先輩はどうなんですか?」


「私? それは外国製のを使ってるわよ」


「えー?」


 総レースのお高いものだそうだ。やはり自分が綺麗でいられると思うと言っていた。


(なんてこと!)と私は衝撃を受けた。


 吉永さんが「小森ちゃん、おはよう」と言うので、もう少しで「レースのパンツ」と言いそうになって、自分の口を自分の手で押さえた。


「ん? どうした? レース?」


「なんでもないです」と走って席に戻った。


 もう何がなんでも今日中に可愛い下着を買おうと思って、仕事に邁進する。隣に美人人妻が来たが、きっと彼女も美しい下着を着ているに違いない。村岡さんが何だか文句を言いにきたけれど、彼女の間違いなく綺麗なはずの下着も気になってしまって、適当に返事をしていたら、怒って、席に戻って行った。彼女の話は資源が勿体無いから、私は失敗コピーの裏を使って印刷しなさいということだった。


(下着見せてくれたら、言う通りにするけどなぁ)とぼんやりそんなことを思いつつ、午前中が終わった。



「小森ちゃーん」と社食に向かう途中で吉永さんから声をかけられる。


「あ、そうだ。師匠のおかげでうまく行きそうです。でも…」


「でも?」


「あ、いえ…。何でもないです」


「なんだよー。俺と小森ちゃんの中じゃないか」と吉永さんが笑いかける。


「じゃあ、聞きますけど…。吉永さんは私がどうしたら女性らしくなれると思いますか?」


「え? 女性らしくねぇ…」と偉大な師匠は真剣に悩んでくれた。


 そして私の頭から爪先までじっと見て言った。


「可愛いけどなぁ…。別に女の子らしいし…。色仕掛けでもしようとしてるの?」


「あ、それです。色仕掛けって、どうしたらいいんですか?」


「小森ちゃんの色仕掛け…。よし、こうなったら、敵情視察を行う」


「ラジャー」と私は言って、二人でこっそり社食に入る。


「一番の色女の近くに座るぞ」


「はい」と言って、秘書課ナンバーワン美人の松川さんの席の机を一つ挟んで、向かい側に座る。


 彼女が食べているのものはサラダランチだった。そして赤い艶やかなリップグロス。私と吉永さんは目が奪われた。ゆるくカールさせた髪を片側に垂らして、時折髪をかき上げる。その度にいい香りがしそうだった。


「よし、会得したな。あれだ」と吉永さんが言う。


「はい。でも師匠、サラダランチは無理です」


「そんなこと言ってたら、いつまで経っても色仕掛けはできないぞ」


「う…」と言うことで、人生初のサラダランチを注文した。


 吉永さんはカツ丼を注文している。私は悲しい気持ちでサラダランチを持って席に着いた。ドレッシングをかけて、フォークでレタスを突き刺す。中に入っている。チキンのかけらが貴重に思える。後でコンビニに行こうと思っていると、吉永さんがカツ丼を持って来た。


(あー、美味しそう)と私の唾液がパブロフのように反応する。


「小森ちゃん。口、口、閉じて」


「あ、はい」と言いながら、私はカツ丼をじっと見ていた。


 サラダランチもカツ丼も三十円しか変わらない。


「う…う」と唸ると、師匠がカツを一つくれた。


「師匠、ありがとうございます」


「あー、もう、小森ちゃんには色仕掛けは無理だな…」と宣告されてしまった。


「そんなことないです。今からしますから…」と言って、カツを頂く。


 カツが五臓六腑に染み渡る。そこで私は髪をかき上げてみる。


「うーん。なんか違う。それ…『いらっしゃーい』って声が聞こえそう」と難しい顔をされる。


「えー? じゃあ、これはどうですか?」


「てへぺろって言ってない?」


「じゃあ…」と私は額が磨かれて光るんではないか、というくらい手で額を触る。


 いつまで経ってもOKが出ない。


「師匠…流石に…疲れました。カツください」と言うと、仕方ないなという感じでカツをくれようとした。


「十子ちゃん、何してるの? 芸人のマネ?」と中崎さんに特訓を見られたようだった。


 お昼が少しずれたらしくまだ何も買っていなかった。


「あ」


「今だ」と吉永さんにアイコンタクされる。


 まだ合格ラインには達していないようだったが、中崎さんの反応が知りたくて、私は目線を横にして髪をかき上げてみた。


「十子ちゃん、サラダだけで、また倒れるよ」と全く気付いてもらえなかった。


 吉永さんが笑いを堪えてる。もしかして…私は師匠に遊ばれてるのかもしれない、と微妙に心配になる。


「食べたいの、買ってくるから。何がいい?」と中崎さんに言われる。


「あ、大丈夫です…。後でコンビニ行きます」


 中崎さんが列に並びに行ったのを見ると、吉永さんは笑い出した。


「だめだ。小森ちゃん、だめだ。色仕掛けとか…全然、攻撃できてない。これで落とすのは無理だ」


「えー」


「まぁ…でもそんなことしなくていいんじゃないの?」と中崎さんの方を見て言う。


「そんなことないです」と言ってると、梶先輩が来た。


「どうしたの? 二人で楽しそうに」と私の横に座る。


「小森ちゃんが色仕掛けしたいそうです」


「色仕掛け? あ、それで朝から変なんだ」と梶先輩が言う。


「色気はどうやったら出ますか?」


「何? 何なの?」と梶先輩が驚く。


「小森ちゃんは色気がなくていいんだよ。可愛いだけで」と吉永さんに言われた。


 もう少し前に言われたら、ものすごくドキドキしただろうな、と思った。自分の気持ちの変化の早さに驚く。


「それでサラダランチにしてるの?」と梶先輩が私のランチを見る。


「…これは間違いでした」とレタスに再びフォークを突き刺す。


 しばらくして、中崎さんが来た。コロッケを私に一つくれた。嬉しいけれど、私はため息をついた。


「具合悪いの?」と中崎さんに言われる。


「こっちはこっちで鈍感なんだな」と吉永さんが言う。


「十子に色気って必要?」と梶先輩がダイレクトに聞いた。


「十子ちゃんに色気? え?」と驚いたような顔をする。


「小森ちゃんには必要ないと思うよ。そのままで」と吉永さんが言うと、中崎さんはちょっと焦ったような顔で言った。


「色気あるから」


(ではなぜ何もしてこない?)と私は首を傾げた。


「ご馳走様です」と私はお皿を片付けて、一人、コンビニに向かった。


 給湯室の彼女に今日はチョコレートを用意する。女子の極意を教えてくれたのだから、好きなものをプレゼントしようと思った。そして私はヨーグルトを買った。色々もらえたので、お腹は満たされていたけど、気持ちを満たすためにデザートとして買う。


 でも私が色気があったとして、中崎さんがその気になったとして、私の怖いという気持ちはどうなるんだろう、と思う。リアルに想像するとまた気持ち悪くなるから、私はなるべく考えないようにした。


 中崎さんは絶対に私としないという。私はできない。それはそれでうまく噛み合っているのだけれど、なぜか心が悲しい。

 私は自分の気持ちなのに、どうしようもなくて、そのまま会社に戻った。給湯室の小さな棚にクッキーが置かれていた。私も横にチョコを置いておく。


「相談乗ってくれて、助かった。ありがとう。私も…可愛いの買ってみる」


 ちらっと一瞬、こっちを見た。


「…うん」と微かに聞こえた。


 その短い声には「うまくいくといいね」という気持ちが込められている。幽霊とはいえ、友人と呼べるのではないだろうか…と私は思った。私がにっこり笑っていると、福井さんが入ってきた。


「あ、小森さん。彼女、いるの?」


「はい。います」


(下着の相談をしてましたとは言えない)と心の中で思った。


「あのね…。ごめんね。私、力になれなくて…」と福井さんは言った。


 彼女は俯いてしまって、動かない。それを実況するかは悩むところだった。


「彼女の名前はなんですか?」


「あ、彼女は岡本桃さん」


「桃さん…。可愛い名前ですね」


 名前を呼ばれて、少しビクッとしたようだった。


「そう…。桃さん…。本当にごめんね」


 福井さんがしたことは何もないから、謝られても困っているようだった。


「じゃあ…。また来るね」と言って、福井さんが出て行った。


「桃さん…。本当にありがとう」と私は給湯室から出た。


 桃さんをいじめた人は結婚退職したらしく、もうこの会社にいない。旦那さんの方はまだいるみたいだけれど、私は誰だか聞いていない。机に戻って、ヨーグルトを食べた。どうしたら成仏してくれるだろうか、と考えて、ため息をついた。

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