第68話

突然の恐怖



 ベッドで寝ていると、中崎さんの温もりに体が触れる。それが心地よくて、幸せだった。トラちゃんも肉体ないのに、ベッドの中に入り込む。あったかくて、幸せだねとトラちゃんの頭を撫でた。


「十子ちゃん?」


「あ、すみません。起こしましたか?」


「いや、何してるのかなって」


 私がトラちゃんを撫でるのが、多分、怖かったのか、中崎さんは怯えていた。


「トラちゃんが…入ってきて…」


「トラは成仏しないの?」


「えっと…。もうすぐです」


「…十子ちゃんのこと、トラが守ってるのかな」


「守ってる?」


「僕が手を出さないように…」と言うので、私は上半身をバネのように起こした。


「中崎さん、手を出すんですか?」


「…出さないよ」


 いつもと同じ返答なので、そのままベッドに倒れる。期待したのに…と思って目を閉じる。ただ私はその先をリアルに考えてしまった。期待したのはセックスだった? と自問自答した。私が見たセックスはあの紗奈さんの映像だった。


「十子ちゃん…」と中崎さんが体を横に向けて、私に掛け布団をかけてくれようと肩に手が伸びた時、なぜか私の体が固まった。


 黒い影を思い出す。紗奈さんの体験がリアルにリンクして、怖くなった。突然、震え始めた私を見て、中崎さんが驚いた。


「大丈夫?」


「あ…。あの…」


(急にどうして? 今更?)と私はパニックになった。


「ちょっと待って」と中崎さんはお茶を持ってきてくれる。


 私はベッドの上で丸くなって、息を細かくしていた。


「ゆっくりでいいから、深呼吸できる? できない?」


 私は首を横に振る。もう声もできない。苦しい。心臓が無駄に苦しくなって、取り出してしまいたくなる。中崎さんがお茶を横に置いて、今度はビニール袋を持ってきた。


「ここに、息を吐いて」


 口元にビニール袋を当てられる。息を吐いていくうちに、次第に苦しさがなくなってきた。


「パニック障害じゃない?」と中崎さんに言われた。


「パニック障害?」


「うん。何かあったのかな?」


「…あの…」と私は俯いた。


「どうしたの?」と優しく聞いてくれる。


「怖くて…」


「僕が?」と言うから首を思い切り横に振った。


 私は素直にある人の体験をリンクしてしまって、セックスが怖い、と伝えた。それは誰とは言わなかったが、中崎さんはなんとなく分かったようだった。あの時も一緒にいて、様子がおかしいのを知っているからだった。


「…僕は絶対しないから」


 そう言われたけれど、それはそれで私の気持ちが悲しくて、私は途方にくれた。


「お騒がせして、ごめんなさい」と私は呟くと、中崎さんがそっと抱きしめてくれた。


「怖かったね…」


 そう言ってもらえて、安堵の涙が溢れた。私の体験じゃないのに…と頭では分かっているのに、どうして…と思う。心が壊れている、と私は思った。泣きながら抱きしめられて、私は眠りについた。


 夢の中でトラちゃんが出てきた。人間の姿になっている。


「トーコ、大丈夫?」とトラちゃんまで心配してくれる。


「うん…。でも…やっぱりこう言うこと経験すると、壊れちゃうのかな」


「まぁ、仕方ないよね。怖かったんだもん」


「うん。怖かった」


 トラちゃんはしばらくじっと見て「トーマは大丈夫だよ」と言う。


「透馬さん?」


「うん。トーマは違うから。あんなやつとは…。だからね…。でも…。違うからね」


「うん。分かってる。優しいから…。あ、そういえば、最近、生霊とか死んだ人とかでも透馬さんのとこにいないんだけど」


「あー、それは…。前と違ってるから」


「やっぱり神社のご祈祷が?」


「うん。まぁ、それもあるけど、一番は本人が変わったんじゃないかな?」


「本人が?」


「そう。なんでもそうだけど、本人次第だからね」


「…そっか。じゃあ、安心だね」


「トーコは本当に行くの?」


「え?」


「うん。でも…トーコにはいいと思うよ。環境変えて…。そしたら少しは元気になれると思う」


 トラちゃんはそう言って、また猫に戻った。そしてちょっと悲しい私に寄り添うように、膝の上に座った。大丈夫。ちょっと怪我しただけで…治るから。私は温かさを探すように手を動かした。すぐ側にある温かさを見つけて。



 目が覚めると、私が中崎さんに抱きついていた。


「え?」と思わず声を出してしまう。


 中崎さんがくすくす笑う。


「起きてたんですか?」


「うん。だって…こそばくて」


「あ、ごめんなさい」


「いいよ。おはよう。キスしようか?」と体を起こす。


 顔が近づいてきて、私は思わず手で顔を隠した。急に恥ずかしくなる。


「あれ? いいの?」


「えっと、今日は大丈夫です」と指の隙間から中崎さんの表情を見た。


 少しがっかりしたような顔をしてくれる。そろっと顔から手を離す。ご飯を作ろうと起きあがろうとした時、横から中崎さんの手が伸びて、頬にキスされた。世界が眩しくなった。横目で見ると「おはよう」と笑っている。


「ございます」と付け加えた。


 朝ご飯を作りながら、私は中崎さんにファーストキスの話を聞いた。すごく話すのが嫌そうだったけど、しつこく聞いたから教えてくれた。高校生の頃、部活帰りで学校の廊下だそうだ。ものすごく嫉妬した。それは中崎さんのキスだけでなく、高校生活が充実しているように思えたからだった。


「その彼女とはどうして別れたんですか?」


「なんか…振られた」


「え? 振られ…中崎さんが?」と私は繰り返して聞く。


「他に好きな人ができたって」


 中崎さんと付き合っていて、他の人が好きになることなんてあるのだろうか、と思わず驚いて、目玉焼きが潰れてしまった。


「あぁ…」と私はフライパンを嘆いたけれど、中崎さんは自身のことを嘆かれたと思ったみたいだった。


「…まぁ、魅力なかったんじゃない?」


「え? 卵が?」と私は壊れた卵を悲しげに見た。


「卵は…食べたら一緒だよ」と中崎さんが慰めてくれる。


「でも好きな人に振られるって…辛いですね」と自身の気持ちも込めて言った。


「好き…? だったのかな。何だか付き合ってって言われて…付き合って…で終わってたから」


「じゃあ、一番好きだった人は?」と私は壊れた目玉焼きをお皿に乗せた。


 中崎さんはご飯をよそってくれる。


「好きだった人?」


「そうです。過去の恋人で一番好きな人」と私は醤油を少しかけた。


「…いないよ」


「え? 何人付き合ったんですか?」


「それは…覚えてないけど」


(言ってみたい台詞だ。ちなみに私はもちろん誰とも付き合っていない)


 私は唇を噛み締めて、目玉焼きを運んだ。


「あ…でも…中崎さんは…あの…好きでもない恋人と…致されたんですか?」と聞いてみたら、また困った顔をされた。


「十子ちゃん、流石にその質問は…」


「あ、ごめんなさい」


 興味本位でつい聞いてしまった。でも好きでもない人とできるのだろうか、と思って、やっぱり中崎さんを見てしまう。


「…しました」と白状してくれた。


「できるんだ…」と思わず心のつぶやきが声になる。


(あれ? じゃあ、私とはなんでしないの?)ともう一度、中崎さんを見た。


 中崎さんは私から顔を背けて、お茶を冷蔵庫に取りに行った。その原因はクマのパンツだろうか。やはりレースじゃないから? と思った。目下、私はできない心になってしまって、なんとか改善しなければいけないが、その前にどうして私とはしないのか、という問題も大きい。


「十子ちゃん…」とお茶をテーブルに置かれて、呼びかけられる。


「はい」


「ごめん」となぜか謝られた。


(これはクマのパンツを履く女はお断りだということだろうか。そうに違いない)


「あ、いえ。あの…こちらこそ申し訳ございません」と頭を下げる。


「え?」


「あ、わたくし、本日、寄り道したいところがありまして…。中崎さんがもし残業なら、食べたいもの用意しておきますし…えっと定時なら、お先にお帰りくださいませ」と言う。


「何? どうしたの?」


「あ、ちょっとしたお買い物です」


 私はできるできないの前にレースを入手した方がいいのではないか、と思った。潰れた目玉焼きは中途半端に固まって、食べ安いけれど、ちょっと残念な気持ちになった。

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