第5話

「!!?」


燈は驚愕する。比喩ではない。橘の歯があるべき場所がジッパーになってしまっている。口の端にはご丁寧に引き手がある。それが勝手に動き出し、右から左にスライドされると、橘の口はガッチリと固定され開かなくなってしまった。


「ー―! ー―!」


橘が何かを必死に言おうとするが、口が開かない為声にならない。そんな橘の異様な姿を、燈は呆然と見つめていた。


「ぶ、部長……」


燈は声をかける事しか出来ない。一体部長に何が起こったというのか。


「よし、これでいいか」


そんな中、ウィルの満足そうな声が聞こえた。部長があんな姿になってしまったというのに、異常なくらい落ち着いている。信じられないが、ウィルが何かをしたとしか思えなかった。


「あ、あなた部長に何かしたんですか…!?」


燈が身を引きながら尋ねると、ウィルは肩を竦めた。


「まぁね。お口にチャックをさせてもらった」


まるで幼稚園の先生が子供達に注意する時に使う可愛い言い方だが、目の前では実際に部長がお口をチャックされ、フガフガと鼻を鳴らしている。


「な……どうしてそんな事が…!」

「出来るかって? それは当然だよ」


ウィルはニコニコと笑いながら人指し指を立てた。


「何故なら……私が魔法使いだから、さ」

「……………は?」


一瞬彼が何を言っているか分からなかった。魔法使いとはあの魔女ガールくぅちゃんと同じ魔法を使うーー


「あ…りえないでしょ」


燈は首を振る。魔法使いなんて、空想上にしか存在しないはずだ。魔女ガールくぅちゃんは好きだが、あれはあくまでもフィクション。現実に魔法があったら、なんて事を思った事もあったが、それが叶う事なんて無い事を知っていた。だがーー


「普通の人にこんな事は出来ないだろう?」


ウィルがパチン、と指を鳴らした瞬間。彼のスーツの上に膝下までの長さのマントが現れた。スーツと同じ色のグレー。黒髪をすっぽり隠すようなフードには、紺色の刺繍が施されている。何処かの国の文字のように見えたが、見た事のないものだった。

目深のフードを指であげて、ウィルははにかんだ。


「どう? 似合ってる?」

「な……」


燈は開いた口が塞がらない状態だ。

長の口がジッパーになって、ウィルの姿が変わった。ウィルの姿はどちらかというと怪しい術を使うシャーマンのようだったが、今はそれどころではなかった。有り得ない事が起こりすぎて、燈の思考回路はショート寸前だった。


「どうしたの? ぼうっとして」


ぼうっとしていると勘違いしたウィルが燈の目の前で手を振る。


「………むぐっ」


橘は口を開けようと奮闘していたが、引き手の存在に気付き、それを無理矢理左から右にスライドさせた。


「……っ当たり前だろうが! 急にそんな魔法見せて!」

「え? だってこれが手っ取り早いかと思って。ほら、こっちでは“百聞は一見にしかず”ってことわざがあるだろう」


未だジッパーの形の口を動かして真っ赤な顔をして怒る橘とは打って変わってケロリと言うウィル。


「本当にお前は………!!」


橘は唇をわなわなと震わせたが、苛立ちを封じ込めて長く息を吐いた。


「……柊さん」

「……あ、はい……え?」


呆然としていた燈だったが、橘に両肩を掴まれて我に返る。目の前の橘の口はジッパーのままだったが、その真剣な瞳に燈の意識が覚醒した。


「見た通り彼は魔法使いだ。そして地球上には存在しない別の世界に住んでいる」

「……」


信じられない。だが橘がこんな時に冗談を言えるとは思えないし、何よりウィルが魔法を使う所を見ている。


「その世界の名はミレジカ。DREAM MAKER はその世界と取引をしている。…その事実を知っているのは上層部の人間のみだ」

「取引……」


ファンタジーな話に現実的な単語が混じり、違和感を覚える。それに、現実主義者だと思っていた橘が非現実的な事をすらすらと述べるものだから、これは夢なのかと思ってしまう。二人に見えないように手の甲を抓ってみたが、じんわりと痛みを感じた。夢じゃない。


「DREAM MAKER はミレジカから想像力を貰い、ミレジカはDREAM MAKER から有能な人材を得る。ギブアンドテイクってやつだね」


フードを指でつまんでずらしながらウィルが言った。橘はウィルを睨んでから咳払いをした。


「そして今回。ミレジカに人材を派遣するという事で柊さんが選ばれたんだ」

「そうなんですか………ってえ?」

「君には一ヶ月、ミレジカに行き、そこで働いてほしい」

「えぇっ!?」


衝撃的な内容に、燈は声を張り上げた。


「な、何故私がそんな世界に!?」

「上層部で話し合って決まった結果だ。あちらの暮らしになかなか慣れないと思うが、大丈夫だ。ウィルが君をサポートしてくれる」

「いやっ……でもそんな事突然言われても……!」


近場に出張だと思っていた。それなのに日本どころか、異世界だなんて。


「信じられないし、訳が分からないし、そんな異世界があるなんて信じられないし…!!」


言っている事がぐちゃぐちゃで自分でも訳が分からない。頭の中が混乱しているのは確かだ。


「大丈夫、少しすればミレジカの空気に慣れるよ」


非現実的な事をサラリという部長に目眩がする。車など乗り物の玩具メーカーから引き抜きでこの会社に入ったという橘。ロボット系は大丈夫なのだが、魔女ガールくぅちゃんなど現代風の玩具はどうもついていけないらしい。部長はファンタジーなゲームの世界観も分からないような現実主義者じゃなかっただろうか。この中では酷くうろたえる燈が浮いて見えた。


「大丈夫だよね、柊さん」


橘が燈に優しく問い掛ける。はい、と肯定したくなってしまう声色だ。しかし、それでもーー


「私っ………!」


そんな所に行けません!そう言おうとした時だった。


「燈」


穏やかな声が、燈の名を呼んだ。つられて顔を向けると、ウィルは目を細めて優しく微笑んでいた。フードを被った、この世界では異様な姿。それなのに、どうしてこうも魅力的なのだろう。蒼い瞳から、目が離せない。


「私達は君の事を待ち望んでいたよ。この日を、ずっと待っていた」

「……!」


ドキリと胸が高鳴る。ウィルの声が、笑顔が、燈の脳を支配する。


「君と話してみて、やっぱり想像通りの人だと思った。大丈夫……私がいるから、君は何も心配いらない。燈はただ私の側にいればいい」

「なっ……」


まるで告白のようで、燈は赤面する。ウィルは美しく微笑んで燈に手を差し伸べた。


「さあ、行こう」

「………」


思考がついていっていない。行きたくないと思っている。この会社の為に頑張ろうと思っていて、いつかは自分の発案した物が商品になればいいなと思う平凡な会社員で。こんな、大層な事に巻き込まれたくない。行ったら絶対に自分の平凡が終わってしまう。ーーそう、思っているはずなのに。燈の手は吸い込まれるようにウィルの手を取っていた。燈の手を握り、ウィルは嬉しそうに微笑んだ。


「じゃあ、早速行こうか」

「……あ」


しまった、と思った時は全てが遅かった。自分の行為は明らかに肯定のもの。今さら「やっぱり行けません」なんて言える雰囲気ではない。


「…あの、ウィルさん…?」

「もう時間がないから早く行かないと」


ウィルは燈を引っ張って応接室から出ていこうとする。


「ま、待ってください! せめて家族に電話だけでも…!」


時間を稼ごうと必死に足に力を込めるが、相手は男。燈の抵抗は無駄で、ズルズルと引きずられていく。話を全く聞かないウィルがパチンと指を鳴らすと、応接室の扉が水色の光に照らされた。何となく察した。この扉は廊下ではなく、別の世界……ミレジカと繋がっていると。


「ウィ、ウィルさん!」


燈は焦ってウィルの手を離そうとする。しかし、ウィルは燈を離そうとしない。そして反対の手が淡く光るドアノブを掴んだ。


「……ウィルさん!」


燈が最後の抵抗でウィルの手を引っ張った時だった。


「ウィルちょっと待て!」


橘は慌ててウィルを呼び止めた。燈はすがるような視線を橘に向けた。それはそうだ。部下が得体の知れない場所に行くのだから、心配で仕方がないはず………


「この口を直してから行ってくれ!!」

「ああ、そうだった。忘れていたよ」


ウィルが橘に向けて人指し指を向けると、ジッパーの口は元通りになった。口を触って元に戻っている事を確認すると、橘はほぅ、と安堵の溜め息を漏らした。それから唖然としている燈と目を合わせると、橘はニコリと歯を見せて笑った。


「じゃあ柊さん、気を付けて行ってきなさい」

「ぶ、ぶちょー!」

「よし、行くよ燈」


燈が返事をするのを待たず、ウィルは扉を開けた。眩い光が応接室を照らす。あまりの眩しさに、燈は目を瞑ってしまう。そんな中、橘の声が聞こえた。


「忘れちゃ駄目だよ、柊さん! そこでは君の常識は通用しないから!!」

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