第3話

すぼめた目で辺りを見回す。それにしても何故ブラインドが上がっているのだろうか。先程部長と話していた時はちゃんと下がっていたはずだ。とりあえずブラインドを下げようと前に進む。燈の手がブラインドの紐を引っ張ろうとした時だった。


「あ、待ってくれ。それを降ろさないでくれないか」

「!!」


男の声が聞こえ、燈は肩を跳ね上げた。部長のしわがれた声ではない、滑らかな声色。燈はブラインドの紐から手を離し、勢いよく振り返った。

そこにいたのはグレーのスーツを着た一人の青年。少々長めの黒髪に、蒼色の瞳。燈よりも少々年上に見える。そして何よりも燈を驚かせたのは、青年の異様なまでに整った容姿だった。白い肌にくっきりとした二重の瞳。鼻筋は高く、血色の良い唇。格好いいというより、綺麗という言葉が似合う。

こんな綺麗な人を初めて見た、と燈はそう思ったと同時に不思議に思う。入室した時に、人の気配なんて全くしなかったはずだった。呆然と青年を見つめていると、彼はクスリと微笑んだ。


「そんなに見つめないでよ、恥ずかしい」

「!!」


燈は顔を真っ赤にして背けた。


「あ…あなたはどちら様ですか…?」


こんなに綺麗な人がいたら忘れるわけがない。取引先の営業マンかもしれない、と思った燈は敬語で尋ねる。すると男はニコリと微笑んだ。


「私はウィルだよ」

「…ウィルさん…」


瞳が青いし、外国の人のようだ。会社名を名乗らなかったが、もう一度聞き返すのも失礼かと思い、燈は「失礼しました」と一礼した。


「君は?」

「私は……柊燈です」

「ヒイラギ…アカリ?」


ウィルは燈の名前を復唱すると、綺麗な二重の瞳を丸くさせた。


「君が、あの柊燈さんなのかな…?」

「え…私の名前…知っているんですか?」

「もちろんだよ」


ウィルは綺麗に笑う。その表情に燈の胸が高鳴るが、それと同時に戸惑ってしまう。社外にまで自分の名前が知られているなんて。だが、二年目の燈は祥子の補佐しかした事がなかったので、社外に名を知られる事などしていなかった。


「……えっと……失礼ですがウィルさんはどちらの会社の方ですか?私、ウィルさんを存じ上げていなくて…」


失礼かとは思ったが、知ったかぶるよりはましだ。燈は申し訳なさそうにウィルを上目遣いで見つめる。しかし、ウィルはそれに気分を害した様子はなく、穏やかな笑みを浮かべた。


「それは仕方がないよ。何せ、私はこちらの世界に滅多に来ないからね」

「そうですか……」


返事をしてから、違和感に気付く。サラリと聞き流しそうになったが、彼は『こちらの世界』と言った。まるで何処か違う世界から来たかのような言い方だ。外国の方だから、言葉を変に覚えてしまったのかもしれない。しかし、もしかしたら大切な取引会社の営業の人かもしれない。そう思うと、言葉を訂正する事は出来ず、曖昧に笑う事しか出来なかった。

ウィルはカツカツと靴音を響かせて、窓に近付く会社は都心にあるので、窓の外には高層ビルがいくつもある。人によって創られた無機質な物。それを見ながら、ウィルは目を細めた。


「ここから見る景色が好きでね。こっちへ来るとついここに立ち寄ってしまう」

「……でも、ここからはビルしか見えませんよ?」


燈の言う通り、 会議室の窓からは高層ビルが立ち並んでいる景色しか見えない。


「そう、高層ビル。私の世界にこんな建物はないからね」

「そう……なんですか」


彼は高層ビルがない田舎に住んでいるのか、と解釈した燈はうんうんと頷いた。


「……あ、そうだ。ウィルさん…ここでどなたかと待ち合わせているんですか?」


今更な質問だが、客のウィルが会議室にいるという事はもしかしたら誰かと打合せの為に待っているのでは…とふと思い至った。


「もしかして橘ですか?お呼びしますので少々お待ちを……」

「いや、もう済んだよ。話したい人とは話せたから」


一番可能性のある部長の名を出したが、ウィルは首を左右に振った。


「……そうですか」

「話も出来た事だし、私はそろそろ帰ろうかな」

「あ……もうお帰りですか」


ゆっくりと立ち上がるウィルを見て、何だか残念に思ってしまう自分がいる。美しい容姿を持っているのに、穏やかな雰囲気を漂わせる不思議な男。


「また、いらしてくださいね」


もう少し話していたいという欲を押し殺し、燈は営業スマイルを浮かべた。するとウィルから笑みが消え、蒼い瞳がすぅと細められる。


「……その笑顔、好きじゃないな」

「……え?」


何を言っているんだ…?と燈が目を丸くさせた時だった。ウィルがこちらに近付き、大きな手がそっと燈の頭を撫でた。


「え……えぇ!?」


突然の行動に燈の頬が一気に紅潮し、口を金魚のようにパクパクさせる。ウィルはニコリと優しく微笑んだ。


「作った笑顔より、そういう自然な顔の方が似合っているよ」

「……!!」


その言葉に、燈の顔は林檎のように真っ赤になってしまった。


「じゃあ、またね。柊さん」


燈の頭から手を離すと、綺麗な顔立ちをした彼は会議室から出ていった。撫でられた頭を触ってしばらく呆然とする燈。少ししてハッと我に返った燈は慌てて後を追おうと、勢いよく会議室の扉を開く。……しかし。


「あ、あれ…?」


左右を見渡しても、そこにウィルの姿はなかった。廊下を行き交うのはやや驚いた表情で燈に視線を送る見慣れた人達。グレーのスーツの男は何処にもいない。


「……どうした?柊」


首を捻っていると、背後から声を掛けられた。

振り向くと、そこには怪訝な表情を浮かべた若い男が立っていた。


「……あ。瀬野君」


燈の同期の瀬野秀哉だ。彼は燈と部署が違うので頻繁に会う事はないのだが、同期の中で一番話しやすいので、よく二人で飲みに行ったりしていた。明るく、嫌味がないので周りの人から好かれている。


「あのさ……今、ここから男の人が出て来なかった?」

「男の人?」

「うん、すごく格好いい人」


燈がそう言うと、瀬野は「へぇ?」と素っ頓狂な声を上げた。


「柊……お前頭でも打ったのか?」

「え?」

「会議室から出てきたのは……おまえだけだぞ?」


今度は燈が「へぇ?」と声を上げる番だった。


「いや…でも確かにウィルさんが私の前に出て行ったんだけど…」

「俺、ここにいたけど、柊しか出てきてないぞ?幻覚でも見たんじゃないか?」

「そんな事ないよ!だってさっき……!」


ウィルに頭を撫でられた事を思い出し、燈の顔はまた赤くなった。


「とうとう柊も疲れのあまりおかしくなったか。愚痴なら付き合うぞ。今日飲みにでも行くか?」

「……今日はいいや」


ウィルの事が気になり、燈はどうにも飲みに行く気分にはなれなかった。


「そうか、じゃあまた今度な」

「うん、じゃあね」


瀬野と別れ、燈は一人考え込む。頭の中ではウィルの事でいっぱいだった。

ウィルは何処の会社の人なのか。何故会議室にいたのか。誰と話したのか。…どうして瀬野がウィルの姿を見ていないのか。一人で考えても彼の謎は深まるばかりだった。美しく、不思議な雰囲気を纏った男。

ーー本当にいたの?

あんなにあった自信が音を立ててしぼんでいく。あんな人が存在している方が有り得ないと思えてきた。瀬野の言うとおり、幻覚を見てしまったのか。ウィルという取引先の営業を知っている人がいればこのモヤモヤが少し晴れるかもしれない。フロアに戻ってきた燈は早速ウィルの事を聞く事にした。しかしーー


「ウィル?そんな外国人と取引なんてしていないよ?」

「……聞いた事ないなぁ、そんな人」

「というか会議室は今日使う予定はなかったと思うけど…」


祥子ですらウィルを知らなかった。先程まで会議室に一緒にいた橘部長にも話を聞きたかったが、ちょうど席を外していた為、聞く事が出来なかった。

誰も知らない、見られていないウィル。やはりあの人は幻だったのだろうか。

燈は自嘲気味にフッと笑った。きっと疲れているのかもしれない。だからあんなに綺麗な幻を見たんだ。もう、考えるのは止めようと無理矢理納得し、燈はこれ以上ウィルという男の事を考えるのを止めた。

燈は忘れていた。『じゃあ、またね。柊さん』とウィルが言っていた事を。自分の頭にまだ撫でられた感触が残っていることを。そして……ウィルが話したかった相手が自分だったという事を知るのはもう少し後の事。

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