【追憶の宝石】
秋雨薫
第1話
体中に感じた衝撃で、意識が一瞬飛んでしまった。うっすらと目を開けると、一面広がる青空、やや古びた校舎。中庭に寝転がっていたようで、芝生の青い臭いが鼻腔をくすぐった。
ここで寝てしまっていたのだろうか。しかし、それでは先程の衝撃は何だったのか。寝ぼけ眼で空を見上げる。雲一つない快晴だ。ここから見る景色と変わらない。――魚が空を泳いでいるのを除いては。
青空が海だというかのように魚達は優雅に泳いでいる。大きさは手のひらサイズくらいだろうか。色鮮やかな魚が群をなすわけでもなく、自由気ままに進んでいる。
自分はまだ夢を見ているのだろうか、とぼんやりと考えた時――一人の男子生徒が慌てた様子で顔を覗き込んできた。
「お前大丈夫かよ!? あそこから落ちたんだぞ!!」
男子生徒が指差した先は屋上だ。だから身体全体に衝撃が起きたのか、と他人事のように思った。しかし、そうなると新たな疑問が現れる。校舎は四階建てなので落ちたらひとたまりもないはず。
「何で生きているんだろう」
「木がクッションになったお陰で助かったみたいだな!」
中庭には木が何本か植えられている。それに運よく助けられたらしい。自分の身体を見て見れば木の葉が何枚かくっついていた。それを落としながらゆっくりと身体を起こす。まだ頭がぼんやりしている。目の前を色鮮やかな魚が通り過ぎて行った。
「一体どうして屋上から落ちたんだよ?」
男子生徒には空を泳ぐ魚が見えていないのか、普通に問いかけてくる。頭を打って幻覚を見ているのだろうか。ぼうっとしてしまったが、男子生徒が質問してきた事を思い出した。
「え? あー、どうしてだろう。……あれ? 思い出せない。そもそも私……誰?」
「記憶喪失!? じゃあ俺の事も分からないって事……?」
全く分からない。自分の名前も、目の前にいる男子生徒も、何故自分が飛び降りたのかも。
ぼんやりとしていた頭が氷のように冷たくなっていくのを感じた。恐怖で身体が震える。
それを見て男子生徒は女子生徒の異変に気が付き、彼女の両肩を掴むと自分の方を見るよう促した。
「順を追って思い出していこう! 俺は春斗。お前の幼馴染。お前は明日香。この学校の高校二年生! オーケー?」
この時ようやく男子生徒――春斗の顔をしっかりと見た。明るい茶髪を短く切られており、やや童顔なので下手したら中学生にも見える。大きな瞳は彼の性格を表すかのように輝いていた。
「うん……? あまりしっくり来ない」
女子生徒――明日香は春斗の顔を見ても、自分の名前を知っても頭の中の霞みは取れない。
もう少し考えれば何か浮かぶだろうかとうんうん唸っていると、春斗が突然「うわ!」と叫び声を上げた。
「お前怪我しているじゃん! 保健室行くぞ!」
そう言われて春斗の視線の先を追えば、右膝をすりむいていた。見た瞬間、痛みがじんわりと広がっていく。四階から落ちたというのにこの傷だけで済んだのは幸運ではないか。
春斗に腕を引っ張られて立ち上がる。
「もう放課後だから保健室に先生いないかもしれないけれど……開いてはいるだろう!」
「放課後……?」
「ん? どうした?」
「あ、ううん。何でもない」
何だか引っかかった。今は放課後だっただろうか。空を見上げれば朝方のようなやや白みがかった色に見える。季節は春だから、放課後だったらもっと日が傾いているのではないか。
――まあ、それよりも魚が空を泳いでいるという時点でこの空はおかしいのだが。この異変は魚のせいなのかもしれない。
「そっか、今は春か」
「……季節は覚えているんだな」
春斗は少し嬉しそうな、寂しそうな、どちらとも取れる笑みを見せた。
***
この校舎には先生も生徒もいない。廊下では誰ともすれ違わなかった
職員室の前を通り過ぎる際に扉の窓から中を覗いてみる。先生はいない。その代わり水槽のように水が張っていて、その中を魚達が楽しそうに泳いでいる。
この扉を開けたらどうなるのだろうかと好奇心に駆られたが、嫌な予感がした為やめた。
歩きながら春斗に魚がいる事を話したが、彼の目には変わらない放課後が映っているらしい。明らかに自分の視界だけがおかしいのだ。
「頭打ったのか? もしかしたら記憶取り戻したら元通りになるかもな!」
春斗は楽観的で物事を深く考えないようだ。そして自分も同じようで、取り乱しても解決しないのだから放っておこうとのんびりと思った。
「明日香は海が好きだから、それが影響しているのかもなー」
春斗がそう言ったのだが、すぐに腑に落ちた。明日香はこの海のような校舎に恐れを持っていないし、むしろ好きだと思っていた。それはそういう意味だったのだ。
保健室は職員室のように水は張られていなかった。春斗の言った通り、保健室に先生はいなかった。
アルコールのような独特の臭いがする保健室は何処か心を落ち着かせてくれた。そういえば保健室へはよく来た気がする。自分が――というより誰かがよく怪我をするのでその付き添いだったような――
「もしかしてよく保健室に来た?」
「あ、思い出したか!?」
「ううん、何となく思っただけ」
「そうだよ。俺がサッカー部でお前がマネージャーでさ。よく転んで怪我したから明日香が付き添いでついて来てくれていたんだよ」
気のせいではなかったようだ。春斗は嬉しそうに笑う。その瞬間――春斗と一緒に保健室にいる記憶が蘇った。春斗はあの時の同じような笑顔を浮かべている。いつも膝を擦りむいて自分が消毒をしてあげた。今は春斗が明日香の膝を消毒し、絆創膏を張っている。
「俺とお前は母親同士が仲良くて小さい頃からよく遊んでいたんだよ。ほら、この傷跡。お前がかけっこで俺に勝とうと無理して転んだ時のやつ」
そう言って春斗は明日香の怪我していた反対の膝を指差す。目を凝らせば薄らと傷跡が見える。春斗と明日香は本当に幼馴染のようだ。
「春斗と私は本当に幼馴染なんだね」
「……おう」
「どうしたの?」
「いや、いつもハル君って言っていたから呼び捨てにされるの何だか照れるな」
春斗は照れ臭そうに後頭部を掻きながらそう言った。春斗と紹介されたから普通に呼び捨てにしてしまった。明日香は慌てて「ごめん」と謝った。
「あ、じゃあハル君?」
「あ! 春斗でいいよ! その方が……いや、何でもない」
春斗は不自然に言葉を切って顔を逸らした。何故か耳が赤くなっている。明日香は不思議に思い首を傾げた。
「それよりさ、もしかしてこの校舎を巡っていれば記憶を取り戻せるんじゃないか?」
「そうかな? それよりも家に帰った方が――」
「いや、絶対それが良い! 今日は時間あるだろう? 俺に付き合ってくれよ!」
春斗にそう言われ、明日香は思わず頷いてしまっていた。共に記憶を探っていけばこの奇妙な学校の真相が分かるかもしれない。記憶を失った娘が帰って来たら両親も驚いてしまう。
――そして。何故かそうしなければならない、と自分の心がそう叫んでいるような気がしたのだ。
怪我の処置が終わり、明日香達は保健室を後にする。
保健室で揺らめいていた魚が水面を跳ねるように動いた瞬間――その空間は無くなり、真っ白な世界だけが残された。
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