1 お転婆王女と魔獣の青年
第2話
長い冬が終わり、生命が眠りから目を覚ます季節。このマカニシア大陸では春が静かに訪れていた。マカニシア大陸の南にあるのがグルト王国。通年気候が安定しているこの国は食物の育ちが良く、人々は平穏な時を過ごしている。
グルト王国を統べるのが、リグルト=ノア=スノーダウン。聡明で国思いな王として有名で、国民から慕われている。マカニシア大陸では王族は側室を抱えるのが常考だが、リグルトには正妻しかおらず、子供は長女のアメルシアとその弟のアリソンがいる。
アリソンは次期国王としての教育が為され、剣術や武術も幼少期から叩きこまれて賢い男に育ったのだが、問題は――姉のアメルシアだ。小さな頃から勉強が嫌いで城内にじっとしておられず、隙を見計らっては城下町へと逃げ出すようなお転婆な王女だ。
スノーダウン家は元々色白できめ細やかな肌をしているのだが、毎日のように外へ出掛けていた王女の肌は小麦色に焼け、元に戻らなくなってしまった。しかし当の本人は気にしていない。
今日も城を抜け出そうと、自室のカーテンを繋ぎ合わせて近くの木へ飛び移ろうとしている。太股まである長い金の髪を頭の高い位置で纏め、やや釣り上ったエメラルドグリーンの瞳を輝かせるアメルシアは胸に瞳と同色のブローチを付けており、若緑色のノースリーブに亜麻色のショートパンツという、王族にあるまじき恰好である。煤竹色の肩掛け鞄を持ち、窓枠に足を掛ける。アメルシアの部屋は二階にあるので、どうしても木に飛び移るしか脱出方法が無い。
「アメルシア王女!」
カーテンにしがみついてそのまま飛びだそうとした時、背後から悲鳴のような声で名前を呼ばれる。振り返れば、アメルシアの召使いの一人である新人エマがちょうど自室に入って来た所だったようで、彼女は大きな目をこれでもかと見開き、身体を小刻みに震わせている。
「アメルシア王女……お、お止め下さい! 本日は隣国のカリバン国王子との会食がありますので、出掛けてはなりません!」
「それが嫌なの。アリーがいるんだから私はいいでしょ。あんな出来た弟はいないよ。会食が終わった後には戻るから!」
「アメルシア王女――!」
エマの叫びを無視して、アメルシアはカーテンにしがみついたまま勢いを付けると、窓枠から足を離して、すぐ側の木に飛び乗った。そして慣れた様子で枝を使いながら地面に下りた。開け放たれた窓から、エマが誰か助けを呼ぼうと叫んでいるのを聞きながら、アメルシアは鼻歌混じりに城を抜け出した。
***
城下町は城内には無い食べ物や嗜好品が売っていて、眺めるのが大好きだ。変装も全くせず素顔を晒して城下町の商店を見渡す。一国の王女がこんな所にいたら誰しも驚くはずなのだが、彼女が抜け出してここに来るのは日常茶飯事の事なので、誰も慌てず暢気に挨拶をする。
「王女、また抜け出して来たんですか? 国王からまた雷を落とされますよ?」
「いいの。お父様の雷はもう慣れたし」
果物を売る髭面の店主にそう返し、軽い足取りで商店街を歩く。道を歩く彼らと同じように商品を見て、購入する。
自分の好みの装飾品が手に入り上機嫌で街を歩いていると、一軒の酒飲み場が目に入った。アメルシアが城下町へ来ると必ず寄る場所だ。酒瓶が描かれた木製の看板が打ち付けられた扉を開いて中に入る。カウンター席しかないこじんまりとした店内。今は昼過ぎなので客は奥にいる二人組しかいない。アメルシアはいつも座る一番手前の席に腰掛けた。
「あら、アメリー王女いらっしゃい。今日は何にします?」
カウンターの奥でグラスを拭いていた女店主がアメルシアに気が付き、慣れた様子で声を掛ける。アメリーとはアメルシアの愛称だ。彼女は自分の名前が呼びづらいと思っており、周りにはアメリーと呼ぶよう伝えている。
アメルシア――アメリーはエメラルドグリーンの瞳を輝かせながら「いつもの!」と答えた。
少しして店主がグラスに注がれたジュースを持ってきてくれた。その日に採れた果実によって毎回味が違うのだが、今回は桃色だ。一口飲んでみると、柑橘系のような爽やかな風味がアメリーの喉を潤した。
「おばさん! 今日のジュースも美味しい!」
「ははは、そうかい。王女様に気に入って貰えて嬉しいですよ」
おまけのクッキーも貰い、アメリーはジュースを大事そうに飲みながら堪能する。店の外から聞こえる人々の活気ある声を聞きながら、アメリーは束の間の安らぎを感じる。
ジュースを全て飲み、そろそろ会計をしようとした時だった。
「……なあ、知っているか。リィスクレウムの目を持つ男の話――」
聞こえてきた声に、アメリーは動きを止めた。声の主は、奥にいる二人組の中の一人だった。外の喧騒で聞き取りにくかったので、アメリーは席を移動して彼らの話しが聞ける場所で耳を澄ませる。
「ああ、あれだろ。十八年前に魔物の森で右目が金色の赤ん坊が棄てられていたって話――」
「そうだ。ググ村の予言者である婆がリィスクレウムの復活を宣言したその日に現れた赤ん坊――伝承では、リィスクレウムの瞳は金色だったそうだ。だから、その赤ん坊はあの怪物の生まれ変わりだと言われている」
「金色の瞳だからって伝説の化け物扱いされちまうのかい。そりゃあ可愛そうなこった」
盗み聞きしながら、アメリーは同意の意を込めて何度も頷く。古くから伝わる魔獣、リィスクレウムの事は歴史を習う時に耳にたこが出来る程聞かされた。五百年前、マカニシア大陸に突如現れた蛇のような魔獣、リィスクレウムは人の数十倍もある体躯で大陸を更地にし、人や魔物関係無く殺したと伝えられている。その文献は多く遺されているが、どれもその最悪の魔獣を恐ろしいものだと表現されている。
そんな魔獣が、しかも人間の赤ん坊の姿で現れるわけがない。アメリーはそう思ったが、話を切り出した男は首を左右に振る。
「それがよ、その右目は赤ん坊が寝ている時でも瞼が開いているらしい。そして、顔を覗く人間を睨むのさ。怖くなったググ村の者達はその赤ん坊を殺そうとしたんだが――」
勿体ぶるように、男は一呼吸開ける。
「――死なないんだそうだ。槍で喉を突いても、剣で首を刎ねても、四肢を切断しても――身体がすぐに再生して傷一つなくなる」
「そりゃあ恐ろしいな。じゃあ、その赤ん坊は生きているっていうのかい」
「ああ。その男はググ村の近くの魔物の森に一人で住んでいるらしい。ああ、恐ろしい。早くあれを殺してくれないだろうか。英雄ヴィクトールがいたら奴の息の根を止められるのかねえ」
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