事もなげに言ってくる黒橋に俺も普通に、
「まあ、いいんじゃね?妥当な線だ」
と返す。すると、黒橋が若手の二人に視線を流し。
「お二人の初めての店出しへの若の【祝儀】です。翡翠さんが黒、香流さんが白。すっきりとして見せている翡翠さんとふんわりと見せている香流さん。イメージで選んでしまいましたが、よろしかったでしょうか?」
しかし。二人は呆然としたままだ。
そこに、琉音が柔らかいが強い声を出す。
「ぼやぼやしない!分からない?龍哉さんが香流と翡翠に時計、買ってくれたの!」
「「!」」
「琉音、優しくね」
「オーナー」
「ヴァシュロン・コンスタンタン、ね。いいのかい、龍哉」
「この間の礼にはまだ半分も足りてないんですがね。明日中に外商来ますから、対応お願いします、先輩」
「分かった」
「あ、あの…」
「そんな…」
ようやく脳みそが追いついてきたのかもしれない。
二人は間接照明の中でさえわかるほど蒼白になっている。
「ん?どした?」
「…二人とも。今、頭の中で考えていることは口から出さないように」
俺の能天気な声と冷静な西荻先輩の
「それは私達の【世界】には禁句だ。初対面であろうとなかろうと、ね。琉音、教えてあげなさい。うちの場合、お客様はまずキャストの服装のどこを見る?」
「んー、と。一概にはいい切れないけど。時計、靴、スーツ、かな。特に上位キャストになればなるほどね」
「!!」
「この三つを見れば、良いものを身につけるセンスだけじゃなく、どのぐらいのレベルの【お客様】が、何人、そのキャストを支えてるかまで分かっちゃうらしいよ?鼻が利くからね、お金持ちって」
「だから、お前達に祝儀として贈ってくれた龍哉の気持ちにこたえる為にも、」
と、そこで一端言葉を切ってから、先輩は若手二人の手首を掴む。
「一本四百万、お前達のその腕に巻いて、怖じ気ないぐらいの気概を、この瞬間から持ちなさい」
「……っ!」
言わなくてもいいのに。
「先輩~。野暮ですよ~。値段は」
「そうですよ、ちょっと龍哉さんの小遣いを減らせば済む事です」
「黒橋ぃ~」
「大丈夫ですよ、明日から尻を叩いて働かせますからね?遠慮なく受けて下さい。櫻様のお店のご繁盛はこの素直でないお方も願ってらっしゃいますから」
「「ありがとうございます!」」
「それでよろしい」
膝に付かんばかりに頭を下げてくる二人を見ながら、
俺に涼やかに目線を流してくる黒橋をふと見て、何も言えなくなる。そして何故かその視線、その表情に氷見も息を呑んだようになっている。
黒橋は笑っていた。
久しぶりに見る、黒橋の笑顔。
考えてみれば、氷見はそれを見るのが初めてなのかもしれなかった。
困ったような苦笑、シニカルな微笑み。ほとんど口角を上げぬ微苦笑が九割を占める男のふと見せたリラックスした笑み。それは懸念されていた碓井を巡る問題の点と点が繋がり、線となった事で、黒橋の心の中で、どこか張りつめていた琴線が緩んだのかもしれない。
俺の駒として、いつもどこか効果的に自分を見せざるを得ない男の我知らぬ笑みは周囲を
勿論、俺も、先輩も琉音も、氷見さえも表情一つ変えることはなかったけれど。
「それでは、そろそろお
黒橋が言い出したのは、それからさらに一時間後。
途中、先輩によってさりげなく席替えが行われ、琉音とオーナー、黒橋に囲まれて質問攻めされた氷見は、黒橋が絶妙にケアしていたにしても同情に値したし、取り残され、俺の相手をせざるを得なくなった香流と翡翠の緊張ぶりは、後から遅番で顔を出しにきた隆聖がフォローしたにしても完全には取りきれるものでもなし。
会わない時には何年も会わなくても、一度機会を作ってしまえば、お互いに期せずして何度も会ってしまう。そんな縁が俺と西荻先輩にもあるのかもしれなかった。今のところは俺からだけどね。
そして沢西と別れ、車へと向かい踏み出した、その瞬間。
「伏せろっ!」
黒橋の短く、強い声で。
俺は後ろを向いて、背後を守っていた氷見の頭を抱え込むようにして斜めに引き倒し、地に伏せる。
空気を切り裂き、微かに漂う硝煙の匂い。消音銃(サイレンサー)を使用しても硝煙の匂いばかりは誤魔化しようがない。当たらなかったのは幸いだった。
黒橋がすぐに俺にかけ寄る。
「貴方も氷見も無事ですか!どこか怪我は!」
「ないっ。相手は!」
「タイヤの音が急ぎで二時の方向へ。…追いますか」
「…いや、いい」
俺は氷見に向き直る。
地に倒された氷見は眼を見開いていたが、すぐにその瞳は力を取り戻す。
「平気か、氷見」
「はい、…大丈夫です。若、申し訳ございません。お身体を危険に…」
「そんなことはいい!本当に平気だな?」
「…はい」
身体を低くしながら国東の待つ車へと辿り着く。
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