人払いだとわかっていて何も言わず、俺と誓さんに一礼して氷見は退室してゆく。


「久しぶりにどん底までへこんでんな、龍坊。珍しい。よっぽど糞みたいな事言われたらしいな、その分だと」

「…ああ」

「男の嫉妬は恐ろしいね。…言っとくが下衆な色恋のほうじゃないぜ?俺の言ってんのは」」

「…?」

「生え抜きでもない出戻りの癖に、組で一番のエリートを補佐に引き抜いて、恋人は清瀧の若頭、困った時に手を差し伸べてくれる先輩は《Paradiesvogel》の西荻櫻。お前さんを地べたに這いつくばらせて服従させてみたいやつらはいくらもいるさ」


深水誓は俺の横の椅子にストン、と腰をおろして、新しい二つのグラスに酒を注ぐ。


「敵だろうが、味方だろうがな」

「…苛々するんだよ…っ」


低いうなるような声を俺はようやく声帯から絞るように口に出す。

誓さんは俺をちらりと見やる。


「詳しい事情は聞かねえよ。聞かなくたって分かる付き合いはしてきたつもりだからな。ただな、てめえの手駒、おとしめられてはらわた煮えるのは構わないが、それを当人に当たるのは筋違いじゃねえか?言われたのはあいつの事だろ?…俺はお前に苛々するよ」


カウンターをトントン、と叩くせわしない指先。


「誓…」

「何があったか、何を…隠してるのか。聞くのは当然だろ?黒橋くんは龍坊より七つも年長だ。護られるのを良しとしない性格な事くらい分かるだろ?上手く守れない自分自身の不手際をフォロー側にぶつけてんじゃねえよ」

「誓さん」

「可愛い子供だ、信じてる、っていくら口で言われたって。肝心な所でなんの言葉も貰えずに、親の抱えた重荷を持ちたい、自分と心を通じあってお互いに助け合いたい。そんな気持ちを無視される苦しみは『知っている』んじゃなかったのか? 桐生龍哉?」


俺の耳に彼が滑り込ませた棘のような呟き。


「………っ…!」


グラスの中味は減らぬまま、秒針だけが進んでゆく。


「ここには松下さんも来るからね。大人同士の話にゃ、可愛い【子供】の話も出るさ。特にまだ中坊の頃からお前さんを知ってる松下さんだからなあ」

「……」


俺は誓さんに返事を返せなかった。

重たい何かで頭を思いきり殴られたような鈍痛が脳をき、喉を塞ぐようで。


俺は馬鹿だ。

深水誓という、第三者に言われるまで、『それ』に気づかなかった。

事後承諾だ、単独行動だと周りに攻められても、直せないとやり過ごした『悪癖』。

その本当の奥底にあった真実。

自分と同類の人間に頼り、頼られる事で馴れ合うのを嫌い、最後の最後で突き放すことしか出来ない……。

そうか。

俺は知らぬ間にあのひとと同じ事をしようとしていたのか。

あの女と違う道を望んだ筈なのに。

あの眼を、表情を覚えている。

薄い氷の膜の中にいるように冷たく、孤独を宿したあの魂の跡を、俺は知らず知らず追おうとしていたのか……。


「頼りゃいいんだよ。頼らなきゃいけないんだよ」


誓さんの言葉は俺の胸をく。


「お前さんが若頭を襲名しゅうめいした時から、もう四年たってるよな?時間は流れ続けてる。状況も変わり続ける。今までは黒橋くんと二人三脚でやってきた。そうしなきゃいけなかった。でも内から外から変化の兆しはやってくる。その時が正念場なんだよ、龍坊。いつまでも自分だけでやろうとする意識を、ほんの少しだけ変えるんだよ。信念は変えずに、意識だけを。お前さんはよくやってきたし、今も周囲にとっちゃ大事な大事な存在だ。頼られて奮起する人間はいても嫌がる奴はいないと思うぜ?頼りになるのが二人に増えたことだしな?」

「誓さん…」

「久しぶりに真面目に兄さんぶったら腹減ったな。ここで作れんのは簡単なパスタくらいだけど、食うか?」

「食う」

「よし」


誓さんが横の椅子から立ち上がり、カウンターへ入る。

カウンターの隅の冷蔵庫をごそごそ探す、音。


「個室でも軽く食べたいって奴はいるから補充はしてるんだが。…あ、あった。ナスとしめじとチョリソー(ソーセージ)か。トマトパスタでいいか、適当で」

「贅沢言いません」

「殊勝なお前さんも気味悪い」

「だって、誓さんのパスタ、滅多に食えないけど激うまなのは舌が知ってるし」

「美味いかどうかはわからねぇぞ?お姫様の仇、討つかも知れんし」

「…心…、入れ替えます。淳騎にも明日、謝りますよ」

「それは必要ねえんじゃねえか?黒橋くんは多分全部分かってるよ。龍坊の心の動きが見切れなきゃ、お前さんのお守りなんて七面倒臭いこと、してるわけがねえじゃねえか。あんまり歳上を舐めてやるな。お前さんよりか歳上で、修羅場くぐった精鋭がひざまずいている理由を胸の奥で、よく、考えな?ほら、できたぞ、龍坊。それから氷見ちゃん、もう入ってきていいぞ。あんたの分もあるからな」


誓さんの言葉で。

音もなく、氷見が部屋に入ってくる。

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