そう、俺に言い、自ら血にけがれる事すらいとわぬ男に、俺の動揺を見せたくなかった。

自分の口から碓井が言った下卑げび科白せりふを言葉にして、黒橋の耳に入れたくなかった。

だから、言ってしまったのだ。意識を無理矢理にでも碓井から離させたくて。感づかれたくなくて。

苛つく心をぶつけてしまった。

自分の『自由』を俺に差し出して、俺の駒にその身をおとしてくれた相手に決して言ってはならなかった禁句を。


『好きにすればいい』


最低で、最悪で、卑怯な自分に、吐き気がする。


「…お二人は幸せですね」


思いに沈みかけたその時。俺だけに聞こえるように氷見が呟いた。

少し大きめにBGMのかかり始めた室内ではそうして声を落としきれば、カウンターの二人には聞こえない。


「…氷見」

「元々の要因である俺が、言うべきではないですが。若頭と補佐は【親子】としてお互いをきちんと護り、かばいあっておられる。…ある意味、とても羨ましい」

「!」

「…昭次様は私を大事にして下さった。身内に縁薄かった私を引き取り、文武両道授けて頂いたご恩は忘れる事は有りませんが、あの方が私と親子盃を交わして下さったのは英五さんの為です。私が英五さんの助けになるように、逃げないように、楔を打っただけです」

「………」

「…でも先々、昭次様が亡くなられたとして、英五さんが盃をやり直し、私を子にする筈は無いことは自明でした。己の頭の上にいつも居座る重石をわざわざ懐になど、あの人がするものですか」


氷見は哀しい、遠い眼をする。


「黒橋さんが訪ねて下さった時、私は明かしました。 私の盃は先代が亡くなられた時に共に眠ってしまったのだと」


伏せられた瞼が微かに震えているのが見える。


「氷見」


恩人のいない場所で、ただ飼い殺される日々の辛さはどれほどのものだったのか。


「便利で気が向けばすぐに棄てられる捨て駒。それが私でした。ですから、お二人が店にいらっしゃった時、心底驚いた。義理人情のすたれた今の極道の世界で、 お互いの為に命を張り合う…。羨ましいという感情を数年ぶりに思い出した、出来事でした」

「…これからはお前だって、そうなるさ」

「……」

「俺は死に駒、捨て駒は使わない。例え本人がそう望んでも」

「その代わりな~、この坊っちゃんは一人でちょこまかちょこまかワナ仕掛けたり、部下に代わって心に傷受けて、その傷口に塩塗りたくられても、ゲラゲラ笑ってるようなド変態だからな~。な~、龍哉くーん?」


しかしまあ、どこから聞いていたのか。

いつの間にか俺たちの後ろに立ってにこやかに笑っている、深水誓という、男。


あれから誓さんはカウンターの黒橋の相手に戻った筈。

そう思ってカウンターをみると。

あれ、黒橋?


黒橋はカウンターに上半身を伏せるようにして瞼を閉じている。

慌てて立とうとして誓さんに止められる。


「わざと潰したんだから起こすな」

「!」

「心配しなくても、変なモンは使ってねえよ。この店は俺のついの棲みかになる予定だからな?オーナー様を怒らせるような事はしねえよ」


誓さんは人の悪い笑みを浮かべてみせる。


「ただ、この歳まで生きてきて、俺ぐらい長く夜の世界を渡ってるとな、どの酒を、どう調合して割合を変えれば、男でも簡単に意識がオチちまうとか、わかっちまうもんなんだよ?」

「げっ」

「それを気づかれないようにすることも、な。…だって、ここに入ってきた時の黒橋くんの眼、ヤバかったもん。龍坊、何があったんだ?って、お前さんを問い詰めたくても、あの状態の黒橋くんに聞かれるわけにはいかないだろう?」


策士。彼にぴったりの言葉だ。


「ちょっとバックヤードの俺の仮眠用のソファーに寝かせてくる」


そう言うと、軽々と黒橋を両腕で抱き上げて部屋の出口に向かう。上背もかなりあって、痩身だがそれなりの重さもある黒橋を軽々と姫抱っこって。

色んな思いが駆け巡って複雑に苦虫噛み潰す俺の表情がまさか見えた訳でもあるまいに。

誓さんが首だけこちらを振り向いて。


「…逃げるなよ?若頭?」


そう言って消えてゆく。


「逃げるかよ…」


悔しいけれど。そう呟くのがせいぜいだった──。

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