第26話 蜘蛛の糸?
むかしむかし、あるところに、カンダタという悪漢がおりました。窃盗から殺人や放火まで、悪事を山ほど行って死に、地獄に堕ちました。しかし、こんな男でも、生前に蜘蛛を一匹助けたことがありました。初めは踏み殺そうとしたのですが、命あるものだからと思い直して、逃がしてやったのです。
これを天上からご覧になっていたのがお釈迦様です。カンダタは悪漢なれど、善行には報いねばなるまい。そうお考えになったお釈迦様は、天上から蜘蛛の糸を一本、地獄のカンダタへ向けて垂らされました。
カンダタは糸に気付くと、それを登って地獄を脱出しようとしました。その途中、ふと下を見ると、我も我もと地獄の亡者どもが糸に群がっています。重みで糸が切れては大変です。カンダタは大きな声を出しました。
「これは俺の糸だ。下りろ、下りろ。」
そう叫んだ途端、糸はぷつんと切れ、カンダタは地獄に真っ逆さまに落ちてしまいました。
「くっそー。あいつらさえ来なければ、糸は切れなかったのに!」
地獄に戻ったカンダタは地団太を踏んでいます。カンダタはむしゃくしゃして、殴る相手を探して周りを見回しました。しかし、糸が無くなったと見るや亡者たちは蜘蛛の子のように散っており、辺りには八つ当たりをする相手がほとんどいません。しょうがないので、カンダタは少し離れた場所でだるそうに座り込んでいる男のところに近寄って行きました。
「言っとくけど、俺は糸に触れてないからな。」
拳を振り上げたところで、カンダタは男に機先を制されました。
「ついでに言うと、お前が他の者に下りろと叫ぶまでは、どんなに沢山亡者がたかっていても糸は切れなかった。」
「だから何だ。」
「つまり、糸を切ったのは、亡者の重みではない。お前自身のあさましい心だ。」
「そんなもの、知ったことか!あさましいから、俺は地獄に堕ちたんだろうが!そんな俺に糸を垂らしたって、その途端に俺が清らかになるはずがないだろう!」
カンダタが逆切れして怒鳴ると、男は深く頷きました。
「そのとおりだ。全く、お前が正しい。」
カンダタが殴ろうとしても、大声を上げても、男は一向にひるまず落ち着いています。カンダタは肩透かしを食らったような気分で、振り上げた拳を下ろしました。
「俺が正しいなら、間違ってるのはお釈迦様か。」
「いや。間違いじゃないのさ。ただの策略だ。」
「策略?」
「そう。地獄から脱出する手段なんか無いっていうことを、俺たち亡者に教え諭すためのな。」
何だか、難しそうな話です。カンダタはお勉強は苦手です。ガリガリと頭を引っ掻いて、男の横にどかんと腰を下ろしました。
「よく分からん。」
「考えてもみろ。お前は、何故糸を垂らされた?何か善行をした覚えはあるか?」
「うーん…糸と言えば、蜘蛛を一匹気まぐれに逃がしてやったことがある。その他は盗んだり殺したり燃やしたりばかりで、善行なんてものは無いぜ。」
「殺し、盗み、火付けの重罪を幾度も犯したお前が、蜘蛛一匹助けただけで救いの糸を垂らされたわけだ。」
「うん。」
「ここには、お前ほどの罪を犯さず、お前以上に善行を積んだ者なんてゴロゴロいるぞ。」
そう言って男は立ち上がりました。とことこと歩いて、カンダタを別の人物のところに連れて行きます。男はカンダタにその人を紹介しました。血の池に沈んではいますが、穏やかで丁寧な物腰の人です。
「この人は貧しい家庭の子どもを相手に、ほぼ無償で読み書きを教えていた先生だ。」
「そんな徳の高そうな御仁が、何で地獄なんかにいるんだ。」
「飢饉の折に困窮して、たまらず村の蓄えの種もみを盗んで食った。」
「それだけか。」
「それだけだ。」
男にあっさりと言われて、カンダタはううむと唸りました。どう考えてもカンダタよりはるかに善人ですが、同じ血の池地獄で同じように浮き沈みしています。
「なぜ、この人に、その子どもたちの手が下りてこないんだ?」
「そう思うだろう。だが、この先生だけじゃない。俺ですらお前以上には生き物の命を助けているけれど、糸一本垂らされたことは無い。」
「ううむ」
「そして、お前に垂らされた糸だって、どだい地獄の罪人には登りきれそうにもない代物だろう。お前の言うとおり、糸を見た途端すぐに心清らかになれるなら、地獄なんて要らないはずだからな。」
「つまり、お釈迦様は、俺たち亡者を天上に引き上げるつもりは初めから無い、ということか。」
「そうだ。それを我々亡者に思い知らせ、絶望させ、地獄に縛り付けるために、お前が見せしめに利用されたのだ。」
もちろん、こんな理屈は地獄に堕ちたまま這い上がれないような亡者がこじつけたものです。彼らに、お釈迦様の尊いお考えやお慈悲を理解できる由もありません。が、同じ亡者たるカンダタは目から鱗が落ちる思いで、納得しきりです。
「だから、天上なんか行かない方が良いと俺は思うぞ。こんな底意地の悪いことを企むお釈迦様が牛耳ってる所なんて、居心地が悪いに決まってる。」
「なるほど、確かにな。でも、地獄はやっぱり文字通り地獄だ。天上は行きたくないが、地獄は出たい。」
「いや、地獄の方を良くしていけばいいんだよ。働き方改革ってやつだ。」
また難しい話のようです。カンダタはむむむと低く唸って、男の説明を待ちます。
「俺たちは今まで、常に一時の休みもなく鬼どもから責め苦を受け続けている。24時間働き詰めみたいなもんだ。」
「うん。」
「鬼だって大変だ。亡者は増える一方で減りゃしないし、それを責め続けなきゃいけないし、あいつらはあいらで24時間不眠不休だ。」
「うん。」
「だから、まずは鬼の働き方をまともにする。例えば、1日に8時間の労働とする。で、週に2日くらい休日を設ける。」
「うん。」
「すると、俺たちの責め苦も1日に8時間になる。しかも、休日もできる。」
「うん。」
「それくらいなら、まあ、我慢すりゃいいと思わないか。生きてた時に比べたら、ずっと楽だぜ?」
なるほど、とカンダタは膝を打ちました。遠回りなようで、確実な手段ではないでしょうか。
こうして、カンダタは男や先生、その他の亡者たちを巻き込んで、鬼の働き方改革を訴え始めました。男の見立て通り、休息無き重労働で疲弊しきっていた鬼たちは亡者の動きに心打たれました。すると、鬼たちも力を合わせて立ち上がります。徐々に、鬼たちの労働環境は改善され、原則週40時間勤務となり、超過勤務時間には上限が設けられ、4週8日以上の休日も設けられるようになりました。
ただ、男の目論見通りには事は運びませんでした。鬼は交代制の勤務体系を導入し、亡者への対応は24時間切れ目なく続いたからです。
「とはいえ、だ。」
と、カンダタはぬるい血の池地獄に肩まで浸かって、ふーと息を漏らしました。
「監視の人数がかなり減ったから、楽になったな。」
全ての鬼が問答無用で24時間フル稼働させられていたころと比べると、特定の時間に働く鬼の数はぐっと少なくなりました。おまけに、適切なワークライフバランスを手に入れた鬼たちの心にゆとりが生まれ、亡者への理不尽な要求もぐっと減っています。地獄は丸くなったのです。
「こんな生活ができるようになったのも、お前さんたちのおかげだよ。何なら、天上への口利きもしてやるけど、どうする?」
ぽこぽこと金棒でカンダタの背中を叩いていた鬼が言いました。金棒のイボがツボに当たって、肩凝りによく効きます。カンダタは気持ちよさそうにあくびをしました。
「いや、俺は地獄が良いよ。意地悪なお釈迦様もいないし、亡者や鬼の友達もいっぱいできたし。」
「天上に行かないと、生まれ変われないぞ。」
「良いんだ。現世なんて、ここよりよっぽどか地獄だよ。」
そう言うと、カンダタは血の池地獄に落っこちて溺れかけていた蜘蛛を手ですくって、地面に戻してやりました。今ではそんなことをいちいち覚えていられないくらいごく自然に、他人や動物に優しく振る舞えるようになっています。カンダタも心が丸く洗われてきたのです。ただ厳しく責め苦を与えるだけが、罪人の心を清らかにするわけではないようです。
などという様子を天上からご覧になっていたお釈迦様、自分も長期休暇が欲しくなって、ぷいっとどこかへお出かけになってしまいましたとさ。めでたし、めでたし。
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