ずっと君だけを見ている

二年近くが経過した三月下旬のある日の夜。


二人は一見いちげんさんお断りのレストランにいた。それぞれの卒業と、響の大学合格、悠の就職を祝うためだ。


響は、セミロングの長さまで伸びた濡れ羽色の髪をハーフアップにして、清楚でフォーマルなワンピースを纏っている。

ショートボブも可愛かったが、響はやはり長い髪がよく似合う。

先日のホワイトデーにあげたデパートコスメのリキッドルージュで彩られた紅い唇が凄絶なまでに色っぽい。


個室を予約しておいて良かった、と悠は内心思った。


「素敵なお店……私、浮かないかな」

「臆することはないよ」


エスコートすべくさり気なく手を差し伸べると、響の頬はほんのり染まり、深い青の瞳がわずかに潤んだ。


個室は華美で仰々しい要素はなく、洗練された内装だった。それでいてオレンジの照明が柔らかい雰囲気を出している。


個室でコース料理を味わう。

お嬢様育ちの響は、緊張を見せながらも優雅な所作でゆっくりと食べている。


「美味しい」

「気に入って貰えて良かったよ」


食事を進めていく毎に、響の緊張は少しずつ解けて、デザートのラズベリーのタルトが運ばれて来る頃には目を輝かせていた。

響の様子をスマートフォンに収めたかったが、場所が場所なので代わりに目に焼き付けておいた。





レストランを後にし、二人は手を繋いで家路を歩いている。


「すごく美味しかったよ。ありがとう」

「また行こうか」

「む、無理しないでね?」


談笑しながら歩いていると。


「桜、結構咲いたね」


途中、小さな神社にさしかかった。植えられている桜の大樹は、淡いピンクで彩られている。今年は平年より暖かい影響で、桜の開花がすでに満開に近い。

闇夜に浮かび上がるそれは幻想的だった。


夜桜に見とれる響を、悠は緊張した面持ちで見つめていた。


(心臓、吐きそう……)


人生でこれほど緊張したのは、生まれて初めてのことだった。


「響、」

「どうしたの?」


桜に向けられていた双眸が悠に向けられる。


「左手を出してくれる?」


響は悠の意図を理解していない様子で、きょとんとなりながら悠の前に左手を差し出した。

悠は響の手を取ると、薬指に指輪を通した。プラチナのシンプルなミルグレインがあしらったデザインだ。


「これって……」

「俺はまだ、就職が決まったばかりの未熟者だけど……」


一度口を噤むと、伏せた目を響に向けて射抜くように見つめた。


「――――響が大学を卒業したら、俺と結婚してください」


突然のプロポーズに、響はぽかんと口を半開きにさせたまま呆然と悠を見つめている。

だんまりをしたまま数分が経過した。


「あの、悠くん……私の頬っぺを思い切り叩いてくれる?」


急に突拍子もないことを言い出した。


「どうして、いきなり」

「だって、夢見てるみたいで……私、場酔いしちゃって、都合のいい幻聴を聞いているのかなって……」

「響のお願いでも、叩く真似は出来ないよ。ちゃんと現実だから」


響は、未だに目の前の指輪を信じられないようなもので見つめていた。


「私で、いいの……?」


一筋の涙が響の頬を伝うと同時に、悠は響を腕の中に閉じ込めた。


「響がいい」


見初めた頃から六年以上が経つが、飽きるどころか、渇望してやまない。


「お願い、します……っ」


背中に響の腕が回った。


双眸に浮かぶ大粒の雫がきらめいて、左手の薬指を飾る指輪よりずっと綺麗だと思った。


しばらく抱き締め合ったままでいると、腕の中にいる響はぽつりと呟いた。


「あの、わがままを、言ってもいい?」

「いいよ」


響のわがままは貴重だ。

何を切り出すのかが楽しみで、悠の口角が自然と上がっていた。


「この先、職場の女性ひとに告白されたら、婚約者がいるって言って欲しいの」


(いじらしくて、可愛いおねだり)


独占欲を露わにさせる響が可愛くて、思わず頬が緩んでしまう。

響のような“重い女”は、世間の男は忌避きひしがちだが、悠はそんな男共を愚かだと思う。

こんなに一生懸命愛情表現をして、自分を求める姿に価値を見い出せない馬鹿だと。


「心配しないで。ちゃんと言うよ」


悠は、響に独占欲や嫉妬を隠さずに打ち明けるように教育した。

環との浮気疑惑でされた無視で相当堪えたことを持ち出して、響の罪悪感を刺激させたら、口にしてくれるようになった。


「響も大学の講義が終わったら寄り道しないでまっすぐ帰ってね」


悠が言っている内容は、束縛と何ら変わりない。

しかし、響は熱を孕んだ瞳を悠に向けて、嬉しそうに大きく頷いている。


響の無垢な心は見えない鎖が何重にも巻き付けられている。


縛り付けられている認識がない……させないようにしている。

言いつけを守れば、その都度甘い言葉を囁いて可愛がって、響をどろどろに溶かしてやった。


(響は完全に袋の鼠だ。四年後が待ち遠しいよ)


今にも企みを含む笑みがこぼれ落ちそうだ。悠は響に見られないように、軋むほど更にきつく抱き締めた。






――――更に二年が経過した。


寒さがまだまだ厳しい一月の末。悠と響は川端のバーに赴いた。

響は四年前、悠が月見里に刺されて意識不明になっている間に、川端に連れられて一度寄ったことがあったと教えてくれた。


店内に足を踏み入れると、川端が二人を出迎えた。


「結婚おめでとー。お祝いに俺が奢るよ」

「ありがとうございます」


悠と響はカウンター席に着くと、同時に礼を述べた。最近、悠と響は婚姻届を出した。


本来は響の大学卒業後に籍を入れる予定だった。

しかし、悠の実父が悠に縁談相手を宛がってきたため、助けを乞うように響の父に婚姻の許可を取った。

あの父は己の思い通りにことを運ぶためなら、響を排除することを厭わない。

悠がこれまで害虫を駆除してきたように。


数日前、響と役所へ赴き、前もって書いた婚姻届を提出した。二人は婚約者の関係に終止符を打ち、名実共に夫婦になった。


「お前ら、何飲む?」

「俺はマティーニで」

「りょーかい。響ちゃん、どんなお酒が好きなの?」


三ヶ月程前、響は二十歳の誕生日を迎えた。


「甘めのワインが好きです。沢山は飲めませんけど」

「ワインベースのもの作るね」

「お願いします」


響はあまり酒は強くなかった。

下戸ではないが、一定量を飲んでしまうと、悪酔いして豹変してしまう。

完全に酔っ払った響の姿は、悠にとってはある意味役得だが、極力他の人に見せたくない。

それ故に響と飲む時は、基本家が多かった。


しばらくして、響の前に小さなグラスが置かれた。


「赤ワインですか?」

「キティだよ。ジンジャエールで割るんだよ。響ちゃん猫好きだからぴったり」

「ありがとうございます」


響はグラスを手にし、アルコールを一口含んだ。


「美味しいです」


キティを飲んだ後、響はおかわりを所望したが、悠がそれを制して代わりにシャーリーテンプルを頼んだ。

ノンアルコールカクテルも美味しそうに飲んでいたが、しばらくすると最初に飲んだ分のアルコールが回ってきたのか次第にうとうとしだした。

やがて、響は睡魔に抗えずカウンターテーブルに突っ伏して眠りに落ちた。


「響ちゃん、本当に酒強くないね。ジンジャーエール多目に入れたんだけどな」

「ここ数日、無茶させたのもありますけどね」

「お前……そっち方面も畜生だな」

「人聞きの悪いこと言わないでください。俺に倒錯的な趣味はありませんから」


皆まで言わなくても、川端は察したのか呆れを隠さず物言いたげな眼差しを悠に向けた。

婚姻届を出してから連日夜更けまで求め合った。響の声を枯らすほど散々鳴かせたものだ。


「籍入れたってことは、響ちゃんは大学辞めさせるの?」

「いや、辞めさせませんよ」


悠の返答に、川端は手にしていたシェーカーを派手に落とした。大きな音が店内に響き渡ったが、響は相変わらずすやすやと眠っている。


「お前のことだから、専業主婦になってもらって家に閉じ込めるもんだと思ってた」

「始めは考えていましたよ」


考えていたのかよ……と言う川端の呆れ声は聞こえない振りをする。


「でも、もし専業主婦だと俺が働いている間、響の監視が出来ないんですよ」

「だろうな」

「だからお義父さんの望み通りに響が跡を継いで、俺が秘書になれば響の一日を管理することが出来ると気付いたんです」

「やっぱりお前は通常運転だな」


川端は盛大に嘆息した。


「大学は辞めて欲しいけど、卒業まで辛抱します」

「響ちゃん女子大だから心配しなくてもいいんじゃねえの?」


響の異性に対する恐怖は少しだけ和らいだが、高校卒業後は某国公立の女子大に進学した。


「共学よりマシだけど、全く安心出来ません」


悠はかぶりを振って否定した。

女子大に通っていても、合コンやインカレサークルなど異性と出会う機会はいくらでもある。

実際、既に響を合コンに誘った女子を秘密裏に駆除している。

ちなみに彼女と響は友人ではなく接点はない。

大学でも響はひとりぼっちだ。

持ち前の美貌は磨きにかかり、同性しかいない学内でも孤高の高嶺の花として遠巻きに見られている。


「同性のダチくらい許せよ。人間関係が希薄だと響ちゃん苦労するよ」

「……俺がいるのに?」


例え、響がコミュ障を酷くこじらせて、仕事が出来ない無能な子になろうが関係ない。

こちらが全面的にサポートしてあげればいい。

傀儡かいらいだとか、牛耳ぎゅうじるとかそんな見方をする者がいてもおかしくないが、響をつつがなく監視出来るなら手段は選ばない。


「もう籍入れちゃったし、響ちゃんはもう北川から逃げられないな」


川端の発言に聞き捨てならない部分があった。


「川端さん、違いますよ」

「違わねえだろ」

「響が誰から逃げられないって言いました?」

「北川、お前だろ」

「……改姓したのは俺の方ですよ」

「ああ、そういうことか」


川端はようやく悠の言いたいことを理解したのか、自分の膝を叩いた。


「響にあの忌々しい姓を名乗らせる訳がないでしょ」


婚姻届を記入する際、『婚姻後の夫婦の氏』の欄にある『妻の氏』にチェックを入れた。

役所に届が受理された瞬間をもって、悠は笹山悠になった。


職場では便宜上旧姓を名乗っているが、響と同じ姓を名乗れる事実は悠に高揚感をもたらす。

臨終する瞬間までこの姓で生きていく所存だ。仮に響が離婚を望んだとしても、無論受け入れる気は全くない。


「じゃあ、なんて呼べばいいんだ? 俺、下の名前は女の子にしか呼びたくない」

「これからは、笹山と呼んでください」


悠は、夢の中にいる響の髪を撫でながら、目を細めて川端に笑いかけた。




(完)

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