蛍を見に

第49話

 今日は稚沙ちさ椋毘登くらひとと一緒に、蛍を見にいく約束した日である。本来であればとても心をおどらせ、浮き立つ思いに駆られることだろう。


 だが先日の境部摩理勢さかいべのまりせとのやり取りがあったばかりなのため、彼女は今釈然としない心持ちでいる。


(椋毘登には、境部摩理勢と会ったことはまだ話してない)


 あんな恐ろしい思いをしたことなど、できることなら彼には話したくない。

 もし実際に話してしまえば、彼は自身を追い詰めてしまうかもしれないと、稚沙は思った。


 だがそれとは別に、この日を楽しみにしていたのも本心で、この件で余りクヨクヨもしたくなかった。


「こら稚沙、いつまでも悩んでいても仕方ないでしょ!ちゃんと気持ちを切り替えないと!!」


 彼女は自信を奮い立たせるため、両手を思いっきりグーにして声を上げた。ここは己に喝を入れて、一刻も早く立ち直りたいものである。



 今日は椋毘登が小墾田宮おはりだのみやまで、稚沙を迎えにやってくる手筈になっている。

 なのでそんな彼がくるのを、彼女は今か今かと待ちわびていた。


「でも椋毘登って、本当に遅刻することが少ないのよね。私なんて待ち合わせの場所にはよく遅れてくるから....」


 これは本人曰く、自身が遅刻して稚沙を不安にさせたくないとのことだった。


 それは過去に、彼女が厩戸皇子うまやどのみことの待ち合わせで、皇子がこられなくなった時のこと。彼女は危うく柄の悪い男たちに連れて行かれそうになった。

 なので待ち合わせ場所も、小墾田宮の外では絶対にしないよう決められていた。


「椋毘登って、変なところで心配性なのよね」


 稚沙がそんなことをぼやいている時だった。彼女の目の前に、3歳ぐらいの小さい男の子がなぜか1人できょろきょろと歩いているのが見える。


(あれ、もしかして迷子かな?)


 稚沙はその小さな男の子の様子がどうも気になり、思わずそばにかけよると、ふと声をかけてみた。


「きみ、どうしたの?」


「おっとうが、いなくなっちゃった」


「え、お父さんが?」


 稚沙はそれを聞いて、慌ててあたりを見渡してみる。だがまわりで子供を探していそうな大人の男性は見当たらない。


(うーん、宮の中に子供も置いてきぼりにするとも考えにくい。きっとこの子の父親も、どこかで必死で探しているはず)


「ねぇ、きみのお父さんって、どんな感じの人?」


「うーんとね、体がすごい大きくて、いっぱい荷物を持ってるよ」


「今日は仕事できているの?」


「うん」


 それから男の子は稚沙を相手に、少ないことば数で、何とか必死に今日ここにきた理由を説明してくれた。


 どうやら父親は自身が仕えている主の使いで、今日は小墾田宮にきているようだ。

 そして自身の妻の出産が近いため、それでこの男の子を連れ立っているとのこと。


(この男の子わりと元気そうだし、子育てに不慣れな父親が、うっかり目を離した隙に、動きまわってしまったのかも)


 これは稚沙自身も経験のあることだった。彼女がもっと幼かったころ、父親が馬の納品のために、本人を連れて小墾田宮にきたことがあった。


 だが彼女は宮にくるのはこの時が初めてだっため、ついつい浮かれてしまい、うっかり父親とはぐれてしまったのだ。


 そして背中に荷物を背負ったまま、この付近をさんざん泣いて歩きまわっていた。


(あの時も『とうさま、とうさま』とすごい泣き叫んでいたっけ...)


 稚沙もこの男の子の、不安や心細さは痛いほど理解できる。なのでここは何とかして、彼の父親を見つけてあげたいと思った。


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