第6話

「はぁー、あのな稚沙ちさ。俺がそんな所に行く訳ないだろ」


「へえ?」


 彼のその一言で、二人の間に流れていた甘い雰囲気が一瞬のうちにこわれた。というより、稚沙にとってはかなりの衝撃だろう。


「だいたい歌が詠みたいなら、宮の人達とやり合ったら良いだろう。お前も、そんなことにいちいち俺を巻き込むな!」


 古麻こまも自分が必死でお願いすれば、椋毘登くらひともきっと聞いてくれるといっていた。だが実際のところ、それは全くの検討違いだった。


「な、何よ、ちょっとぐらい私のお願いごとを聞いてくれたって……それに、何もそんな言い方ってないじゃない!」


 稚沙はそんな椋毘登の態度にたいして、ふと我慢が出来なくなり、彼女の目からは大粒の涙が溢れだした。


 椋毘登もそんな彼女を見て、さすがにまずいと思った。ここは建物の裏道だ、いつ人に見られてしまうかも分からない。


「お、おい。稚沙落着けよ。ここはさすがにまずい……」


 だが稚沙にはそんな彼の言葉は全く響かない。そして勢いに任せ、彼女はさらに言葉を発した。


「椋毘登は本当に私のことを何だと思っているのよ!やっぱり私のことなんて、全然大切じゃないんだー!!」


 そして彼女は、ワンワンと声を出し、その場で泣き始めてしまった。


「椋毘登のばか~」


 椋毘登もそんな彼女の光景を目の当たりにし、完全にお手上げ状態となる。これはもう本当に、どうしようもない展開だ。


「わ、分かった!稚沙。行けば良いんだろ、行けば。お前の話すその歌垣に一緒について行ってやるって!」


 それまでワンワンと泣いていた稚沙だが、椋毘登のその発言を聞いた途端、急に泣き声がピタッと止んだ。そしてそのまま彼に目線を向けて、再度問う。


「ほ、本当に行ってくれる……?」


「あぁ」


「本当に本当?」


「あぁ、本当に本当だ。だからお前もいい加減に機嫌をなおせ!」


 稚沙もそれを聞いてやっと納得することができた。彼にそういって貰えるなら、自身の機嫌なんてたちまち良くなる。


(これで椋毘登と一緒に歌垣に参加出来る)


「あぁ、良かった。これで歌垣に参加できるわ。それに古麻からもいわれていたの。椋毘登なら絶対私のお願いを聞いてくれるって!」


 稚沙は椋毘登にそう話すと、自身の顔に笑が戻ってきた。彼女は割と単純な性格なので、悲しい気持ちもちょっと泣けば直ぐに治まる。


「はあー古麻も本当にやっかいなことを稚沙に話してくれるな。で、歌垣の日程はいつなんだ?それと海石榴市つばいちなら馬で行った方が良さそうだ」


 椋毘登もまだ少し愚痴はこぼすものの、完全に開き直ってしまう。彼も一度行くといってしまった以上、もういい逃れは出来ないのだろう。


「うん、来月の4月15日にあるそう。その日は私も休みにしてもらうよう頼んでみる。椋毘登は大丈夫?」


「分かった、来月の15日だな。じゃあ俺もその日は空けておくようにするよ」


 これでようやく2人の歌垣の参加が決まった。当日は椋毘登が馬で連れて行ってくれる様子なので、行き帰りも特に問題は無さそうだ。


(わあ、これで無事歌垣に参加出来る。あ、それなら当日までに歌の練習もしておかないと!)


 稚沙はそう思ってひどく気合を入れる。彼女は当日が本当に楽しみになってきたようだ。


 だが 一方の椋毘登は、稚沙とは対照的に酷く憂鬱そうな様子である。そしてとても嬉しいそうにしている彼女に対して小さく呟いた。


「てか、お前。歌垣がどういう場所なのか本当に知っているのか」


「うん?椋毘登何かいった?」


「……いや、何んでもない」


 だが椋毘登は、稚沙があまりに嬉しそうなため、それ以上は何もいわなかった。



 こうして2人は歌垣に向けて、それぞの想いを胸に当日を迎えることとなった。

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