炊屋姫の誓願

第8話

 この日、炊屋姫かしきやひめは諸した者達の前に現れ、誓願せいがんを発する。そして皆で改めて心を一つにし、この国の繁栄を祈っていくのだ。


 そのために、ここ小墾田宮おはりだのみやには炊屋姫の命により沢山の人達が集まり始めていた。


 宮の使用人達は、集まった人達をすぐさま朝庭ちょうていへと移動させていく。


 女官の稚沙ちさも、その手伝いで今日は忙しく働いていた。たがこれほど多くの人を迎え入れるのは彼女自身も初めての経験である。


「稚沙、早くこれを運んでちょうだい!それから白銅鏡まそかがみの台の周りを綺麗に拭いておくのよ」


「ちょっと、稚沙!これ頼んでいた物と違うじゃない。急いで倉庫から取ってきなさいよ!!」


 彼女はここの宮では最年少であり、一番経験の浅い女官である。

 そのために他の女官達は皆、彼女に容赦無しに指示を出していった。


(まさか、こんなに忙しいなんて)


 今日は大王の炊屋姫が詔して、大和とその周辺から沢山の人々がやってきていた。

 そのせいだろうか、日頃の務め以上に宮仕えの者達の目が、皆とても厳しくなっている。


 そんな中で、もし何か粗相でもあればただでは済まされない。


(とにかく、ここさえ乗り切れば……その後は炊屋姫様がお出になられる)



 そして稚沙が忙しくしていると「おぉ、稚沙じゃないか!」と誰かが急に声をかけてきた。


 彼女が思わず振り向くと、そこには一人の中年の男性が立っていた。


「あ、比羅夫ひらぶの叔父さま!」


 彼女がそう呼んだ人物は、額田部比羅夫ぬかたべのひらぶと呼ばれる人物で、稚沙のいる額田部ぬかたべの者だ。

 かばねむらじで、厩戸皇子うまやどのみこが発令した冠位十二階のうち、彼は大礼を授かっている。


 そして彼は稚沙の父親の従兄弟という間柄で、彼女を小墾田宮の女官に推薦した人物でもある。


 額田部比羅夫は稚沙を確認すると、直ぐさま彼女の元にやってきた。


「どうだ、稚沙。宮での仕事にはだいぶ慣れたか?」


 彼は割りと気さくな性格で、皇族や他の豪族の人達からも、とても慕われていた。


 そして稚沙自身も、そんな比羅夫のことが大好きである。


「はい、お陰さまで。ただ今日は本当に忙しくて、私は怒られてばかりで……」


 彼女はそういうと、少しシュンとする。


 彼は自身を宮の女官に推薦してくれた人物だ。にも関わらず、今日は中々良い所が見せられそうもない。


 それを聞いた額田部比羅夫は、その場で思わず笑いだした。


「稚沙、お前はまだ女官になって1年と半年ぐらいだろ?それなのにこんな晴れ舞台で働いているんだ。そのことにもっと誇りを持ったら良い」


 額田部比羅夫は稚沙にそういうと、彼女の頭を軽くぽんぽんと撫でてくれた。


(お、叔父様……)


 それを聞いた稚沙は、思わず涙腺が少し緩んでくる。今日はずっと気を張っていたので、彼の言葉が今はとても身に染みる思いだ。


「叔父様、私はまだまだ半人前だけど、頑張っていつか立派な女官になりたいです!」


 彼女は少し泣きそうになりながらも、何とか笑ってそう答えた。


 そんな稚沙を見た比羅夫は「そうだ、そうだ、まだまだこれからじゃないか。お前ならきっと大丈夫だ!」といって彼女を励ましてくれた。


(比羅夫の叔父様、私頑張ります!)



 その後しばらくして彼は稚沙にいった。


「じゃ私は行くよ。向こうに宇志うし殿がいるようなので、挨拶をしておかないとな」


 彼のいう宇志とは、平群宇志へぐりのうしと呼ばれる人物だ。彼は額田部の同族で、平群氏一の実力者であった。

 そして大礼の位にいる額田部比羅夫よりもさらに高い、小徳しょうとくの位を彼は授かっている。


「はい、分かりました。では宇志様にも宜しくお伝え下さい!」


 稚沙はそういってから、手を大きくふって額田部比羅夫を見送った。


(今日は比羅夫の叔父さまに会えて、本当に良かった)


 額田部比羅夫の姿を見送った彼女は、その後は自身の持ち場へと戻っていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る