第2話
第2話:ハニーレモン、君とあの子は恋をする
ハニーレモン、君とあの子は恋をする。
(…いい匂い)
スンッと思わず恋は鼻をすする。
ハニーレモンの、甘酸っぱい匂い。
さっぱりしているようで、それでもどこか優しく残るーー
「…ねぇ」
気づけば、その子に声をかけていた。
「…蜜っていい匂いするよね。」
「うぇ!?い、いきなりどうしたの。」
恋は蜜のサラサラの長い髪の毛先を、少し持って鼻に近づける。
その仕草に、びっくりしたような反応を示す。
キュンっと恋の心臓が跳ねる。
蜜は可愛い。
淡い茶色の、サラサラとした髪。
ぱっちりした目に、小さなアヒル口。
素直で初心だが、身体はしっかり女の子で、胸の成長は止まることを知らない。
そんな優しくて可愛い、守ってあげたくなるようなーーそんな蜜の事が恋は好きだった。
別に匂いフェチと言う訳では無いが、蜜との出会いは匂いから始まったものではある。
あの、甘酸っぱい匂いに目と心を奪われたと言っても過言では無い。
「…特になんでもないよ。」
「そう?」
蜜は不思議そうに首を傾げたが、授業を知らせるチャイムが鳴り、席に戻った。
***
蜜は恋をしている。
クラスメイトの隼人くん。
サラサラなブロンズ髪に、爽やかな顔つき。
女の子なら誰でもときめきそうな…サッカー部のエースだった。
そのときめく女の子のうちの一人に、蜜もいた。
(…今日もかっこいいなぁ)
放課後。
片手で肘をつきながら、窓に目をやる。
一生懸命、ゴールに向かって球を走らせる隼人の姿が目に写っている。
放課後、こうして恋を待つーー(恋はバレー部をしている)と言うのを言い訳にして、教室の窓から見ている。
もちろん、恋と帰りたいという気持ちだってある。
決して、ただの言い訳に使っているのではないのだ。
隼人はクラス外からも人気のある人気者。
それに比べて私は恋しか友達と呼べる人のいない陰キャ。
叶わぬ恋に浸っていると、一際高い歓声が上がった。
思わず目をやる。
隼人を見に来た、女子達の歓声だ。
遠くからでも聞こえる黄色い声と女の子達の姿が見える。
手作りのうちわや、タオルを持って、楽しそうに試合を見ている。
「…私もあの中に入れたら、なんて…」
できないのに。
キュッと唇を噛んだ。
空の色は淡いピンクから、オレンジ色へと変わりかけていた。
***
(…気に入らない。)
恋は嫉妬と妬みの視線をそっと蜜に向けた。
部活が終わり、いつも通り教室で待っている蜜の元へと向かっていた。
だが、廊下で立ち止まる。
蜜が窓に目をやっているのを見たからだ。
これもいつも通り。
恋は知っている。
蜜が恋をしていることを。
恋は知っている。
蜜が絶対に自分に振り向かないことを。
蜜の目は恋する乙女の目をしている。
淡い恋のときめきと、振り向かない哀しさを纏わせた。
悩めるまつ毛に、キュッと結んだ口。
時々染まる頬。
その目が自分に向けられないこと、蜜が楽しそうに恋をしていること、何より…
「…こうやって醜く嫉妬してる自分が1番嫌い」
吐き捨てるように恋は呟き、先程の嫉妬心を感じさせない笑みを作って、教室の扉を開けた。
「お待たせ。」
少し声を張って蜜に声をかける。
「…あ、恋!部活お疲れ様。」
上の空だったのか、時間差で蜜が答える。
その声は少し上ずっていて、顔も赤い。
つい、イラッときて言ってしまった。
「…また山田、見てたの?」
山田とは、隼人のことである。
「…え、そ、そんなことないよ!」
ぶんぶんと手を振り、精一杯の否定をする。
でも、それはもう肯定だ。
「見てたくせに。…好きって言えば?」
怒りを飲み込んで、茶化すように言う。
「…話してもないのにできないよ」
耳と頬を赤くして蜜は下を向く。
なんで、
なんで私は女の子なんだろう。
男の子だったら恋に落ちてた?
なんで、蜜はもっと話しかけに行かないの、
恋に積極的になってよ。
それで…それで、私が諦めれるくらいの恋をしてよ…
全部自分の感情。
蜜は何も悪くない。
嫉妬と恋心で狂いそうになる。
苦しそうに顔を歪める恋に、蜜は心配そうな顔を向け、椅子から立ち上がる。
「…恋?どうしたの、今日なんかおかしいよ?」
蜜のせいなのに、と言いかけて飲み込む。
「………。」
自分の感情を落ち着かせるのに忙しくて、蜜の問いに答えられない。
「…ねぇ、恋ーー」
「どうして…!」
声と同時に体が動いた。
壁に、蜜を押し倒す。
そのまま、蜜の腕を掴み、キスをした。
感情に流されるままだった。
「……れ、恋…?」
戸惑ったような声が聞こえ、ハッと我に返る。
目の前には、目を見開き、驚きの表情を浮かべた蜜の姿があった。
…そこには、顔を赤くした様子はない。
自分は、やはり彼女の視界にも入っていない。
「…どうして…蜜は山田が好きなの…」
小さく吐き捨てるように恋は呟き、『ごめん』の一言も言えないまま、鞄をひったくるように取ってそのまま足早に教室を後にした。
辛いほどに、近づいた蜜は、ハニーレモンの匂いがした。
今日はやけに酸っぱく感じた。
蜜はしばらく放心状態だった。
いきなり、友達にキスをされた。
なんで隼人くんが好きなのかと言われた。
あまりに唐突すぎて、恋の辛そうな顔が忘れられなくて、何も言えず、追いかけることもできなかった。
ズルズルと下がり、床に座る。
喧嘩、ではないと思う。
「…恋と帰らなかったの、初めてだ…」
しばらく立ち上がれそうになくて、蜜はただただ恋の言葉の意味を考えていた。
***
『ごめん』
あれから、LINEでそう呟いた。
『詳しい事は聞かないで、気にしなくていい』とも。
蜜からは、『分かった、こっちもごめんね』と言う文だけ返ってきた。
1週間、2週間くらいは気まづかったけど、こちらがいつも通り明るく振舞って、何とか話せるようになった。
そして、あれから蜜は少し変わった。
山田に話しかけるようになった。
山田も、嬉しそうにしている。
今日は、差し入れを持って、試合を見に行っている。
これでよかったのだと自分に言い聞かせる。
自分の恋は、叶わないのだから。
それならせめて蜜の恋が叶って、幸せになればいい。
私はそれでもきっと…幸せなはずだ。
窓から小さく見える蜜は、頑張って差し入れを渡している。
隣にはもちろん、山田。
2人はこれから恋人同士になるだろう。
すでにコソコソと噂話がたっている。
「…良かった。」
自分は何に対して、『良かった』などと言ったのは分からない。
ただ、心の底からの安堵と、虚しさが残るのみだ。
恋は立ち上がり、隣の椅子にかけてあった蜜の上着を取る。
ふわっと鼻腔をくすぐる匂い。
変わらずハニーレモンの匂いがした。
それは、今では憎らしくて、愛おしい匂いだ。《完結》
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