放課後、第一図書室にて

長町紫苑

始まりは進路指導室

第1話

新学期の教室に、先生が点呼する声が響く。

少しだけ開けた窓の隙間から、まだ冷たい春の風が流れ込んでいた。


吉岡よしおか

「はい」


耳に心地良い低音がわたしの苗字を呼ぶ。

このクラスは、わたしが最後だった。


「今年も数学を担当する柴田朋希しばたともきです。よろしく」

「よろしくー」


先生が授業の説明を始めると、前の席の七瀬ななせがわたしのことを振り向いて微笑む。


「今年も柴田で良かったね」

「うん」


数学担当の柴田先生はまだ30歳になっていない若い男の先生だ。

あっさりとした顔立ちの塩顔イケメンで、お洒落な黒縁メガネが良く似合っている。

女子からはもちろん人気があって、授業も面白いから男子からも人気がある。


わたしはそんな柴田先生に、密かに憧れていた。

学校に来るのが面倒な日でも、先生の顔が頭に浮かぶと支度を始めてしまう。

でもそんな女子生徒はわたしだけではないはずだ。

七瀬だって、柴田先生のことが大好きだ。


「今年は受験の年だし、厳しくやるからな」


そんな先生の言葉に教室中からブーイングが上がる。

でもうちの学年が数学だけ平均点が高いのは、みんな柴田先生に良いところ見せたいからで、ブーイングも半分は本心ではない。


「先生、もっと緩くいこうぜー」

「俺だって授業することで給料もらってんだ。そういうわけにはいかないなー」

「公務員って、やっぱ儲かんの?」

「安定はしてる。だけど彼女が出来ない」


教室にどっと笑いが溢れた。

こういう関係ない話を盛り込みつつ、分かりやすくスピーディーに授業を進めるのだから、柴田先生はすごい。

公務員じゃなくて、塾の先生とかすればいいのに。

そうした方が先生の場合はもっと儲かりそうだ。

ただ問題は授業中に先生の顔を見てしまって勉強が手につかないことだな、とわたしは頬杖をつきながら思った。



「柴田って彼女いるのかなぁ」


昼休みになって教室で弁当を広げていると、ぽつりと七瀬が呟いた。

唐突だったけど、その場にいた全員が話しに食いつく。


「いるでしょ。うちらはあっちが先生だから遠巻きにキャーキャー言ってるだけだけど、もし同年代だったら絶対に放っておかないもん」

「だよね」

「格好いいよね。あんな人が学年にいたらいいのに」

「大人だからいいんじゃないの? 同い年の男子ってもっと馬鹿でサルっぽいじゃん」

「聞こえるよ?」


馬鹿でサルっぽい、は言い過ぎだとしても、確かに同学年の男子たちは子供っぽくて、付き合うとかは考えられない。

柴田先生はわたしたちと10歳くらい離れているのだから、同世代の男子より大人なのは確かだ。

そこだけが魅力なわけではないけど、みんな柴田先生が好きなのはその理由も大きいと思う。


「彼女は良いなぁ。柴田のこと独り占めできて」

「できるかな? だって職場では女子高生がみんな彼氏のこと好きなんだよ?」

「あ、もしかして彼女も同じ職場とか!」


若い女の先生は誰がいたか、と話していると、校内放送のチャイムが鳴った。

わたしたちは口を閉じて耳を澄ませる。


「三年三組の吉岡美晴よしおかみはるは進路指導室まで来てください。繰り返します……」


吉岡美晴、わたしの名前だ。

そのせいでクラス中の視線がわたしに集まる。


「え、美晴何したの?」

「進路指導室ってことは進路の話でしょ? 始業式の日に書いた進路希望調査に変なこと書いたんじゃない?」

「別に普通のこと書いたつもりだったんだけど」


呼び出されることなんて初めてでわたしは困惑する。

でも行かないわけにはいかなくて、弁当に蓋をすると立ち上がった。


「ちょっと、行ってくる」

「行ってらっしゃーい」

「ていうか放送の声、柴田だったよね?」

「柴田と二人きり? 何それズルい!」

「二人きりって言っても進路指導だよ? あんまり嬉しくない」


自分が呼ばれたことで動揺して気にしていなかったが、確かにあの声は柴田先生の声だった。

そう言えば、柴田先生は進路指導でもあったような気がする。

理数系の学部を希望したわけでもないし、数学の成績だって悪くないはずだ。

どうしよう、何を言われるのだろうか。


呼び出された理由を考えながら歩いていると、進路指導室の前まですぐ来てしまう。

ノックをしてから、恐る恐るドアを引いた。


「失礼します」

「あ、吉岡来たか。突然呼び出してごめん。まあ座って」


机があってその向こう側に先生が腰掛けている。

そしてわたしが座るよう言われたのは、当たり前だけどその向かい側の席だ。

柴田先生と一対一で話したことなんて今までに一度もないから緊張してしまう。


「心当たりなくてびっくりしたでしょ」

「はい。わたしの進路希望、何か問題でもありました?」


そう尋ねると先生は笑いながら首を振って、ファイルに挟まれたわたしの進路希望調査を机に上に置く。


「問題っていうわけじゃないんだけど、ちょっと気になって。吉岡の第一志望」


先生が指差したのは、わたしが第一志望に書いた県外の大学だ。

文学部だが、偏差値はあまり高くない。


「吉岡って成績良いよね? 俺の教科でも90点以上取ってくれてるし、成績表見たら他の教科でも似たような点数取ってるみたいだね。だからもっと上を狙えると思うよ」

「ダメですか? 重要なのは大学名じゃなくて授業内容ですよね。わたしは色々な学校のパンフレットを見て、この大学で勉強がしたいと思ったんです」


反論すると、先生は何故か満足げに頷く。

もっと名門を狙え、と説教されるのだと覚悟したから、その反応は予想外だった。


「そうか、それなら納得。応援するよ。今の成績なら合格は確実だろうから、下がらないようにするんだよ」

「はい、ありがとうございます」


これで話は終わりだろうか。

不思議に思いながら時間を確認しようとすると、それを止めるように先生が口を開いた。


「ということでお願いがあるんだけど」


先生はファイルを閉じて机の隅に置くと、わたしに笑みを向ける。

間近で見ると余計にイケメンだけど、今は何だか嫌な感じがする。

この笑顔は、裏に何かがある。


「……何でしょう?」

「吉岡さんって口は堅い方?」

「言うなって言われれば、言いませんけど」

「君は優等生だし信頼するからね?」


今は褒められても怖いだけだ。

先生は何を言い出すのだろうか、と口を開くのを待つ。

柴田先生はファイルから何かの用紙を取り出すと、わたしの前に

置いた。


柴田架しばたかけるの、お世話係になってほしいんだ」


わたしは言葉を失って、ぽかんと口を開けた。

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