終末の猿

狭霧

第1話 拉致

 三神アリサは吐息を零してボイスレコーダーを止めた。その様子を見て、黒田医師は肩をすくめた。

「どう思うか、それはあなたの勝手ですがね」

 そう反応するだろうと思っていたよと言わんばかりだ。

 アリサはWeb週刊誌日本深界で記者を務めている。社の方針で、社員は必ずバディを組んで行動をすることになっているが、アリサには相手がいない。たたき上げの編集長と口論をして勝ち取った単独班だ。アリサは誰かと組むのが苦手だった。それが誰であれ。

 この日は精神医療の最前線を追う記事作りの為、東京西部にある専門クリニックを訪問していた。フリーランスライターで《日本深界》にも多くの記事を提供している業界の大先輩・志葉暁月からのネタだ。

「宇宙人に拉致された女性――ですか……」

 そのまま記事にすれば、あまりの陳腐さに読者は呆れるだろう――そう思った。

「私がそうだといっているわけじゃありません。本人がそう言っているという話です」

「それは分かりますが。古来多いですよね、その手の話って」

「医療にとって大事なのは《事の真偽》なんかじゃ無く、その人物がなぜそう考えているのか――その背景です」

「それも理解しているつもりです。ただ、私たちが求めているものとはその……少し乖離があるのかなと」

「面白い記事ネタかどうかということにも興味は無いですね。志葉さんから紹介されたから話させていただきましたが、あとはそちらの判断でしょう」

 そう言うと黒田医師は眼鏡を押し上げてコーヒーを啜った。診療の終わったクリニックに残っているのは黒田とアリサの他には看護師が三人、書類の整理をしている姿があるだけだ。入院病棟は日夜を問わず忙しいんだ――と、初対面時に黒田は言っていた。

「その患者さんですけど」

「会ってみたいと言うのなら、本人と、彼女の場合は配偶者の承諾があれば可能です。完全匿名、身元が推察される情報は一切取り上げないという条件ならば、ね。元々収容時には措置入院だったんです。かなり興奮し、家族の所在も判らなかったほどでした。その後、ご主人と連絡が取れて同意もあったので、いまは医療保護入院に切り替えられています。他害の可能性も無い、実に静かな患者さんです」

 ここまで来て手ぶらで帰るという選択肢はない。気は進まないが、アリサは本人へのインタビューを黒田に願い出た。黒田が連絡を取ると、意外なほどすんなりと夫は許可を出した。

「それでも写真は一切許可出来ないし、このクリニックのことだと判るような記述も御勘弁願いたいのです」

 黒田から念を押され、アリサは承諾した。約束を守った上で匂わせる方法ならば職業上の技術として無いわけではない。

 三階建てのクリニックは、その二階と三階が病棟として使われていた。各階に十の個室があり、取材対象は三階にいた。

 個室の前で立ち止まると、黒田はアリサに言った。

「同席させてもらいますよ」

 それについてもアリサに異存は無い。インタビューの流れは予想出来た。本人は《本当の話だ》と主張し、アリサはそれを聴く。事実確認など出来ない事案なのだ。

「これは使っても?」

 アリサはボイスレコーダーを取り出して見せた。黒田は首を横に振った。

「許可出来るのはメモ。それも私が見ている前で。あと、私が不適切だと判断した質問には患者さんが良しと思っても発言を止めることがあるとご承知おき願いたいです。少なくともこの施設にいる限り。それと、もしも記事にされる場合は、事前に原稿を拝見したい」

 アリサは頷いてボイスレコーダーをバッグにしまった。

 ドアには外から施錠がなされていた。あくまでも本人の理解を得た上で、希望する場合にだけ施錠していると黒田は説明した。施錠されていることで安心を得る患者さんも多いのでね――と付け加えた。黒田は施錠を解いてドアをノックした。

「インターホンで取材のことは伝えてあります」

 そう話す黒田の面前でドアが開いた。顔を見せたのは、アリサが想像したよりも随分と若い女だった。二十代後半に見えた。

――私と変わらないくらい?

 髪にも服装にも乱れはない。目は伏せているが、精神的に不安定という印象は皆無だ。

「入っていいですか?」

 黒田は丁寧に尋ねた。コクリと頷いた女だが、顔を上げ、黒田の背後に居るアリサを見て表情を変えた。アリサから見ても明らかに緊張しているのが判った。

 通された部屋は驚くほどきれいだった。華美な飾りなどは皆無だが、壁紙は柔らかなベージュ色。はめ殺しの窓は二重構造で、ブラインドが中に仕込まれていた。今はもう午後六時なので閉ざされ、外の様子は見えない。病室にはすべてトイレが備えられていると説明された。軽症患者の個室には極小さいが流し台もある。大きなサイコロにも似た冷蔵庫が置かれ、室温も快適だ。

「部屋に椅子はないので、三神さんは立ったままでいいですね?」

「無論です。無理を言ってお時間を頂いたのですから」

 黒田は頷き、患者にはベッドに腰を下ろすように話した。

「お名前は伏せます。但し、呼びにくいでしょうからこの場では仮に坂井さん――としましょうか」

 坂井と仮名を付けられた女は担当医の黒田では無く、アリサを見つめている。黒田が視線でアリサに促した。

「初めまして、坂井さん。私は記者をしている三神アリサと言います。お寛ぎのところ本当にすみません。少しだけお話を――」

 メモ帳から顔を上げたアリサの身がこわばった。女の目には驚き、困惑、そして微かな怒りの色まで見えていた。アリサは黒田を見た。黒田も困惑気味に女を見ていた。

「終わる……」

「え?」

 小さな声が、はじめは聞き取れなかった。女は再び口を動かした。

「終わる……全部……」

 アリサはもう一度黒田を見た。女の反応は、当初聞かされていたような静かで安定したものには見えない。目を見開き、唇は震えている。黒田は眉根を寄せて思案していた。

「若干興奮されているようですね。取材は打ち切りましょうか」

 メモを閉じてアリサの方から尋ねた。意外なことに黒田は首を横に振った。

「もう少しだけ。坂井さんのこんな反応は初めて見るので……」

 危険の無い範囲で観察をしたい――という思惑を感じた。アリサは微かに唇を噛み、坂井に身体を向けた。

「手短に済ませますね。坂井さんは、誰かに連れて行かれたというお話をされているそうですが、それは――」

「終わるの!みんな!あなたにも判るんでしょ?あいつらが終わりにするって!聞こえる者がいたのは驚きだって!そう言ってたわよね?そうでしょ?聞こえたんでしょ?あなた、同類よね?だったらなぜ無事なの?私は乗せられて――あんな――あんな恐ろしい者と」

 坂井は拳を固めて震えた。黒田がストップをかけた。

「これで終えましょう。坂井さん、すみませんでしたね」

 黒田の言葉でアリサは女に背を向けた。早くそこを出たい理由は他にもあった。まだ何か言おうとする女を押しとどめ、黒田はアリサに退室を促した。ドアを開けて出て行こうとするアリサの背に、女は言った。

「聞こえたんでしょ?あなたも!同じよね?そうなんでしょ?あなたにもあの話し声が――音が聞こえてる!私、判るの!気をつけて……でないと」

 振り返っていた二人は黙って女を見ている。女は最後に言った。

「あなた……なにそれ……そんなの見たことない……包まれてるの?」

 そこで黒田はドアを閉ざした。

「全く予想外な反応でした。医師として判断が甘かった事は否めませんが、《拉致》の事を診察で尋ねても、あんな反応はしたことが無かったのに」

 黒田は最後まで反省を口にし、望むような取材で無かっただろう――と謝罪を述べた。

 クリニックを後にしたアリサは駐車場に止めたクルマに乗り込み、大きく深呼吸をした。ハンドルを握る手は震えている。

「まさか…見えたの?」

 アリサはガラス越しに病院を見上げた。


《おばあちゃん……また聞こえる……こわいよ……おばあちゃん……》

 幼い自分の声が聞こえた気がして目を開けた。自室の天井が見えた。

「帰ってたんだっけ」

 アリサは起き上がり、冷蔵庫から冷えた炭酸水を取り出して再びベッドに腰を下ろした。インタビューした女の声が生々しく耳に残っている。

《同類なんでしょ!》

 窓の外は深夜二時半の闇だ。女の声が頭から離れない。

《なにそれ……包まれてるの?》

 アリサはかぶりを振った。

「おばあちゃん……」

 祖母は不安がるアリサを抱きしめ、話していた。

《大丈夫だよ、近づかなければ分からない。おばあちゃんが包んでいてあげるから》

 アリサは自分を抱きしめた。一体何が起きているのか。祖母が生きてさえいれば――そう思わずにいられない。

 宇宙人に拉致された――その情報までは半信半疑と言うより、本気にはしていなかった。精神を病んだ人は、軽重の差違はあってもそれぞれ特有の症状を発現して苦しむ。その中には妄想を抱える人々もいる。

 妄想は、概ね《不可避で見てしまうもの》と《見たいもの》とに分けられる。それが自分の作りだしたものだと自覚しない場合も多い。そうしたことに苦しむ人を取り上げ、現代社会が個人に突きつけてくる《苦難の質的変化》と人間の脆弱さを取り上げた記事になるはずだ。

 その取材の場で相手から指摘されたのだ。同類だろう?と。聞こえるのだろう?と。

 冷たい炭酸水が身体にしみこみ、微かだが緊張が和らぐ気はした。

 アリサは自分を昔を振り返った。幼稚園の頃、その《音》を初めて聴いた。幼稚園児に《耳鳴り》などという症状は一般的に縁遠い。それでもアリサには耳の奥に響く奇怪な《音》が感じられていた。はじめはみんなそうなのかと考え、気に掛けなかったが、小学校に上がる頃になると周囲はそんな《音》を聞いていないことが判った。そしてそのころから《音》は微妙な変質を見せ始めた。

「声――」

 女はそう言った。それがアリサの聞く音と同じかは判らないが、その《音》は間違いなく《声》であり、聞こえる時はいつも調子の違うものが幾つか混ざって行き交う、まさに《会話》だった。

「本当に私と同じなの?」

 女は病室でアリサに声を投げた。《気をつけて!》と。その言葉になぜ身をすくませたか、アリサには判っていた。

「おばあちゃんも言ってた……」

《それでも気をつけるんだよ》

 祖母の声は優しい。だが、言葉が持つ何かに恐怖したことも覚えている。

――何に気をつけろというのだろう……。

 ボトルをテーブルに置いたとき、遙か遠くに救急車の音を聞いた。東の空は白み始めていた。


 出社しても女の事が気になった。それでもその日の午後には次の仕事のことで頭はいっぱいだった。そのアリサのもとに黒田医師から電話が入ったのはそろそろ退勤しようかと考えていた午後八時のことだった。

「黒田です、昨日はどうも」

 低い声はそのままだが、話し方に緊張感があった。

「どうされたんですか?」

 尋ねたアリサに黒田は意外なことを告げた。

「彼女が――坂井さんが居なくなりました」

 アリサは鳥肌が立つのを感じた。

「警察にも捜索はお願いしましたし、ご主人にも――ただ、あまりにも奇妙で」

 アリサは、すぐ行きますと告げて電話を切った。

 駆けつけてみると、意外なほどクリニックは静かだった。待機していた黒田はアリサと共に廊下を歩きながら言った。

「失踪ではありますが事件性はないとみて警察も一旦帰りました。お金は持っていませんし、周辺の街を重点的に見てはくれるそうです」

 険しい顔だ。

――それはそうよね。ここに居たからって判ることも無いだろうし。

「ご主人は?」

「帰られました。ここに居るよりも、心当たりを当たってみると仰って」

 頷ける話だが、アリサは夫という人物に一度会ってみたいと考えていた。

「それで、奇妙と言われましたけど、居なくなった時の状況は?それになぜ私に連絡をくださったんですか?一度取材をさせて頂いただけなのに」

 それには黒田の渋面が返った。

「彼女は厳格に行動の管理をさせていただく患者さんとは違い、あくまでもご本人の同意という形で滞在されているんです。それでも病棟階から勝手にでることは不可能です。エレベーターまで行くのにもドアに施錠ドアがあり、仮にエレベーターを降りてもまた同じ施錠のドアです。看護師はそれらのドアをパスコードで開け閉めしますが、そのコードは毎日変更されていて、患者さんも見る機会はありません」

 そう言い、坂井の部屋のドアノブに手を掛けた。

「でも、この階の個室の鍵は、特に夜間以外は掛けていないことの方が多いんです。他害行為の可能性など無い皆さんだけですが、ある種の行動規制があった方がご自身も安心する――そういった方だけの階ですしね。それに自動販売機が廊下にありますし、患者さんの中には夕飯後にもカップ麺が食べたいなどと言われる方も居て、ナースステーションに申し出れば提供させてももらっています。あくまでも可能な限りご自宅にいるのに準じたような、自由な環境のもとで気持ちをリラックスさせたいので」

 そう言ってドアを引いた。部屋はひっそりとしていた。

「着替えなどはそのまま残されています。気になるのは――」

 そう言い、ベッドサイドの小机を指さした。

「スマートフォンがそこにそのままあったことです。携帯電話も持たずに出て行かれたわけです。ご主人立ち会いの下で警察も通話記録や何かを見ていましたが、眺めていた警察官が《この履歴は何だろう?》と言ったので私も覗き込んでみたら、それは――」

 黒田はアリサを見て告げた。

「変換は合っていませんでしたが、あなたの名前三神アリサで、職業は記者――というのがあって」

 嘆息して黒田は言った。アリサは緊張で寒気を感じた。

「それがあなたをお呼び立てした理由です」

 部屋を見回した。そもそも私物の少ない部屋は冷え冷えとしている。初対面の女が自分に用があるとするなら、考えられることはただ一つ。

――《声》……

 その一語が脳裏に浮かんだ。

「勿論それだけの情報ではあなたに辿り着けなかったのでしょう。お勤め先を突き止めた形跡も、電話しようとした形跡も残ってはいませんでしたが、彼女はあなたに特別な反応を見せました」

 黒田の言葉に我に返った。黒田はアリサを見つめていた。

「初めて彼女を診た時にも興奮はしていましたが、あなたに対してはなんと言いますかこう――」

 言葉を探した。

「具体的な興奮というのか」

 医師らしくないと思ったのか、黒田は言葉を止めた。

 空の部屋に彼女を探すヒントは無い。アリサは何か判ったら連絡してほしいとだけ告げて辞去した。

 クリニックは街を外れた丘陵近くにある。精神医療は嘗て偏見に苛まれることも多かった。それがこのストレス社会にあって変化を遂げた。無くてはならないケアなのだという理解も一定度進んだ。それでも、患者側からすれば街角にあって便利――という利便性は求めているものでもない。静かで落ち着いた場所が求められるのは患者側の潜在的なニーズでもある。

 街の明かりが木々の先に見える。アリサはハンドルを回し、緩やかな坂を下りていく。

「どこへ……」

 行ったのだろうと考えてみても始まらない。彼女のことを具体的に知るわけでは無いのだ。ただ、脳裏に浮かぶ不安はある。

――拉致……。

 異星人に拉致されたと彼女は主張した。《音》を――《声》を聴いてしまったが故に。仮にそれが本当だとするならば、判らないことがある。

「じゃあなぜ私は…」

 すぐに祖母のことが思い出されたが、違うのかもしれないと思った。《音》や《声》と言ってもそれは言葉でしか無い。別のことを言い表している可能性はあるとアリサも思う。

 ヘッドライトが何かを捉えた。慌ててブレーキを踏んだアリサの目の前に立つ人影があった。背中を向けている。不気味に思い、アリサはクラクションなど鳴らさずに切り返して逃げようと考えた。だが――。

「え?なんで?エンジンが掛からない!」

 エンストの経験など無い。キーを回してもエンジンは一切動く気配を見せない。恐怖でパニックを起こしているアリサは、街灯に照らされたその人物が振り返るのを見た。身体の震えが止まらない。その顔には大人の拳ほどもありそうな一対の目の他には何もない。白目の無いその目で、アリサをジッと見つめていた。覚えているのはそこまでだった。アリサは、気を失った。


 自分が何を見ているのか、理解するのに時間が掛かった。目の前には、クルマの中から見たあの目があった。どこまでも深い黒。それが目だと思えるのは、顔に一対並んでいるということからの直感でしか無い。それでも、アリサにはそれが目に見えた。

 目はアリサを映している。それが判るほどアリサの顔の傍に目はあった。アリサを覗き込んでいた。

――私……どうなったの……?

 恐怖以前にそう思った瞬間、アリサは総毛立つのを感じた。聞こえたのは子供の頃から聞いていた《あの音》だった。耳で聞いているので無いことは判っている。《脳が聞く音》とアリサが自分で名付けた音だ。高く、低く、絶えず音程を変えて鳴り続けている。それはやがて、これもまたアリサのよく知る《声》に変わり始めた。意味は分からない。ただこれも直感で声だと思えるだけだ。

 目の前の《それ》は顔を離し、振り返った。アリサは《それ》の背後に、別の《それら》が二体立っていることに初めて気づいた。よく似ているが、どこか微妙に違っている。それを感じるほど、奇妙に落ち着いている自分を自覚した。

――私……何処に居るの……この……奇妙なものは……なんなの……。

 三体の《それら》の他には何もない場所だ。頭は朦朧としている。遠近感も妙だ。壁があるのか無いのかさえ判らない。

 《それら》は向かい合っている。何か話しているようにも見えるが、耳には聞こえない。聞こえるのは頭の中に直接だ。不意にアリサは自分が何に横たわっているのか気になった。ベッドのようなものでは無い。触ろうとしたが、脱力したように手が動かない。背中に意識を集中したが、何かがあるという感触も無い。それはまるで――。

――水?それとも……。

 水に漂う浮遊感だが、それともどこか違う。

――まるで何もないみたい……。

 《それら》はアリサに歩み寄るとアリサを取り囲むように立った。《声》は三種類聞こえていた。だがアリサは声を出せない。口に何かされているわけでも無い。喉も違和感が無い。それでも声が出せない。パニックは、次に何かされるのでは無いか――という不安から生まれている。だが三体はジッとしたまま、アリサに何かする様子は見られない。

――ただ見てる……。

 そのときだ。

《異種……》

 それはアリサが脳で思った言葉では無い。誰のものとも知れない言葉が脳に浮かんだ。

《異種……》

――誰?

 脳で強く思ってみた。すると言葉が止めどなく流れ込んできた。

《この異種は……》

《珍しい……》

《初めて……》

《なぜ検知出来なかった……》

《生態年齢は――》

 聞き取れない部分がある。

《奇妙……》

《構造に異常は無い》

《なぜ検知出来ない》

《解放した個体と接触しなければ識別出来なかった》

 次第に会話が見えてきた。

――これが、拉致?彼女が言っていたことは本当だったの?解放した個体……彼女のこと?でもなに?これはなに?脳の中に言葉が見える…。音では無く、文字として……。

《どうすべきか》

 その一言に二つの声は重なって返った。

《排除》《排除》

 アリサの心臓が大きく一つなった。それと同時に三体はアリサに手を伸ばした。一体はアリサの額に手を置き、一体は足首に触れた。残る一体はアリサの喉元に手を置き、言った。

《この個体は普通の異種と比較にならないほど明瞭に我々と繋がることが出来る》

 触れているのは手なのだろうと脳では判っている。だが、その感触は人間のものでは無い。顔以外の姿形は大きな違いを感じないが、触れられて判った。

――冷たい!

 皮膚なのか、手袋のような物を介しているのかは判らない。ただ異様に冷たかった。

《排除》

 再びその言葉が文字として伝わった。小指一つとして動かすことの出来ないアリサは暴れて抗うすべも無い。それでも恐怖から呼吸は荒くなった。すると最もよく聞こえる声の主が呟いた。

《経過観察……》

 それにはまた二体が声を重ねた。

《排除》《排除》

 数秒の沈黙のあと、一体が言った。

《直接行動観察……》

 それまで互いを見もしなかった《それら》のうちの二体が顔を見合わせた。黙ったままだ。

《この異種は奇妙……だから厳重に……》

 二体は声を重ねた。

《直接ならば》《直接ならば》

 二体はアリサから手を離し、後ずさった。額に手を置く一体がアリサを覗き込んだ。

《奇妙……ありえない……これは――》

 時々理解出来ない音が入る。最後の言葉は音としても文字としても入ってこなかった。

 アリサの眼前に巨大な目が近づいてくる。《それ》は額とおぼしき部分をアリサの額にあてた。漆黒の目以外、アリサには何も見えなくなった。

 意識が遠のくのを感じた。不快ではないが沈んでいく感覚に不安はある。落ちていく意識とは裏腹に手の感触が戻った。アリサはそのときようやく理解した。背に何も感じない理由は、自分が浮かんでいるからだと。自分は宙に浮いている。その驚きも《声》も遠のいていく。

《あれはどうする……》

《記憶を完全に消去出来ない個体がある……》

《戻すのは危険》《戻すのは危険》

《気づかれてはならない》

《気づかれるのは危険……――に気づかれるのは……》

 また理解出来ない《音》だ。アリサに意識があったのは、そこまでだった。


「よく居眠りしてられるな」

 呆れ声に目を開くと、向かいの席で腕組みする吾妻雷人が見えた。

「お前の体内時計が今何時なのかは知らんが、もう取材にでたいんだ。歯磨きと洗顔を済ませろよ」

 時計は午後一時半だ。皮肉を真顔で言った雷人は鞄に書類を詰めだした。

「悪かったわね、待たせて」

 アリサは口をとがらせ、長い髪を束ねた。不意に奇妙な違和感が襲った。辺りを見回す。同僚たちは既に出かけてしまい、姿は無い。居残っているのはアルバイトの数名に雷人とアリサだけだ。変わらない風景だ。その何に違和感があるのか、アリサは首を傾げた。

「なあ、本当に起きてるんだろうな?俺、出たいんだけど」

 雷人が舌を打った。

「あ、あぁ……うん、まあ……」

 立ち上がったアリサは雷人の後ろを行く。巨漢の雷人は大学までラグビーをやっていたと聞いている。小山のような背中が動いている。

――記者歴十年……部内信頼度抜群……経堂に住んでて……独身……彼女無し……好きな食べ物は焼き肉……趣味は酒……

 背中を見つめた。

――なにこれ?まるでプロフィールみたいに吾妻さんの情報が並んで浮かんで来る…。

 違和感は一層強くなる。アリサはゴクリと唾を飲んだ。吾妻が振り返った。

「今日は相次いで増えてる廃寺について郷土史家に話を聴きに行くわけだが――」

 声が入ってこない。仏頂面の雷人が何か言っているが、アリサに聞こえていたのは――。

――何この《音》……。

 耳鳴りにも似ているが、不愉快では無い。

――今までに聞いたことの無い《音》が……。

 その《音》に神経を集中したつつ社屋の外に出た。晴れた初夏の日差しが眩しい。雷人は社用車に乗り込んだ。アリサは雷人を見て思った。

――いつから組んでいたっけ……。この人と……。

 そう思うと、組んでした仕事が思い出される。確かにバディなのだ。何が奇妙に思えるのか、自分がよく分からなかった。

 消えない違和感を抱えたアリサと雷人を乗せ、クルマは動き出した。助手席のアリサは考え込んでいた。何か大切なことを忘れている――そんな思いが湧き上がって止まらなかった。

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