震えている彼女の左手

第29話

「嘘…………だろ…………」



 作業台からモクモクと上がる黒煙。暴れる炎があっという間に付近のものを巻き込んでいき、明日のために用意されていた小麦粉の袋やパンにも引火。

 炎は周辺のものを巻き込んでいくと、瞬く間に火の海を作り出した。



 ――立ち尽くしてる場合じゃない。早く火を消さないと!!

 消化器はどこにあったっけ。何処かに設置してあるけど、混乱してるせいかすぐに思い浮かばない。えーーっと、えーーっと。あっ! そうだ。確かバックヤード手前にあったはず。


 俺は頭を一つ一つ整理して、背中から炎の光を浴びたままバックヤードに戻って消化器を取り出して栓を抜いた。

 ノズルを持って火元に向けてギュッとレバーを握りしめた。一刻でも早く火が消えろと願いながら。


 店内はあっという間に白い煙に埋め尽くされていく。目や鼻が痛くなってくるどころか煙を吸い込んでしまったせいか息苦しくなってきた。でも、火を止めるのは自分しかいない。

 だけど、簡単には消えてくれない。消火液を何度もかけても、火は暴れるように燃え続けている。俺は手が痛くなるくらいギュッとレバーを握り続けていると、誰もいないはずのフロアの方から声がした。



「う……そ………………」



 反応してフロア方面に目を向けると、そこには郁哉先輩と出かけていったはずのまひろが顔面蒼白で立ち尽くしている。

 俺は予想外の展開にサーッと血の気が引いた。



「バカっっ!! どうして店に戻ってきたんだよ!!」


「途中でケーキを忘れたことに気づいて……。ううん、それはいいの! どうして店が火事になってるの……」


「こっちへ来るな!! 早くここから逃げないとお前までケガするぞ!」


「やっ…………。星河が厨房から出ないなら私も出ない!」


「なに言ってんだよ。叔父さんの店を守るのは俺しかいないからお前は避難しろ!」



 俺は外に出るように促したが、彼女は首を横に振ったままこっちへやって来る。



「一人で避難するなんて無理……。星河を助けなきゃ!」


「俺なら消火後に避難するから心配するな!」


「なに言ってるの?? その間に火に巻き込まれちゃったら? 命が助からなかったらどうするつもりなの?」


「俺のせいでこうなったから責任を持って消し止めないと」


「星河が死んだら意味がないっっ!! だから早く外に出よう」


「バカッ!! こっちへ来るな!! 俺はお前が世界で一番大切な人なんだから、さっさと逃げろ!!」



 俺がそう叫んだ瞬間、すぐ間近まで迫ってきたまひろは俺の手を掴もうとする。

 しかし、上部の吊戸にぶら下げてある別の布巾が燃えたまま落ちてきた。俺は即座に気づいて避けさせるためにまひろの手をすくうように取ると、その上から布巾がかぶさった。



「うあああああぁぁぁあっっ!!!」


「星河っっ!!」



 まひろの悲鳴を浴びながら急いで布巾を振り払ったけど、右手には鋭い痛みが襲ってきた。額にはじわりと冷や汗が滲む。



「…………ぐあっあぁぁ! っはぁ……っ、はぁ……。まひろ……、ケガはしてない? 大丈夫?」


「私は平気! でも、星河の手がやけどを……どうしよう」


「……っ、はぁ。大丈夫。……大したことない。それよりも……早く外へ……」



 煙を大量に吸ってしまったせいか少し意識が朦朧としてきたけど、反対側の手でまひろの手を掴んで外に出た。

 結局一人で消化活動しても、彼女が俺を助けようとする限り無意味だと思った。




 店の前には消防車が停まっていて消防の準備を始めていた。

 俺はサイレンの音すら聞こえないほど切迫していたから、少し驚いた。一人の消防隊員が赤いパトランプを浴びながら寄ってくると「大丈夫ですか?」と声をかけてきた。

 布巾が当たった右手の親指付近はジンジンしている。しかし、不幸中の幸いで布巾が乗った右手は七センチほど赤く膨れ上がっているだけ。あの時、すぐに布巾を振り払ったお陰で軽症で済んだようだ。



 消火活動が行われている傍らで救急車に乗せられる俺とまひろ。

 目の前で炎に包まれている店が救急車の降りていく扉でシャットアウトされていく。

 隣で泣き続けているまひろは震えた手のままやけどをしてない方の俺の手をギュッと握りしめて、ハンドタオルに涙を吸い込ませながらひっくひっくと嗚咽を繰り返していた。

 お陰で罪悪感に苛まれるばかり。



 ――救急搬送されてから、約一時間半後。

 この時点で日付をまたいでいた。

 俺とまひろの母親が救急病院の窓口で会計をしている間、俺たちは待合室のイスに座って待っていた。

 右手にはやけどの処置が施されたネット包帯が巻かれている。一方のまひろはどこも異常が見られなかったと聞いて安心した。

 でも、気分が落ちているせいか、顔を下げたまま沈黙を貫いている。



「まひろがケガをしなくて良かった」



 病院に来てから第一声目を届けると、まひろは目を潤ませながら俺の方に向いた。



「そのやけど……。私のせいだよね。あの時私が手を伸ばさなければ……」

「違うよ。お前のせいじゃないから落ちついて」


「コンテストは明後日なのに私が余計なことをしたから……。でも、星河の命を守りたかったの。死んじゃやだって……。星河を助けるのは私しかいないって思ったの。……本当に本当に……ごめんな……さい…………」



 ヒクヒクと揺れる彼女の肩。ケガの責任を負うつもりではないかと心配してしまうほど。

 俺は彼女の気持ちが届く度に胸の中の爆弾が張り裂けそうになる。

 でも、ひょっとしたら彼女もいま同じ心境じゃないかとも思っている。だから、俺は膝に手を置いている彼女の左手を握りしめて言った。



「まひろは悪くないよ。俺がこうやって手を握れるくらい軽症だったのは、まひろが命を張って助けてくれたから」


「……でっ、でもっ!!」


「責任なんて負わなくていい。それよりもっと自分の体を労ってほしい。お前がこの世からいなくなるのは死ぬほど嫌だから」



 店が火に包まれた時は消火することで頭がいっぱいだったけど、まひろが俺を助けようとした瞬間からまひろ以外見えなくなった。もし、あの時ケガをしたのがまひろだったらと思うと、俺は一生後悔したと思う。



 会計が済んだ後、俺とまひろと双方母親で病院を出た。

 この時点で気持ちは極限状態に追いやられていたけど、叔父さんが息をきらしながら病院に到着した途端、更に胸が引き裂かれそうになった。



「星河っ、まひろちゃん! 二人とも体は無事なのか!」


「私は平気です。……でも、星河が……」


「叔父さん、ごめんなさい。叔父さんの大切な店を……、店を活気づけてくれた従業員の職場を……、クリスマスディナーを楽しみにしていたお客さんを……。自分の不注意で全部壊してしまった。本当に、本当に、ごめんなさい…………」



 喉の奥から熱いものが込み上げてきてそれが頬へと流れる。

 叔父さんは俺を信じて店の鍵を渡した。だから、責任を持って店を守らなきゃいけなかったのに結局守りきれなかった。

 しかも、まひろを巻き沿いにしてまで……。


 俺がおへその辺りまで頭を下げると、叔父さんは正面から肩をポンッと叩いた。俺はそのまま見上げると、



「僕が気にしてるのは店のことじゃない」


「えっ」


「お前たちの命以上に大切なものはないだろ。二人とも本当に無事で良かった」


「叔父さん……」



 叔父さんは安堵の眼差しで俺とまひろを見つめていたが、ケガに気付いた様子でハッとした目を向ける。



「その包帯……。もしかしてケガを?」


「大したことないよ。七センチほどの軽症なやけどだし」


「そっか。痛かっただろ。店に被害が出たのは残念だけど、命が助かっただけでも感謝しないと。さっき店の様子を見てきたけど、フロアに被害はなかったし、壊れた箇所は直せばまた営業できるから心配しないで」


「叔父さん……」


「それよりも、お前たちの命の方が何百倍も何千倍も価値があるんだよ。だから、治療に専念してね」


「本当に、ごめんなさい……」



 彼の優しさに涙が止まらなくなった。

 元は俺が電話に気を取られてしまったことが原因だったのに、それを責めないどころか命が助かったことを安心していた。

 いっそのこと、『大切な店になんてことをしてくれたんだ!』とか『クリスマスディナーを楽しみにしてくれているお客様にどれだけ迷惑がかかるのかわかってんのか!』とか、ののしってくれた方が気持ち的に楽だったのかもしれない。

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