三週目③


*****


 ドアを開くと、れた空気がもったりと頰を撫でた。

 壁やてんじょうを、すべて無色とうめいの板ガラスでしつらえたその部屋は、ガラスの製造技術では一歩先を行く我が国においてさえ見たことのないしろものだった。

 私たち夫婦の(といっても、今もまだ私一人できしているのだけど)しんしつほどの広さを持つそのガラス室には、なぜか木や草ばかりがやたらと植えられている。これほどぜいたくな造りの部屋なら、例えば応接室あたりに活用しそうなところだ。なのに、どうして植物なんか……?


「ここは?」

「温室、と私は呼んでいる」


 となりに立つクラウスが、こぼれ出た私の問いをすかさず拾う。

 目元には、例の不格好な眼鏡。本当は、一刻も早くカスパリア製の眼鏡をかけてほしいところだけど、今はまだ、そのすら立っていない。

 すでにカスパリアには、半月ほど前に、うできの眼鏡職人をけんするようようせいを出している。ところがされた返信によると、あちらで職人の選定に手間取っているらしい。

 私に言わせれば、どこにめる要因があるのかという話だけど、何事にもおよごしになってしまうのが古い官僚国家の厄介なところだ。

 このままでは、眼鏡職人がとうちゃくするより先に、今の不格好な瓶底眼鏡に見慣れてしまいそうだ。


「おんしつ?」

「ああ。寒さに弱い貴国の植物を育てるためのせつだ。エデルガルトは寒い国だ。温暖な貴国の植物を育てるには、こういった設備がどうしても必要になる」


「我が国の……あっ」


 よく見ると、祖国のいちにも並んでいた果実がそこかしこにっている。ぶどうにレモン、ザクロに、何より私の好物のいちじく! それらが、今を盛りにたわわに実をつけ、しゅうかくの時を待っているのだ。


「すごい……あんなにたくさん」


 するとクラウスは、眼鏡の奥でまぶたを細め、「ふふ」と喉を鳴らす。……えっ、笑われた? そのことにいかりではなく、じんわりとおだやかな熱を覚えて私はまた驚く。

 ああ、まただ。

 ここ最近、この人と目が合うたびにいだかされる感覚。これまでいられた不快感の代わりに、れたくなるような――指をからめたくなるような奇妙な、引力。


「あっ、す、すまない……君を馬鹿にする意図はなくて、その……き、君の反応が、ただ可愛くて」

「かっ――」


 可愛い? いや、さすがにそれは噓でしょ!

 ところが発言の主であるクラウスは、顔を赤らめたまま完全に固まっている。せめて、この気まずい空気を何とかしていただきたいところだけど、どうも今のクラウスには荷が勝ちすぎているようだ。なので仕方なく、私の方から水を向ける。


「しかし……なぜ果樹など?」


 この温室は、クラウスの研究方針に照らすと明らかに異質だ。

 彼の方針は、どんな階層の人間でもじっできる農業の改善策を見つけることに重きを置く。貧しくとも、学がなくとも、身近な素材を用いて収量を上げられるように。

 一方で、これだけの部屋を総ガラスで造るのは、貴族でさえ資金的にも難しい。そのくせ取れるのはわずかな果実のみ。これなら、我が国から果実だけ取り寄せた方がはるかに安上がりだ。カスパリアの経済ふうに備えての研究にせよ、果物が入らなくなったからといってそくしょくりょうなんに繫がることはない。しょせんは貴族好みの贅沢品にすぎないからだ。

 やがてクラウスは、おもむろに顔を上げる。その頰には、さきほどの赤みがまだほんの少し残っている。


「カスパリアから嫁いでくる君に、不自由な思いをさせたくなかったのだ」

「えっ」


 つまり……私のために、こんなごうな施設を?


「貴国は古来、豊かな食文化を誇っている。私も以前、貴国のばんさん会に招かれたことがあるが、あの時も、そのおくぶかさに驚かされた。アデルネ海で取れる海産物と、温暖な気候で育つ農作物。さらに、貿易国家ならではの多種多様な食材。それらをかした国際色あふれる料理……そうした文化の中で育まれた君を、失望させたくなかった」

「……そんな」


 思いがけない言葉に、私はぼうぜんとなる。


 てっきり、かんげいされていないものと思い込んでいた。強制された政略けっこん。それでもこの人は、本心はどうあれ私を歓迎しようと努力はしていた。

 問題は、その努力がまるで私に伝わらなかったことだ。

 事実、彼が育てたというフルーツが、これまでの――前回までの人生もふくめたしょくたくに供されたことは一度もなかった。それどころか毎日のように異物を放り込まれ、まともな食事にもありつけずにいる始末。

 例のいやがらせは、クラウスと打ち解けた後もなお続いていた。

 しかもそれは、日を追うごとにひどくなっている。昨日など、明らかに小石とわかる異物がビーフシチューの表面にぶちまけられていた。当然、口もつけずに下げさせたのだけど、この半月―― いや、前回までの人生も含めるとそれ以上の年月を干し肉とワイン、ビスケットだけでしのいできた私に、ぎゅういためタマネギが織りなすほうこうは、もはやごうもんに等しかった。


「昨日のザクロはどうだったか? あれは、我ながら良くできていたと思うのだが」

「ええっ!? ……あ、はい…… しかった、です……」


 するとクラウスは、「そうか」とやんわり笑む。そんなクラウスの素朴な反応に、私はふと、強い怒りを覚える。もっとも、それはクラウスに対する怒りではない。

 この素朴な善意にどろやからがいる。

 実際は、ザクロなど一度も供されなかった。調理人か、もしくは料理を運ぶメイドがちゅうぬすむなりしたのだろう。理由は十中八九、私への敵意―― それは、いい。そもそも私は、はなから歓迎されるつもりでこの国に嫁いでなどいない。

 でも、この人はそうじゃなかった。

 理由はどうあれ、この人は彼なりに私をかんたいするつもりでいたのだ。こんなおおぎょうな施設まで新たに設けて――ところが、その善意は私には伝わらなかった。途中で何者かに略奪されていたからだ。


「……お食事、これからはいっしょいたしませんか」


 嫁いで以来、私とは別々に食事をり続けてきた夫。今までは、単に避けられているからだと思い、それ以上は踏み込んで考えなかった。

 でも、こうしてクラウスの善意に触れたからにはそうはいかない。おそらく私たちは、また、どこか大事なところですれ違っている。


「一緒に?」

「ええ。そもそも食事とは、本来、家族そろっていただくものです。私たちは夫婦でしょう。

でしたら、せめて晩餐ぐらいは一緒にいただくべきでは?」


 するとクラウスは、なぜか未知の呪文でも耳にしたような顔をする。


「家族、揃って……? そうなのか? 家族というのは……」

「ええ……。あっ」


 まさか。

 らくらいに似た驚きと、それからいちまつの悲しみが私をおそう。……そういうことだったのか。そもそもクラウスは、これまでの人生のほとんどを独りで過ごしてきた。側室の子だったため父親とは暮らせず、ゆいいつの家族である母親とも幼くして死に別れた。

 そうした境遇で、食事も、しゅうしんも、いつしか独りでこなすのが当たり前になっていたのだろう。

 そうやって身についた常識や生活習慣を、彼は疑いもしなくて――いや、だとしても使用人の誰かが、その間違った常識を正すべきだった。でも実際は……。


「どうした」

「えっ」


 見ると、なぜかクラウスが不安顔で私の顔をのぞき込んでいる。体格は、私よりひとまわり、いや、ふたまわりは大きいのに、何だかいぬを相手にしている気分になる。


「すまない。また何か、気に障っただろうか……」

「えっ? いえ、そういうわけでは。ただ……やはり私は、食事は夫婦揃っていただくべきだと思うのです。貴国でも、それがいっぱん的のはず」


 はずも何も、事実だ。三年この国で暮らした私が言うのだから間違いない。


「そうだったのか……ちなみに、君はどうしたい」

「えっ? 私、ですか?」

「ああ。習慣だからといって無理に従う必要はない。一人で食事を摂りたければ、引き続き、そうしてほしい」

「いえ、そもそも私が、一緒に摂りたいと」

「だから、それは本心なのかと聞いている。私に遠慮してのことなら、その必要はない」

「そ、れは――」


 言われてみれば……実際、どうなのだろう。単純に、クラウスと一緒なら嫌がらせもむだろうと期待して?

 わからない。けど、それだけじゃない気が、少し、する。


「いえ……殿下と、少しでも同じ時を分かち合いたいのです」


 感情がまとまらないまま、場を繫ぐつもりで答える。するとクラウスは、なぜか落ち着かない顔で目を左右に泳がせる。


「それは……その、本心……?」

「ええ」

「そ、そうか。……そうか」


 しみじみと、みしめるようにつぶやくクラウスはお手伝いをめられた子どものようで、何だかほほましくなる。


「あの……寝室も、ご一緒して良いのですよ? 夫婦なのですし……」


 何となしに切り出してから、なぜ、と私は思う。子どもじみた反応を見せるクラウスを、もう少しからかってみたかったのかもしれない。

 ところが、言ったそばから今度は私がたまれなくなってしまう。私のために温室まで設けてくれたと知って、つい調子に乗りすぎた。彼の善意は異国の皇女に対するそれであって、女としての私に対するものではないのに。

 案の定、クラウスは反応にきゅうしたように固まっている。


「あっ……やっぱりその、結構です……」


 するとクラウスは、今度はあからさまにたましいかれた顔をする。これは……どういう反応だろう。何にせよ、寝室の件はしばらくたなげにした方がよさそうだ。

 ともあれ私たちは、この日の晩から一緒に食事を摂りはじめる。さすがに宮殿の主と一緒なら、例のつまらない嫌がらせも止むだろう――。

 そう、期待した私は甘かったのだ。

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