第81話

 その桜井くんが起きてきたのは、まさかの12時過ぎだった。


 バタバタッと音がしたかと思うと、桜井くんは居間に飛び込んできて「ごめん俺寝た!?」とあまりにも自明なことを叫び、私がいないと分かると「……みんな消えてる!」なんて叫ぶので台所から顔を出した。


「おはよ」

「よかった三国いた! おはよ……おはよ?」


 まるで犬のように、桜井くんは台所にいる私の方に寄ってきた。


「なにしてんの?」

「お昼ごはん。おばあちゃん出掛けたから。桜井くんも食べる?」

「……いいの?」

「まあ、だって、いるし」


 お昼の時間なので帰ってくださいというのはなんだか可哀想な気がした。


「食材のある限りだし、大したものじゃないけど。辛いの大丈夫?」

「めっちゃ好き」

「そっか、よかった」


 もともとおばあちゃんは買いだめ癖があるから食材が多少減ったって大したことはない。なんなら余らせずに済む。そんなことを考えながら冷蔵庫を覗いていると、桜井くんは上着代わりのシャツを脱いでティシャツ姿になった。


「どうしたの、暑い?」

「ん、手伝おうと思って」

「……料理できるの?」

「すげー失礼! だって俺、じいちゃんと2人で生活してたんだよ」桜井くんは得意げな笑みで「オシャレ飯とかは作れないけど、休みの昼飯くらい作れるよ」


 ものすごく意外だった。私が分類した桜井くんは「飯? 焼肉のたれかけて米の上に乗せれば全部うまい!」なんて親指を立ててみせるタイプだった。雲雀くんなら手早く器用に適当に食事を作ってもおかしくないけど。


「……じゃあ、汁物を桜井くんに任せます」

「ほーい」


 結果、何を指示したわけでもなかったのに、私の作る中華炒めに合わせて中華スープを作ってくれた。特段難しいものではないけれど、シンプルにメインに合う。台所テーブルで向かい合って、桜井くん作のスープを飲みながら感心した。


「すごい、ちゃんとおいしい」

「本当に三国、俺のことなんだと思ってんの?」

「クールにそつなくなんでもこなす雲雀くんの隣でわちゃわちゃしてる子みたいな……」

「ひどくね? つか三国の飯うま」

「どうも」


 台所のダイニングテーブルで桜井くんと向かい合ってお昼ご飯を食べている――ふとその光景を俯瞰ふかんしてしまって、笑いがこぼれた。なんで私、うちで桜井くんと一緒にご飯を食べてるんだろう。


「なに? なんで笑うの?」

「……なんか、なんで私、桜井くんとお昼食べてるんだろうと思って」

「あーね。謎だよね。俺も三国と三国ンで昼飯食うことになるなんて思わなかった」


 いつも見慣れた台所を背景に、桜井くんが座っている。いつもならそこにはおばあちゃんが座っているのに。

 まるで合成写真のように違和感がある光景なのに、まるで日常風景のように違和感のない光景だった。


「三国っていつもばあちゃんと飯食ってんの」

「うん。今日は友達と出かけて行ったけどね、普段は私が学校に行ってる間に友達と遊んでるみたい」

「なんか充実してんな、三国のばあちゃん」

「そうなんだよね。多分どこの80歳よりも充実した生活をしてると思う」

「つか、あれで80歳なんだもんな。若いよな、髪まだグレーじゃん?」

「まあ。70歳くらいに見られるっぽい」

「つかチャリ乗るのやばくね?」

「本当に、やめてほしいってずっと言ってるんだけどね」

「またカツアゲされちゃう」

「本当、助かった。ありがと」

「ま、でも三国のばーちゃんなら財布盗られて済んだ……って言っちゃいけないのかもしんないけどさ、どっちにしろ怪我とかすることにはならなかったんじゃない」

「んー、まあ、そっか」

「転んだだけで骨折とかするだろ、年寄りは」

「おばあちゃん、骨強いから。去年、転んでえんせきすねをぶつけたんだけど、ヒビが入っただけで済んだの。骨年齢が20代って言われたって喜んでた」

「すげえ、化け物じゃん」


 あ、なんか楽しい――。ゲラゲラ笑う桜井くんを見ていると、ふとそんな感情が降ってきた。感情が降ってくるなんて表現はおかしいかもしれないけれど、本当にただ降ってきた。なにより、楽だ。頭を使わずに喋れる。


「桜井くんって、休みの日は雲雀くんと遊んでないの」

「いや、遊んでるよ。ほらゴールデンウィークとか」

「あ、そっか。今日は?」

「バイト始めちゃったから。とりあえず帰って寝て、その後――……あっ」


 桜井くんはハッと止まった。その後雲雀くんに連絡することになっていた、とか?


「アイツ、土日急に来るんだよ! 今日はバイトあるから昼過ぎてからにしてって言ったからいまうち行ってるかも……!」

「……メールしといたら?」

「三国! ケータイ貸して!」

「そういえば持ってなかったね」

「あ、でも飯食い終わった後でいいや」


 席を立とうとすると「飯は飯。のんびり食いたい」と桜井くんは残りを口に運ぶ。


「……雲雀くん、待ってるんじゃない?」

「アイツもうちで昼飯食おうとは思ってないって。飯食った後にメールしときゃ大丈夫」


 男子って適当だな……。でも雲雀くんならきっと、そんな桜井くんの自由な行動に口では文句を言っても、優しく振り回されてくれるだろう。


「それより三国のケータイから連絡したら何言われるか」桜井くんはお茶を飲みながらしかめっ面で「アイツ、この間の新庄のヤツ、めちゃくちゃ怒ってたから。俺が三国の家に出入りしてるとか知られたら……」


 ……怒ってた? 頭の中にあの日の雲雀くんの様子を引っ張り出す。いつもどおりの無表情で、いつもどおりの無愛想な態度だっただけだ。


「……怒ってたって、どんな風に」

「新庄の顔見たら殺しそうなくらい?」


 比喩だとは分かっていても、なぜか身震いしてしまった。でも、そうか、もともと妹を誘拐したことがある相手だ、恨みは深いに違いない。それと私の拉致がどう結びつくかはさておき。


 桜井くんは雲雀くんを心配するように眉間に皺を寄せる。


「アイツ、キレたら手つけらんないとこあるからさあ。暴れ回ったら止められるの俺くらいじゃない」

「……そう……なの……? そうは見えないけど……」

「普段クールだから、キレるとヤベーよ。マジで次に会ったときぶち殺しそうだもんな……」


 食事を終えて箸を置きながら、桜井くんは少し迷うように視線を彷徨さまよわせた。何かを言いたげに、口をちょっと開いて、息を吸う。


「……三国、ごめん、本当にこれ最後にするんだけど」

「……なに?」


 この文脈で、謝罪をして、しかも最後にするというワードから導かれる質問は1つだ。机の下で拳を握りしめ、平静を装う。


「……本当に、本当に新庄は三国に何もしてないんだよな? ……変に、その、触られたりとか……、してないんだよな?」


 桜井くんの目はいつになく真剣だった。でも、どうしてそんなに真剣なのか分からなかった。


「本当だよ。何もされてない」


 これで最後だ。もう桜井くんが私に確認することはない。


 桜井くんはこめかみのあたりに手のひらを当てて肘をつき、黙りこむ。その目つきにいつもの天真爛漫てんしんらんまんな明るさはなく、まるで……持ちうる最大限の情報を総動員して私の嘘を弾劾だんがいしようとしているように見えた。

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