第90話

「私を思って言ってくださる言葉、私を思って伝えてくださる気持ち。全て、本当に嬉しいと、そう感じます。ですが、私はあなたに名前を呼んでもらえない。それが、なぜかとても悲しくて仕方がないのです」


「……六花」


「私は、あなたに自分の名を名乗っても、よろしいですか?」



 そう言って、白雪はじっと相手の瞳を見つめる。自分と同じ、紅の瞳は驚きに、そして白雪の言葉に頷いていいのか分からないのか不安に揺れている。それでも白雪はじっと見つめる。


 彼は、不安に揺れながらもそれに逆らえないように、ゆっくりと、それでも確かに頷いた。


 白雪は、少しだけ相手との距離を詰めるために近づく。握られている手の力が緩んだのを感じて、それを埋めるように白雪が手を強く握り返す。体が微かに跳ねたのを見つめながら、それでも、白雪は相手の顔を、その紅の瞳を見つめながら言葉を紡いだ。



「私は、現世における左京院のニノ姫、白雪と申します」



 そう言って、緊張のためか、少しだけ強張った笑顔を作りながら白雪はそれでも、相手から視線を逸らすことなく、彼からの言葉を待つ。


 緊張で少しだけ強張ったのどを震わせて、彼は言った。



「………うん、白雪」



 そう呼びかけられて、白雪は胸の内が温かくなる。それが、嬉しいという感情なのだろうかと思い、先ほどまでの緊張が一気に解け、とろけるようにその笑みを浮かべた。


 そんな白雪の変化を目の当たりにして、彼は、自分のしていることはもしかしたら間違っているのではないだろうかと考えてしまう。そばにいたいと願ったのも、好意を持っていると伝えたのも自分なのに、これほどまでに名前を呼んだだけで、うれしそうにしている彼女を見て、名を隠し、身分を隠し、こうして彼女とともにいる自分が少しだけ恥ずかしくなる。


 それでも、今は。


 この笑顔を見られたことに感謝しなければと。彼はなんとかいろいろなものを飲み込んで白雪に笑みを向けるのだった。



「……そろそろ、君を返さなければいけないね」


「あ……」


「大丈夫、また、君に会いに行くよ」


「本当ですか?」


「ああ、必ず。だから、待っていてくれるかい?」


「…はい。私は、あなたを待っております。ですから、私を迎えに来てください」



 言葉だけを聞けば、求婚の答えをもらえたような言葉だが、おそらく白雪自身にその認識はないのだろう。勘違いをするなと己を律して、彼は白雪を連れてもう一度自身の屋敷へと戻るために“鬼の道”を開いたのだった。

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