*黒猫ちゃんの秘密*
8
黒板に大きく白のチョークで書かれた球技大会の文字を目で追って何度目かのため息が零れた。
そう言えばそうだったと今更ながら思い出す。
こんな事を言ったら昴辺りに何を言われるか分かったものでは無いけれど、球技大会をする意味が分からないのだ。
球技ってどうしてこう無理難題ばかり押し付けてくるんだろう。
サッカーは足でしか蹴っちゃいけないって、両手を使ってですら上手く扱えないのにそんなものはもう絶対無理で。
バレーはバレーでいったいどこに飛んでいくんだと呆れられてしまうような方向にばかり飛んでいけばまだ良い方。去年は何とか繋がなければと足を踏み出した末、盛大な空振りをして笑われたのを思い出した。
じゃあ逆に何が出来ますかと聞かれたらわたしが一番それを聞きたいですと答えたいくらいに出来ないスポーツなのだ。
担任の香坂先生が球技大会で行われる種目をずらずらと書いていく。ああ、これなら出来そうと思えるものが一つも無かった。
「はい。今年の種目はこんな感じですね。バスケ、ドッジボール、ソフトボール、サッカー、バレー。去年の球技大会を覚えてる人ならわかると思うけど毎年の事ながら人数の問題で2種目参加してもらう子も居ると思うからお願いねー。」
軽い口調で言う香坂先生に絶句したのは言うまでも無い。先生、一種目ですら不安なんですけどそういう場合ってどうしたら…。
「うりは何に出る?そう言えば去年、バレーで凄い空振りしてて可愛かったよね。」
「…それは忘れて欲しい…。」
前の席である鈴音ちゃんが身体ごとわたしへと振り返り、あの日を思い出した様子でクスクスと笑う。
もうあんな恥ずかしい思いはしたくないからバレーはなるべくなら出たくないかな…。
出来るだけ皆の足を引っ張らないものと言ったら…たぶんドッジボールくらいなのだろうけど、これも侮っていると怖い種目で。
「去年ってドッジボールのボールって…」
「ああ、バレーボールでやってたよね。」
「何でそんな、痛いボール使うのかな。ふわふわのボールで良いと思うのに。」
あの当たっても痛くなさそうなボール、絶対探せばあると思う。
「うりがドッジボール出るならあたしも出るよ。ていうかたぶんドッジボールはほぼ全員強制参加みたいなもんだよね。」
他は出ないの?と言われて極力なら出たくないかな…と言葉を濁すと鈴音ちゃんはおかしそうに「うりってスポーツ苦手だもんね」と笑った。
勝ったからと言って凄い物が貰えるわけでも無く、全校生徒の前で表彰してもらえる。
ついでに一位になると男子のソフトボールに関しては最終試合で大人げないくらい本気でかかってくる先生達と戦えるという毎年恒例行事がある。
見物している生徒も皆盛り上がれるので、ソフトボールに関しては皆が皆気合を入れているらしく。
「昴はドッジボールとサッカーとソフトボールな。お前運動神経良いんだから3種目くらい余裕だろ。」
「いや待て。さすがに3種目はきついだろ。どう考えても無理だわ。」
「先生、昴くんがドッジボールとサッカーとソフトボールやってくれるそうです。」
「おお、頼もしいね。」
「待て待て待て。」
クラスの中で大抵何でもスポーツが出来る子が必ずソフトボールに入れられるのだけど、昴ってソフトボール出来るのかな。サッカーは凄く上手みたいだけど。
球技出来ないわたしが言うなって話だよね…。
クラスの子達の名前がそれぞれ種目別に分けられて黒板に書かれていくのを息を潜めて見守っていた。
時折、「この種目誰か被って出られる子いる?」と香坂先生に問われるたびにドキリとしたけれど、何とか名前を呼ばれずに済んだ。
それにホっとして油断していたのがいけなかったのか、それとも最初から香坂先生が狙っていたのか。
「女子のバレーの人数一人足りないなあ。種目1つしか出てない子誰か出られない?榎本さんとか。」
先生、どうして名指しでわたしを呼ぶのですか。
「香坂も見てたんだね、うりの華麗な空振り。」
そんなまさか、去年の二の舞になれって言うんですか先生。以前鈴音ちゃんがあいつは美女の皮を被った悪魔だと神妙な顔つきで呟いていたのを思い出した。
先生、そんな満面の笑顔で…。
名指しで呼ばれたわたしへとクラスの皆の視線が一斉に集まってたじろいでしまう。嫌ですともハッキリ言えないし、じゃあ出ますとも言えない中。
「こいつにバレーやらせたらたぶんとんでもない大事件引き起こすからやめた方がいいんじゃね。」
その様子を傍観していた昴がふと助け船を出してくれた。
だけどとんでもない大事件って、皆がその大事件について想像を巡らせているであろう沈黙が訪れて気恥ずかしくなりながらもわたしは香坂先生に「バレーは物凄く不得意で…」と言葉を濁しつつも訴えた。
ふむ、と香坂先生が笑顔のまま考え込む。その沈黙の間に目の前からズイっと高く片手が上がったのが視界に映った。
鈴音ちゃんが細い右手を頭上に突き出し。
「先生、あたしがバレー出ますよ。」とにこやかに言ったのだった。
「…ごめんなさい…」
「何で?あたしスポーツ好きだから全然良いよ。」
こんな物ではお礼にもならないかもしれないけれど、校舎玄関の近くにある自動販売機の前でわたしは「好きなもの選んでください」と深々と頭を下げていた。
鈴音ちゃんがおかしそうに笑いながらも「じゃあレモンティーごちになりますー」とボタンを押す。
「鈴音ちゃんドッジボールの他にソフトボールも出るのに。」
「時間被りあったら他の子が代わってくれるって言ってたし気にしなくて良いよ。こういうのって嫌々やるもんじゃないと思うし。香坂ってなかなか性格悪いよね」
「でも種目一つしか出て無かったのわたしだから、」
「だからって名指ししたら断わり憎いに決まってるじゃん。」
ふんと怒った様子で両腕を組んだ鈴音ちゃんに苦笑しながらも落下口からレモンティーを取り出した。両手の平に乗せて、それを突き出す。
「大変だったらわたしが出るから言ってください。」
「あはは、大変だったらね。」
レモンティーのペットボトルを受け取ると、キャップを外して口へと運ぶ。そこでふと。
「んぐっ。」
詰まらせるような音をたてた鈴音ちゃんがある一点を凝視しているのに気が付いた。
その視線を追いかけて肩越しに振り返ると、保健室から出てきた青井先生の姿があって。
いつもながら気怠い様子で歩いてくるその姿に、慌てて鈴音ちゃんの後ろへと身を隠す。何で隠れてるんだろうわたし。
ふと疑問が浮かぶ中、鈴音ちゃんが通り過ぎかけた青井先生の事を呼び止めた。
「青井先生こんにちはー」
「おー、こんにちはー。」
「さっきうちのクラス球技大会の種目決めしてたんですけど、青井先生も出るんですかソフトボールの最終試合。」
ピタリと足を止めた反動で白衣が揺れた。微かに香る煙草の香りは、その真っ白な白衣にはとても不釣り合いな香りに思えた。
今日は伊達眼鏡はしておらず、ハッキリとした顔立ちが視線に映ったところで凝視してしまっていた事に今更気づいた。
鈴音ちゃんは臆する様子も、かと言って緊張した様子も無く青井先生に話しかけていて。
「ああ、ソフトボールねえ。毎年先生達がやってるんだって?」
青井先生も先生で、特に呼び止められた事に驚いた様子も無く、考え込むように小首を傾げる。柔らかそうな髪がさらさらと揺れた。
「青井先生若いから、絶対誘われると思って。」
「いやあー、俺身体動かす事苦手なんだわ。だから丁重にお断りしてるところ。」
「先生いつも気怠げだもんね。」
「君達は何に出るの?」
「あたしはドッジボールとソフトボール…あとバレーにも」
「へえー凄いな。」
関心した様子で頷いた青井先生が「怪我しないようにね」と微笑みかけて手を振った。丁度そのタイミングで次の授業を告げる予鈴が鳴る。
隣を通り過ぎた青井先生がちらりとわたしを見て、同じように微笑むとついっと視線を外して廊下の奥へと歩いて行く。
去りゆく先生の背中をジっと見つめていた鈴音ちゃんが「やった。話せちゃったね!」とわたしの背中を押した事で、思い出したように教室へと向かった。
後方を振り返ると、鈴音ちゃんは楽し気に「皆に自慢しなきゃ」と笑顔を浮かべながら言ったのだった。
放課後になり、いつも通り教室に長居せずに校舎玄関へとやってくると目の前をヒラリと黒い何かが横切った事に驚いた。
今のって…もしかして。
靴箱から取り出していたローファーを、引っ掛けるようにして履いた。
スクールバックの中からバイト先で購入した少しお高い(青井先生が買っていたもの)猫缶を取り出す事も忘れない。
チリチリと鳴る鈴の音の後を追いかけてみると、―――居た。
「クロちゃん…」
勝手に新が命名していたその名を借りて呼んでみる。
黒猫は「にゃー」と一声だけ鳴いて、頭上の開かれている窓を見定めると身軽にもヒョイっと窓枠へと飛び乗って室内へと消えてしまった。
開いた窓の奥で真っ白なカーテンがゆらゆら、ひらひらと揺れていた。
室内へと入っていった黒猫ちゃんの鈴の音が聞こえる。ちりちりと。
中に入って行っちゃったけど、ここって。
一瞬呆然とした後、そっと窓枠へと近づいてみた。校舎玄関から帰路を急ぐ生徒が数人現れて校門をくぐっていく姿が視界の隅に映る。
風に揺れていたカーテンを指先で掴み、音をたてずに開いてみる。保健室独特のあの薬品の香りがした。
「あ……」
白で統一されたその空間にハッキリとした黒色が見える。
保健室のソファーで堂々と横になり眠っているその人のお腹の上へと飛び乗ると、ぐりぐりと甘えるように自らの額をその人のシャツの胸元へと押し付けた。
それでも身じろぐ様子の無い事に少しだけ腹を立てたように「ナアー」と甲高い声で鳴くと、今度は頬を前足でむにっと踏みつける。
「ん…、」
さすがに異変を察したらしいその人が夢から覚めた様子で長い睫毛を震わせた。瞳を閉じきって眠っているその姿は、息を飲む程綺麗。
細い指先が手探りで空中を滑り、黒猫ちゃんの身体へと触れた。慣れた手つきで優しく滑るその指から目が離せない。
気持ちよさそうにゴロゴロと喉を鳴らすその声まで、どうしてかハッキリとわたしの元まで届いた。
「お前ねえ…、ここに来たらダメだって何回も言ってるでしょうが。見つかったら俺が怒られるでしょう。」
ふわふわと欠伸を噛み殺しながらもほんの少し困った様子で呟くその声は未だにまだ眠たそう。
うとうとしているのか、そこで一旦言葉が途切れ一瞬スウと小さな寝息に変わってからハっとしたように上半身がむくりと起き上がった。
茶色の髪が寝転がっていたからか乱れていて、毛先があっちに跳ねこっちに跳ねている。いったいどれくらい寝てたんだろう。
呆然としたままその様子を見入ってしまっていたところでついっと黒猫ちゃんに止まっていた視線がわたしへと向いた。
『あ…』
と、驚きと困惑を含んだその一文字が重なってしまう。
何て弁解したら良いものか、慌てて踵を返して立ち去ろうとすると。
「待って待って。」
ギシリとソファーが軋む音と白衣の衣擦れの音、それから優しい声がわたしの背中へと届いた。
歩き出しかけた足がどうしてかその声に導かれるようにして止まった。
ゆっくりともう一度身体ごと振り返ると、黒猫を胸元に抱きかかえながらやってきた青井先生がひょっこりと一度窓から顔を出し辺りを見渡してからわたしへと視線を下ろした。
何というのか、とても罰が悪そうな表情で。
「いやあーその、この事内緒にしててくれねえかなあ。」
ちりちりと黒猫ちゃんの首輪についている鈴が鳴る。あんなに懐かなかったのがウソみたいに、青井先生のシャツにしっかりとしがみついている。
「その子、…もしかして先生の猫ちゃんなんですか?」
誰にも懐かなかったのが、青井先生にだけ懐いてて。バイト先にやってきた時、話していた愛猫ちゃんの話を思い出してふと合点がいった。
問いかけてみると案の定、青井先生は考え込むような表情をしたのち、「はい」とこっくり頷いた。何だか悪さが見つかった子供みたいに見えて笑ってしまいそうになる。
「教えたわけじゃねえんだけど、急に来るようになっちゃってねえ。言い聞かせても聞かねえんだわ。他の先生達に見つかると、さすがに叱られるだろうから黙っててくれる?」
「…ふっ、」
「えー何で笑うかなあ。これでも結構困ってんのよ?いつ見つかるかってハラハラしてんだから。」
そうは言うけど、黒猫ちゃんが来てくれて満更でも無さそうな表情に見えるのは気のせいなのかな。
肩をすくめながらも、指先で黒猫ちゃんの喉元を撫でてあげてる。瞳を閉じてうっとりとした様子のその子を見ていたら本当に青井先生が大好きなんだということが伝わってきた。
「そう言えば、前に会った時指怪我してたよな。もしかして、こいつに引っ掻かれた…」
「あ、いえ…、わたしが急に手を出しちゃっただけで。」
「はあー…、気が強くってなかなか人に懐かない猫なんだわ。ごめんねえ。」
「ぜ、全然大丈夫ですっ。」
ぶんぶんと頭を横に振ると、勢いづきすぎて長い髪が乱れた。
その様子を室内から眺めていた青井先生は少しだけおかしそうに口元を緩めると、そっと手の平を伸ばしてわたしの指先を取った。
それはあまりにも慣れた手つきで、突然の事だったから理解するまで時間がかかり。
「傷残ってねえ?」
以前怪我したその箇所をそっと人差し指と親指でツツツと辿る。その様子をまじまじと見つめ。
「――!」
一拍遅れて身を引いた。
先生の指先が離れて、何事も無かった様子でまた黒猫ちゃんの身体へと添えられる。動揺しているのはわたしだけみたいで、青井先生の顔色は何一つ変わってはいなかった。
「傷残ってないですっ。そんなに深く無かったので。」
「そう。悪かったね本当。」
「い、いいえっ。」
一瞬の沈黙が訪れて、ここからどう帰る事を切り出そうか悶々と頭の中で考える。
心臓は無意味にドキドキしていて、怖かったのか驚いただけなのかそれとも全く違う感情なのか、わたし自身良く分からないでいると。
「それ」
青井先生がそれ、とわたしの手元へと視線を落とした。
握られた方の手とはまた別の。
黒猫ちゃんを見つけてからぎゅっと強く握り込んでいた物の感触が今更手の平に伝わってきた。
持ち上げて眺めてから青井先生に視線を上げる。きょとんとした様子の青井先生がわたしと手の中のそれを見比べて、明らかに。
「…っ」
――――笑った。
必死に押し隠しているのかもしれないけど、一瞬崩壊しかけたの見逃さなかった。
つま先から頭の天辺まで恥ずかしさで一気に熱がこみ上げてくる。たぶんわたしの顔は茹でダコのように真っ赤だと思う。
「これはっ…たまたま持っていてっ」
「うんうん、そうだねえ。」
「決してその、懐いて欲しくて買ったわけじゃなくて…」
顔を背けた青井先生の肩は震えていて、「ふっ…」と押し殺しきれなかった笑い声がわたしの元まで届く。
そうだったわたし…その子に食べて欲しくて猫缶を握りしめながら追いかけてここまで来たんだった。
色々悟ったらしい青井先生がおかしそうに笑ってる。わたしはムっと口を曲げながらも。
「ち、違いますからね。」
と言いつつも、追及されたら何て返したらいいものか頭の中は真っ白だった。
バイト先で余って…だとしても何のために学校まで持ってきたの。実はうちも最近猫を飼って…だとしてもどうして学校にそれを持ってきてるの。
考えて突っ込んでを繰り返した後。
「あげますっ」
ぽんと窓枠にそれを置いて、踵を返した。頬が尋常では無い程熱かった。
片手を押し付けると手の平の冷たさが伝わってきて、どれだけ真っ赤なのか容易く想像がつく。
駆け足気味でその場を立ち去ると。
「榎本。」
わたしの名前を青井先生が静かに呼んだ。
保健室の窓から少し離れたその場所ではたと足を止めて振り返る。
真っ白なカーテンが風に揺れてひらひらと踊っていた。窓際に立っている青井先生はくしゃりと表情を破顔させると、猫缶を手に取り。
「ありがと。気を付けて帰りなさいね。」
そう言った。
わたしは返事をしようと口を開いたけれど、緊張感からまともな言葉が言えそうには無くて、ぺこりと頭を一度下げてから背を向けた。
振り返ったらまだそこに揺れるカーテンと気持ち良さそうに瞳を閉じている黒猫ちゃんと、優しく笑う青井先生が居るのだろうか。
確かめたい気持ちになったけれど、振り返らずに駆けだした。
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