*学校1美人な先輩*

いつからこの家はこんなに静かになってしまったんだろう。




いつからこの家は普通じゃなくなってしまったんだろう。




いつから私は一人だったんだろう。




記憶の奥底にある、わたし達はとても幸せそうで、普通の家族ってきっとこういうものを言うんだと思う。




わたしとお母さん、2人を養うために働いてくれていたお父さんはいつも大変そうだったけど、愚痴一つ零さない人だった。




温かいご飯を皆で囲んで食べる。他愛ない話をして、わたしの今日一日の小さな出来事をうんうんと頷いて聞いてくれるそんな優しい両親だった。




それがどうした事か、突然何かのタイミングで壊れたのだ。




幸せだった家族の記憶が割れたガラスの破片のようにハラハラと散って落ちていく。底の無い暗闇へと吸い込まれ、どんどん見えなくなっていく。




時間が経つ事に一つ、また一つと楽しかった記憶が消えていくわたしと同じように、夢の中で見たそれらも悲しい事に破片となって散らばって一つ一つ暗闇に飲み込まれて見なくなっていった。




――――バタン、と扉が開閉される音に目が覚めた。




「……2時…」




ベッドの上の目覚まし時計の時刻を確認し、息を吐き出す。




まだ太陽すら登りきらないこの時間、お母さんはいつも仕事を終えて帰ってくる。




深夜なのにご近所さんの迷惑すら厭わない様子で、ドタバタと覚束ない足取りでリビングへと歩いていく大きな足音が聞こえてきた。




『はあー…つかれたあ』




わざとらしい声が階段の下から聞こえてきて、渋々ベッドから降りた。




床に置いておいたブランケットを肩にかけて自室の扉を開けて顔を出す。リビングに煌々と灯る電気にまだ起きたばかりの瞳がクラクラした。




「おかえりなさい」




静かに階段を下りて、リビングへと足を踏み入れた。




いつもながらわたしでさえ着ないような派手な服を着ているお母さんは、冷蔵庫の前で2リットルのペットボトルに入ったミネラルウォーターをごくごくとそのまま飲み下していた。




お母さんが通ったその後はとてもきつい匂いがする。タバコとお酒と香水がぐちゃぐちゃに混ざったような匂い。




わたしはこの匂いがとても苦手。




「ああ、起こしちゃった?」



「平気、まだ寝て無かったから。大丈夫?」



「大丈夫よ。ちょっと吞みすぎちゃっただけ。今日のお客さんしつこいのよ、呑んで呑んでって言われると断りにくいじゃない」



「そうだね」




中途半端に残ったミネラルウォーターをそのままに、また冷蔵庫へとペットボトルを乱暴に戻すと、熱い熱いと言いながらニットの胸元を指先で掴んでパタパタと風を送ってる。




わたしはその様子を眺めながらも、今日渡さない方が良かったな…と今更後悔していた。




リビングのテーブルの端に四つ折りにしてたたんでおいたその紙を、お母さんが気づかないでくれたら嬉しい。だけどそんなのは無理な話で。




「何よこの紙」




椅子を引いてどっかと勢いよく腰を下ろすと、ふと視界に入ったらしいその紙を面倒そうに引き寄せて開いた。




繁々と見つめ、眉間に濃いしわを作っていく。




その紙は2年生で行く修学旅行の場所が沖縄に決まったという報告と、それにかかる費用が記載されている紙だった。担任の香坂先生からちゃんとご家族の方に渡すようにと言われていたもので。




「修学旅行、沖縄?」




今更、それは違うのと言ったところで結局いつかは言わなければいけない事。だけど今日のタイミングが良くなかったと思う。




お母さんの機嫌は、今日とても悪そうだから。




わたしは今更逃げられないと分かりながら言葉に困って一度押し黙った。その間お母さんはプリントの文字を一つ一つ確かめるように視線で追っていく。



マスカラが塗られた睫毛が何度もパタパタと閉じて開いてを繰り返してる。驚いた様子で。




「これだけお金がかかるって事?馬鹿らしい。たかが修学旅行でしょ、何で沖縄なのよ」



「それはたぶん、1年生の時に修学旅行はどこに行きたいかってアンケートを取ってて、その集計結果で決まったんだと思う…」



「高校生が沖縄って生意気なのよ。自立して自分のお金で行きなさい」



「でもそれ、担任の先生が早めに提出しなさいって」




敢えて行く行かないの選択がある事については言わなかった。




たぶんそれを話したらお母さんは迷わず行かないの選択を取ると思って。




ズルい言い方をしたと思ってる。でも、クラスの子達が楽しそうに修学旅行の事について話している話にわたしも参加したかった。




一緒にいけたらどれだけ良いかーーーそう思っていたけれど。




お母さんは適当にテーブルに転がっていたボールペンを手に取ると迷う事無く不参加の文字へと大きな丸をつけようとしていて。




「行っちゃ…ダメかな…」



「何言ってるの、うちがどれだけ切羽詰まった生活してるか分かってるでしょ。じゃなかったらお母さんだってこんな仕事してないんだから」





それは…分かってる。お母さんにも凄く迷惑をかけてる事も、わたしという存在がどれだけの重荷になっているかという事も。




でもきっと皆行くと思うんだ。だからわたしも行きたいんだけどーーーと喉まで出かかった言葉を飲み下した。




お母さんは空中でペンを止めたままついっと私に視線を上げる。何か言いかけた事を容易に察したらしく長い溜息と共にボールペンをテーブルへと放った。




カラカラと音をたてたペンがテーブルの上を転がってフローリングの床へと落下した。ほんの少し大きな音をたてて。




「ねえお願い、お母さんの事これ以上困らせないでよ。私に身体壊してまで働けって言うの?それでこんなたかが学生の思い出作りに行けて満足なの?お母さんより旅行の方が大事なわけ」



「……そんな事無いよ。お母さんの方が大事に決まってる…」



「じゃあそんな目で見ないでよ」




それってどんな目?わたしは本当にお母さんにこれ以上無理をして欲しいなんてこれっぽっちも思ってないよ。




だけどこうなってしまったら何を言ってもダメな事は分かっていたから黙って聞いていた。




お母さんはひたすらに「疲れてるのに」と愚痴を零し「行けないって分かってるでしょう」と言い聞かせ「学校に行かせてもらえてるだけ有難いって思わなくちゃ」と呟いた。




わたしはそのたび「うん」と頷いて「ごめんね」と謝った。




お母さんの手でぐしゃりと握りしめられていく紙をジっと見下ろしながらも、心の中は空っぽでお母さんの声は一つ一つ心の奥底を抉って消えていく。




「あんたが自立して自分のお金を貯めて行く分にはお母さんは何も言わないのよ」




だから分かってとわたしを宥めるようにお母さんの手の平がそっとわたしの背中を撫でた。




最後に何か言いかけた言葉をぐっと嚙み締めたお母さんは、疲れたような顔のまま「もう寝るわ。」と椅子から立ち上がり部屋を出て行った。




部屋にたった一人取り残されたわたしは大きく息を吸い込んで。




「はあ…」




小さく息を吐きだした。




テーブルの上、投げ捨てられた紙をジっと見据え、視線を逸らす。冷たくなった室内はわたしの体温をどんどん奪っていく。




“あの日”からずっと、この家は凍ったように冷え切っている。




私もお母さんも、何もかも全部。




***




「うり、…またバイト増やすのかよ」



「びっくりした…おはよう」




肩に押し付けた傘の下、登校時に通りがかった本屋さんの前にあった無料のバイト雑誌を開きながらも歩いていたら突然横から声をかけられた。




隣を見やると同じように傘を差していた昴がわたしの手元のバイト雑誌をジっと見つめていた。




雨粒がアスファルトと傘の上を跳ねる。




朝方から降り始めた大雨のせいで、桜はほとんど散ってしまっていて足元には水たまりの上に散った花びらが沢山浮いていた。




そうか、今日は雨だから歩きなのかと隣の昴が歩きの理由に気づく。




「バイト…まあ増やせたら良いなあと思って」



「ドラッグストアのバイトしてるだろ。あと土日にお弁当屋?だっけか、何かそんなの」



「おにぎり屋さんだよ。あそこのおにぎり凄く美味しいんだあ。今度また作ってくるね」



「いや、おにぎりはどうでも良いわ」




そういう話じゃねえんだよとペシンと肩を叩かれる。まるで突っ込みでもいれるみたいに。




昴のいつもツンツン跳ねている髪は大雨のせいか、いつもよりも調子が悪いみたい。それもまた新鮮だなと思っていると。




「これ以上どこにバイト入れんだよ。怪しいバイトとかすんじゃねえぞ」



「怪しいバイトなんてしないよ。夏休み入ったら短期で何か他にやれる事無いかなって思って」




高校生大歓迎、短期OKの文字を視線で辿ってみる。




今はこれ以上無理でも夏休みに入ればもう少し増やしても大丈夫なはず。今してるバイトはそのままに、午前中いっぱい他の短期バイトを入れればーーーそうすれば少しはお金が貯まるだろうか。




「休み中全部バイトで潰す気かよ」



「せっかくの休みなんだから働けるだけ働かないと」



「…お前、何かあったのか」




雑誌にだけ視線を落としていたから足元で盛大に水たまりを踏みつけた。水音をたてて飛び散ったそれが一瞬視界に映る。




隣で怪訝そうな表情をしている昴は、明らかに何か察した様子だった。それをわたしが口にするのを待っているような。




でも、言えない。縋っても何もならないって分かってる。お母さんの事を困らせて、昴にまで迷惑をかけたくない。




「何も無いよ。でも、休み沢山あっても持て余して潰しちゃうより良いかなって思うんだよね」




苦笑しながらも開いていた雑誌を閉じて筒状に丸めてバックへと押し込んで言った。




昴は「そっか…」と呟きながら、どこか納得していないような表情だった。




雨粒がまたパラパラと傘の上を弾く音がする。




何となく気まずくなりかけた空気の中、「雨すげえな」と昴が呟き、わたしも「本当だねー」と互いに意味の成さない言葉で取り繕った。




「片桐先輩と新くんって仲良いの?」



「へ?」




授業と授業の合間にある、少ない休憩時間で1階の自動販売機へとやってきた。




校舎玄関の外はまだ土砂降りが降り続いていて、アスファルトを打つ雨の音は今朝よりも酷くなっているような気がする。




隣でパックのココアを落下口から拾い上げた鈴音ちゃんがぽつりと呟いた声が聞こえてきて顔を上げてみると、廊下の奥で話している新と片桐先輩の姿があった。




新はまた、この時間に登校してきたんだろうか。




学ランの肩がほんの少しだけ濡れていて、スクールバックを面倒そうに肩に掛けなおしていた。




その隣には学校1美人だと言われている片桐 小夜先輩の姿が。横顔だけでも見惚れてしまう程の美人と並んでいても新は目劣りしないどころか何だか凄く良い感じに見える。




わたしは投入しかけて止めていた500円玉を自販機の中へと押し込んだ。目の前で飲み物のランプが灯る。




「新って、女の人に凄くモテるみたいだからもしかしたら仲が良いのかも」




仲が良いと言っても、親しい関係と言うのとは少し違っていて首に真っ赤な跡をつけるような関係――――とはさすがに言えない。




片桐先輩もそうなのかな。




新と…その…そういう事をしているのかな。




「へえー。片桐先輩って可愛いけど結構悪い噂聞くよ。新くんってうりの幼馴染なんでしょ?放っておいて大丈夫なの?」



「悪い噂って?」



「男とっかえひっかえしてるとか、それこそやばい事してお金稼いでるとか、なんかそういう悪い噂」




灯っていたランプの中からミルクティーのパックのボタンを押す。ガコンと音をたてたそれを拾い上げ、遠く離れている二人を見やる。




片桐先輩が何か楽し気に話しながらも抱えていた袋を新に手渡した。可愛らしくラッピングされたそれが何なのかは良く分からないけれど、新は素直にそれを受け取っていた。




悪い噂は良く分からないけれど、笑う片桐先輩はやっぱり凄く可愛らしくてとてもそんな事をしているようには見えない。




「そうなんだあ」



「そうなんだあーって」



「でも、新の交友関係の事まで口出す権利無いから」




親しき仲にも何とやらと言いますし。




ミルクティーのパックにストローを刺す。丁度そのタイミングで予鈴が鳴って少しだけホっとした。




鈴音ちゃんは呆れたように肩を竦めると、わたしの肩を押して教室へと歩き出した。




廊下の奥ではまだ、新と片桐先輩が話していて予鈴の音に慌てて教室へと向かう様子は無く、2人で連れ立ってどこかへと向かって歩いて行く背中が見えた。




何となくいけない想像をしかけた頭をぶんぶんと払う。




学校1美人だと言われている先輩と新が。




女の人からだけじゃなく、男の人からも恨みをかうんじゃないだろうか…そんな心配を抱えつつ、鈴音ちゃんと共に教室へと急いだのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る