*変わった先生*
4
あの可愛らしさとは裏腹の素早い猫パンチを受けてから数日経った。
傷口はほぼ完治していて、傷もそんなに目立たない程度まで治ってきていた。
そう言えばあの猫の目撃情報、かなり増えてるみたいだったな。クラスの中でもあの黒猫を見かけた子が数人居て、やっぱり誰にも懐かないらしかった。
ふらりと現れてふらりと消えてしまうんだとか。
細い傷跡がまだ薄っすら残る人差し指を眺めていたら頭上からヌっと影が落ちてきた。授業と授業の合間の短い休み時間、自分の席から特に動かずに居たらいつの間にか目の前には昴の姿が。
そのままどっかりと前の子が居ない事を良い事に椅子を引いて腰を下ろすと。
「お前、最近新の事見かけたか?」
次の授業のためにと用意していたわたしのノートにシャーペンでぐりぐりと落書きをしながらもそんな事を問うてきた。
つんつんと跳ねた黒髪の毛先を視線で止めていると、ふわりとワックスの香りだろうか、柑橘系の香りがした。
「新なら少し前に見かけたけど、何かあったの?」
ノートに落書きされていくそれはとても可愛いとは言い難い動物のイラストで。これってまさか…ゾウなのかな。ちょっと認めたくないけど。
「いや、学校着いてから俺もあいつのクラス行ったりしてんだけど全然居ねえんだよ。もしかして一つも授業受けてねえのかと思って」
そう言いながらもゾウらしき絵の隣に矢印を一つ書くと「ん」とシャーペンをわたしに差し出してきて。もしかして、しりとりって事なのかな。とりあえず矢印の隣にうざぎの絵をかいてみる。
「ぶっさ」
待って、昴には言われたくない。
「どうだろう、わたしもあんまり話せてないから分からないけど」
「あいつの事だから女とばっかり遊んでんだろうな。まじで単位落とすぞ」
「その辺は上手にやるから大丈夫とは言ってたけどなあ」
新って、そういうところ器用だから心配な事は心配だけどさすがにそれは無いって思ってたんだけど、昴の言う通り2年になってから一度も授業に出ていないのならそれはさすがに問題だと思う。
「学校には来てるんだよね?」
「……来てるみてえだな」
「みたいだなって」
「一緒に登校してるわけじゃねえからな、あいつ朝弱いから大抵遅刻してくんだよ」
なるほど、それは納得かもしれない。新が朝からシャキっと起きて学校に向かう姿は想像出来なかった。こんな事を言ったら怒られるかもしれないけど。
「昼休み、新の事探しに行ってみるわ。うりも暇なら一緒に来ねえ?あいつ兄貴の俺の言う事よりうりの言う事の方がそれなりに素直に聞くんだよ」
それはたぶん違う。わたしが言っても新はきっと鬱陶しそうに「はいはい」って頷いて終わりだと思うんだ。
やっぱりそういうところお兄ちゃんの昴が言う方が新だってちゃんと素直に聞いてくれるはず。
だけど新の事が気になる気持ちは同じだから。
「うん、一緒に探しに行く。」
「え、あ…おう。」
「なに?昴から誘ったのにその顔。」
「誘っといてあれだけどな、お前は行かなくていいのかよ。クラスの女子達が噂の青井先生に会いに行くーって意気込んでたぞ」
そう言われてみると確かに、今日こそは青井先生に会って色々な事を聞き出すんだと今朝から意気込んでいた。
ちなみにサボって青井先生に会おう作戦は見事に失敗したらしい、と言うのも勘の良い担任の香坂先生が担当授業が無い時間、保健室の廊下で見張っていた所に運悪く出くわしてしまったらしい。
【あいつは美女の皮を被った悪魔だ】と呟いていた、前の席の鈴音ちゃんの落胆した様子を思い出す。
「わたしは行かなくてもいいかなー、新の事が気になるし。」
あの日、たぶん青井先生がくれたのだろう絆創膏の事を何度か考えた。何でわざわざくれたんだろう、なんて悩んだけれど理由は簡単だった彼は保健室の先生だ。
生徒が怪我をしていれば絆創膏の一つや二つくれるくらいきっと当たり前なんだと思う。
授業が始まるチャイムが鳴って、廊下に出ていたクラスの子達が戻ってくる姿が視線に映る。新はわたしが書いたうさぎの隣に不気味な絵を一つ付け加えて。
「じゃあ、昼休み飯食ったらな」
とそう言って鈴音ちゃんの席から立ちあがると自らの席へと足を運び、机に突っ伏してしまった。これから授業が始まるのに驚く程堂々とした居眠りだと感心しながらも付け加えられた絵をジっと見据える。
これはいったい……考えたけれどそのイラストが一体何なのか授業が終わるまで皆目見当もつかなかった。
今日はお母さんの寝坊でお弁当が無いのだとボヤいていた鈴音ちゃんと共に購買へとやってきた。購買は相変わらず凄く混んでいて、レジの前にはズラリと長い列ができていた。
「うわー凄いね。やっぱりもっと早く来るべきだったなあ。」
「ここの購買のパン美味しいって有名みたいだし、いつも凄く並んでるんだよね」
だけど早く来たからと言ってお目当てのパンが買えるかと言えばそういう話でも無いから難しい。
わたしもどうしてもクリームパンが食べたくて授業が終わってすぐに来た事があるけれど、押し合いへし合いのバトルを目撃してしまい足が竦んで結局クリームパンは買えなかった。
今もそれなりに混んでいて3年生の先輩達がパンの前に並んでいて、なかなか取りに行けそうにないーーーと。
「うりは何が食べたいの?」
「え」
「うりみたいにちっこい子じゃこの争奪戦バトルの輪に入っていくなんて不可能でしょ。弾き飛ばされて転んで終わり」
「ちっこいって…」
いやでも正論かもしれないから強く言い返せない。
「あたしが取ってきてあげるよ。何が食べたいの?うり、いっつもサンドイッチばっかり食べてるじゃん。あれ絶対おろおろして最後の最後余ったもの買ってきてるんじゃないの」
「うっ」
それはその…図星です。
言い淀んだわたしに鈴音ちゃんはやっぱりね、な表情をして呆れたようにため息を吐き出すと。
「ほら、何が良いか言ってみなさい」
腰に両手を当てそう言った。鈴音ちゃんが沢山の人に好かれているのって、何だか凄くわかるなあ。
頼もしすぎると感心しながらも小さい声でぽつぽつと。
「クリームパン…食べたいです」
「良し来た任せろお!」
言うや否や鈴音ちゃんはセーラー服のスカートが捲れる事も厭わずに勇敢にも人混みをかき分けて輪の中へと押し入っていったのでした。本当に凄かった。
「鈴音ちゃんありがとう。わたしこの購買に通うようになってから初めてクリームパン買えたよ」
階段を上りながらもビニール袋に入ったパンを鈴音ちゃんと一緒に確認する。クリームパンに焼きそばパン、メロンパンにチョココロネ。わたし一人じゃ到底手に入れられないそれらがぎっしり詰まってる。
鈴音ちゃんは「どういたしまして」と微笑みながらも焼きそばパンを取り出すと階段を上りながら袋を外して食べ始めた。
美味しそうに頬張る姿を横目に2年階へとたどり着くと。
「あ、黒猫」
窓の外にいるあの黒猫を見つけた。今日は花壇の周りに集まっている蝶々をハンターのような目でジーっと見上げている。
「あの黒猫最近良く見かけるよね。誰かの飼い猫なんじゃないかって話」
「確かに首輪着いてたなあ。でも全然懐いてくれないんだよね。あんなに可愛い顔してるのに凄い猫パンチしてくるの」
「あはは、猫用のおやつとか買ってきたら懐いてくれるかもしれないよ。うちのじーちゃんそうやって野良猫にいつもおやつあげてたら皆うちに寄りつくようになっちゃってね」
なるほどーそういう手があったのか。
尻尾をふりふり、頭上の蝶へと飛び掛かった黒猫を見下ろしながらも今度何か買ってきてみようと心に決めた。
鈴音ちゃんを筆頭にクラスの女の子達が青井先生を探しに教室を飛び出していった背中を見送った後、昴と共にわたしも教室を後にした。
昼休みのこの時間、生徒達が各々の時間を過ごしていて。廊下でキャッチボールをしていたり、教室でトランプや漫画本を読んでいたり、でもどこのクラスも女子の数は凄く少ないように思う。
たぶんきっと皆、青井先生を探しに行ってるんだろうなあ。
「新の奴、さっき連絡入れてみたけどやっぱ返ってこねえな。既読もつかねえし」
「そっかあー。でも学校には来てるみたいだったね」
たまたまさっき通りがかった新と同じクラスの男の子に昴が「新今日来てんの?」と問いかけていた言葉を思い出した。「昼前に一回顔見せたけど、それっきり見てねえな」と。
「あいつの性格上、あんま詮索されんのも好きじゃねえからな。どこまで突っ込んで言っていいもんか」
「そうだねえー」
互いにうーむと悩みながらもフラリとどちらからともなく屋上へと続く階段へと足を向けていた。サボるのに打ってつけの場所と言えばたぶんこの辺なんじゃないだろうか。
1年の頃も新が屋上へと続く階段を何度か上っていくのを目撃した事があったから。
そうしてたどり着いた屋上の扉をそっと押し開く。暖かい日が落ちてきて、どこかから花の香りを運ぶ風が吹き抜けた。
わたしの長い髪がぶわりと一度乱れてまた肩から垂れ下がる。
日陰が一切無い屋上に新はーーーーやっぱり居た。
「はあ…」
隣で昴が困ったようにため息を吐いて首裏に片手を這わせると、そのままのっそりと屋上へと足を向けた。わたしもその後に続いていく。
隠れる気もさらさら無いのか日当たりの良さそうな中央で学ランを枕に寝そべっていた新は、目元に乗せていた片腕を退かすと面倒くさそうに顔をしかめてこちらを見た。
近づいていくたびに、ギクリとわたしの身体が強張っていく。それは昴も同じようで。
「新、それ…また喧嘩したの?」
肘辺りまでワイシャツの袖を捲り上げていたからそれはハッキリと良く見えた。
新の腕につく無数の傷と痣。痛々しく変色しているそれは良く良く見知ったものだった。
「お前らも暇だね。俺の事まさか探しにわざわざ来たの?」
鬱陶しそうにため息を吐いた新はわたしの質問にはさらさら答える気はないみたいで。
だって、そんな痣見ちゃったら尚更放っておけないよ。わたしだって昴だって。
新は女の人を沢山相手にした際に着く真っ赤な跡と同じだけ、いつもどこかで喧嘩をしてこうして沢山の痣をつけてくる。それは中学生頃から始まった。
どこで何をしてきたのかと昴が問い詰めても、新は絶対言おうとしなかったし、あまりにもしつこく聞かれようものなら「女の事でちょっとあっただけ。」とそれ以上追求するのを許さない鋭い瞳でそう繰り返した。
腕に着いた痣を隠すように折り曲げていたシャツをくるくるとまた元に戻していく。そのまままた、片腕で目元を覆い眠りにつこうとした新の手首をぐいっと昴がその時掴んだ。
「お前がそうやって危なっかしい事ばっかりしてるから俺もうりもお前の事が気になってしょうがねえんだよ」
「あのなあ、大した事ねえし」
「俺が上手い理由考えてやるから、とりあえず手当てしに行くぞ」
「お前の上手い理由なんて信用ならねえよ。うり、こいつどうにかしろ」
引っ張る昴に抵抗する新。本気で嫌がっている様子の新がわたしを手招きして呼ぶけれど、どうしたものか分からずにわたしはその様子を眺めるしかない。
その怪我だから手当てをした方がいいのだとは思うけど、新の言う通り色々聞かれたらやっぱり困るのは新なわけで。
優しいあの岡本先生なら理由とか聞かずに手当てしてくれるかも…と色々考えていたら。ふいに視界の中にその人が現れた。
コンクリートで作られた塔屋の上に腰を下ろしていたその人はタバコの煙をふわふわと吐きながらも面白そうに瞳を細めてこちらを見ていた。
いつからそこに…たぶんきっと最初から居たのだろう。全然気づかなかった。
わたしと同じく昴も新もそれに気づいたらしく目を丸く見開くと今までわあわあと騒いでいたその口をぴったりと閉じる。
一瞬の緊張感が訪れる。塔屋の上から白衣の裾を風に揺らし、こちらを見下ろしていた青井先生はフっと微笑むとそのまま何事も無かったように寝そべった。
「寝るんかい!」
昴の鋭い突っ込みが青井先生に向かって投げかけられた。だけどわたしもそう思った。寝るんだ。この騒ぎを聞いていたのに気にしないんだ。
青井先生はぷらぷらと引っ掛けていた靴を揺らすと「俺の事は気にせず続けなさい」と肩の力が抜けるような声を出す。
「いや無理だろどう考えても。居座んなよ出てけ」
「それは無理でしょうー。ここ俺の休憩スペースだし。喫煙所って学校に全然無いんだものー。職員室の一角しか無いのよ驚きだわー」
何だか他の先生達とは少し違うというか、変わった先生。生徒の前で堂々とこんな風にタバコを吸っていいものなんだろうか。それも保健室の先生が。
そう…この人も保健室の先生だ。
わたしが察したのと同じように昴も「あ…」その事に気づいたらしい。
一声発すると考えるように腕を組む。
「おいてめえ、青井」
昴、それはさすがに無いと思う。そんな喧嘩腰じゃさすがに怒られ。
「はいはいなーにー」
―――無かった。全然怒ってる様子無い。
「てめえ腐っても養護何ちゃらってやつだろ。こいつの怪我、手当てとか出来るんだよな」
「す、昴……その言い方は…」
「何でだよ。こいつが出来んなら丁度良いだろ。追及してこねえようにちょっと脅してやって」
そこ、普通に頼めないのかな。拳握りしめながら言うなんて物騒すぎる。新の事何も言えないよ。
昴の言動に半ば焦りながらも結局は何も言えず見守る事しか出来なかった。
青井先生からの返答は一旦途絶えて、やっぱり怒らせてしまったんだなと次に続くであろう怒声に身構えていた。
男の人の怒鳴り声は凄く響いて恐ろしい。頭の中に浮かぶ嫌な記憶に身体が強張りそうになったその時だった。
ヒラリと頭上から青井先生が下りてきたーーー否、飛び降りた。けれど軽い音を立てて着地した彼はタバコを引き抜くと、携帯灰皿へとそれを押し付けて。
「昼休みは俺の貴重な休憩時間なんだけどねえ、可愛い生徒の頼みだから仕方ねえな」
そう肩を竦めると視線だけで着いて来いとわたし達に促した。わたしと昴は目を丸く見開きながらも互いに顔を見合わせて、新はとても面倒くさそうに顔をしかめたのだった。
「この時間は生徒から声かけられない限り大抵閉めてるんだわ。岡本先生も出てる時が多いからなあ」
保健室へとたどり着くと、白衣のポケットから鍵を取り出した青井先生がそう言いながらも扉を開けた。「ほらほら早く入んなさい」と急かされておずおずとその中へと足を踏み入れる。
新は最後まで抵抗を見せて、結局昴に引っ張られここまで来た。
背後で扉を閉めた青井先生はそのままガチャン生々しい音をたて扉の鍵を閉めた。
「おい、何で閉めんだよ」
「アホだねえ、見られたく無いんでしょうがー。他の先生達は滅多に来ないとは言え絶対じゃねえんだからこうしておいた方が安全でしょ」
大した事では無さそうにそう言うと、ガラス扉の中から湿布やら包帯やら消毒を抱えてやってくる。ソファーへと促された新が渋々ながらそこに腰を下ろした。
新の片腕をそっと取るとシャツを捲り上げ、痣を一つ一つ確認していく。その間、青井先生は特に何も言及するつもりは無さそうだった。
「まじで聞かねえんだ?」
指先がたどると一瞬顔をしかめた新がそう問う。
白いベッドがいくつか並ぶ中、わたし達が黙ると室内はしーんと静まり返った。
黒縁眼鏡のレンズの奥で青井先生の瞳がスっと細められる。威圧するようなそれでは無く、とても優しい瞳だった。
「聞かれたくないんでしょ」
「教師としてどうなんだよそれ」
「どうなんでしょうねえー」
湿布や包帯を巻いていきながらも冗談めいた口調で言う。
「ほら出来たぞ」
痣や傷の手当てを終えたのはものの数分で、その手際の良さに驚いた。新はすぐにシャツを戻すと、何も言わずに立ち上がりさっさと保健室の鍵を開け外へと出ていってしまい。
「お前、まじで他の教師に言うなよ」
「はいはい」
「だけどその…助かった。ありがとな」
「どういたしましてー」
昴もその後を追うように、保健室の廊下へと足を向けた。青井先生は肩をすくめながらも去りゆく二人に嫌な顔一つせずヒラヒラと片手を振って見送っていて、わたしもいそいそと二人の後を追いかけた。
保健室の扉に手をかけて、身体半分廊下へと出しながらもふと肩越しに振り返ると青井先生はガーゼやら湿布やらを片付け始めているところだった。
柔和な瞳がついっとこちらを見る。
視線が絡み合って慌てて離して廊下へと出た。後ろ手に扉を閉めた瞬間、ああ…と気づく。
――――ありがとうございましたって…言いそびれてしまったなと。
閉ざされた扉を再び開く勇気なんてわたしには無くて、少しの心残りを抱えながらもその場を立ち去った。
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