*ポケットの中の絆創膏*
3
青井 空と言う養護教諭の先生がこの学校に来てからというもの、保健室の前の廊下はいつも休み時間女子生徒の人だかりが出来ているのだと噂で聞いた。
本当かどうかは分からないけれど、既に数人の女子生徒が告白したという話も何度か耳にした事がある。
教室の廊下側の一番後ろの席でボンヤリと黒板に書かれていく先生の文字を目で追っていた。担任でもあり、数学担当でもある香坂先生の授業だった。
香坂先生が黒板の前を歩くたび、背中まで長い髪がふわふわと揺れる。
ふと窓際へと視線を向けると、昴が堂々と机に突っ伏して眠っている姿があった。それに呆れながらも短くため息をついて机の中から今朝配られたプリントを引っ張り出した。
2年生が行う行事が月ごとに分けられてズラリと並んでいた。
健康診断、テスト、球技大会、並んでいる文字を見下ろしながらもある一点で視線が止まった。【修学旅行】と書かれたその文字の隣には行先沖縄と書いてある。
「沖縄……」
「八代くん。八代くーん。寝てないでこの問題解いてください」
わたしの小さな呟きに重なった香坂先生の声に、突っ伏していた昴が慌てたように飛び起きた姿が視界の隅に映った。ハっとした様子でわたしに視線を投げると、口パクで「(答えなに!)」と。
そんな事言われてもどう教えたら良いものか。
「八代くん、人に答え求めない。はい、自分の力で解いてみましょう」
「俺全く分かりません」
「やる前から諦めないの。見てすらいないでしょ」
その言葉を一蹴した香坂先生はそのまま引きずるように黒板の前へと連れて行く。その姿に教室にクスクスと小さな笑い声が沸き起こる中、わたしも苦笑して昴を応援する事しか出来なかった。
引っ張り出していたプリントをそっとまた中へと戻して、黒板に書かれていた文字をノートへと写した。
「あれから何度か保健室行ってみたんだけど、3年の先輩達がいっぱい居すぎて中に入れないんだよ」
「青井先生に全然会えてないんだよね」
そうガッカリと声を落とした同じクラスの女の子達の輪に加えてもらい、購買で買ったサンドイッチを袋の中から取り出した。昼休みの時間になり、廊下もクラスも賑やかな談笑に包まれてる。
クラスの子達もあの先生に夢中らしく、あれから休み時間になるたびに保健室にいっているんだという。
「今度授業サボって行ってみようかな。具合悪いですーって言いながら」
「私もそうしようかなあー。うりもその時は一緒に行く?」
「え、わ、わたしはー…、皆で授業サボると怪しまれちゃうかもしれないから居残り組になるよ」
「確かに全員でサボったらさすがにバレるね。代表であたしが最初に」
「何言ってんのここはじゃんけんでしょ」
誰が一番最初に保健室にサボりに行くかという話で盛り上がる中、わたしは卵サンドに口をつけてそう言えば新はちゃんと昼ご飯を食べているんだろうかなんて別の事を考えていた。
新の事だから、休み時間のたびに別の先輩の相手をしにいっているのかもしれない。後で探しに行かなくちゃ。
「青井先生って彼女居ると思う?」
「居るでしょどう見ても。あんなイケメンに彼女が居ないわけないもん」
「やっぱりそうだよねー残念」
いつもとは違う窓際の席から窓の外を眺めてみる。隣から聞こえてくる会話に耳を傾けながらも最後のサンドイッチを口に運びかけていたところで、窓の外に新の姿が見えた。
まさか今登校してきたところなのだろうか。新はスクールバックをリュックのように背負いながらも気怠げな様子で校舎に沿ってどこかへと歩いていく様子だった。
その姿を視線で追いかけて立ち上がった。
「うり?」
「ごめんね、ちょっと行ってくる」
廊下へと駆けだすと、何もないところでつまづいて転びそうになった。その様子を隣のクラスの子達に見られていて、恥ずかしさで顔を熱くしながらも階段を下りた。
校舎玄関から外へと出ると、新の姿はもう見えなくなっていた。
どこに行っちゃったんだろう。辺りを見渡しながらもとりあえず新が歩いて行った方へと校舎の壁を沿うようにして歩いていく、と意外にも新の姿はすぐに見つかった。
「新、おはよう?」
「うり。何してんのこんな所で」
「それはこっちのセリフなんだけどな」
絶対今、登校してきたばっかりなんだよね。ムっと口を曲げているわたしに気づいているはずなのに、新は悪びれる様子は全く無くフっと笑うだけで返答を返された。
学ランの前をだらしなく開け、シャツのボタンを3つも外している姿は何となく直視しにくい。
そんな新は体育館へと続く外廊下の近くでしゃがみ込んでいて、新のすぐ前には見慣れない黒猫が居た。
手触りのよさそうな真っ黒な毛、リンと鈴の音が鳴り近くで見てみると首元には赤い首輪がつけられていた。
「その猫どうしたの?」
「さあね、ここ最近サボってると校舎の近くで見かけるんだよ」
「サボってるんだ」
「でも全然懐かないんだよな」
わたしの言葉を敢えて無視した新は指先を黒猫へと近づけてみる。ビー玉みたいな大きな瞳がスっと細められ、威嚇するように「シャー」と毛を逆立てると飛びのいてわたし達から一歩離れる。
か、可愛いのに凄く凶暴な子。
「首輪つけてるって事は誰か飼い主さんが居るんだよね」
「たぶんな。飼われてる猫にしては人嫌いすぎるだろお前」
新の隣にそっとしゃがみ込んで、ビー玉のような瞳と見つめあってみる。ジーっと交錯した視線は小馬鹿にするように細められ、そのまま器用に自らの舌で体をなめ始めた。
「クロちゃーん」
「クロちゃんっていうの?」
「さあ、黒いからクロ。メスだからクロちゃん」
「安易すぎないかなそれ」
指先を伸ばし続けていた新だけど、一向にクロちゃん(勝手に命名)が近づいてきてくれる気配が無く仕方なさそうにその手を下ろし。
「で?」
黒髪をゆらりと揺らしながらもわたしへと顔を向けて小首を傾げて見せた。
新のつけている香水の香りが鼻孔をくすぐる。ワイシャツの隙間から見える鎖骨に、相変わらず赤い跡がつけられていて思わず恥ずかしくなって視線を逸らした。
「うりは何しにここに来たって?」
「新が見えたから、気になって」
「クラス離れたんだからいちいち俺に構う必要ないでしょ。心配しなくてもそれなりに留年しないようにやってくから、うりはうりでクラスに溶け込む事考えた方がいいんじゃね。女ってそういうところ大変だよな」
皮肉めいているとも、馬鹿にしているともとれる口調で新は淡々とほんの少し冷たい言葉を口にする。
行き場の失った新の手がぶらりと空中で揺れている。
たまにこうして、少しドキリとするような辛辣な言葉を新は言う。的を得ていて何て言葉を返したらいいのか困ってしまう言葉だ。
そんなわたしの様子を知ってか知らずか、新は震えだしたスマホを取り出すと面倒くさそうに顔をしかめてすぐにそれをまたポケットへと戻した。
「さてと、俺はそろそろ行くわ。先輩に呼ばれちゃったからね」
「新…」
隣で立ち上がった新を仰ぎ見ながらも肩を落とすと、同い年とは思えないドキリとしてしまうような表情で見下ろされて続く言葉を失った。
本当にこの先新が留年しないか凄く心配。引き止めようにも上手い理由も見つからず、半ば諦めかけていた最中だった。
――――チリチリチリ。後ろ足で首元を搔いていた猫の首輪が激しく鳴った。
揺れる鈴の後ろには金色の丸いプレートらしきものがついていて。
「あ…」
「あ?」
これってもしかしてこの子の名前。
鈴と一緒に揺れるプレートへとふいに手を伸ばしてしまったが運の尽き。
「キシャー!!」
「いたっ」
「……お前、馬鹿なの?」
機嫌を損ねてしまった黒猫は歯をむき出して、右前脚でわたしの人差し指を払い落とした。す、凄いパンチ。
それと同時に伸びていた爪が指先に刺さりザックリと切れたそこからはどっと溢れるように真っ赤な血が流れ始めて。
当の本人である黒猫は「(私悪い事してません)」な顔ですましながらもお尻をふりふり、外廊下を突っ切って花壇を踏みしめ走り去ってしまった。
えーっとこれは。
「……血が…」
足元に滴る血を眺めながらも呆然と呟いたわたしの隣で、新が「はあー」盛大なため息をついて手の平で顔を覆っていた。
校舎玄関のすぐ脇にある蛇口を捻った。流れる水の中に指先を突っ込むと一瞬赤色に染まったそれもまた透明の色を取り戻す。
わたしの隣で呆れながらも何だかんだ付き合ってくれている新は「あほだね」とか「考えたら分かるだろ」とさっきからずっと痛いところを突いてくる。
「それ、見てもらった方が良いんじゃねえの?深く傷ついてるなら膿むかもしれねえぞ」
「あんなに可愛い顔してるのに凄い猫パンチだったね」
「そんな呑気な事言ってる場合じゃねえだろ」
滴る水の中から指先を引き抜くと、一旦止まった血がまたどっと溢れてきて。困ったな。
「一緒に着いて行ってやるから血だけでも止めてもらえ」
「平気だよこのくらい」
怪我をしていない方の手でカーディガンのポケットからハンカチを取り出した。とりあえずこれを巻いておけば帰る頃にはきっと血も止まってるはず…と思っていたのだけど、ダラダラと流れ落ちてくる血に新と共に顔を見合わせた。
これは…困ったなあ。
「平気じゃねえだろ、それ」
顎をしゃくられてわたしは口をムっと曲げる。だけどここで渋っていても時間の無駄だという事も分かってる。何より新に悪いし…。
仕方なく新と共に保健室へと足を向けた。気は進まなかったけど、岡本先生が居てくれれば良いなと願いながらも。
昼休みだからもしかしたら閉まっているかもしれないと直前になってその事に気が付いたわたし達だったけど、その心配は無かったらしく扉は全開に開かれていた。
加えて中から楽しそうな女子生徒の声が響いていて。
新と共にそっと顔だけを覗かせると、白衣姿の青井先生と3年の目立つ先輩達が数人楽しそうに談笑していた。
「せんせー彼女居るの?ていうか何歳だったっけ?」
「どこら辺に住んでるんですかあー」
「あのねえ君達、足挫いたんじゃなかったの?全然元気そうなんだけど」
「本当に挫いたんだって。ついさっき階段で。普通に痛いからね」
「普通に痛いって意味分からねえよー」
「あははは、うける。本当に痛いの。見て見て」
短いスカートを見せつけるようにしながらも先輩はわざとらしく屈んで紺色のソックスを脱ぎ捨てた。細い足をズイっと先生に向かって見せる。
顔色一つ変えない青井先生は肩を竦めながらも湿布を取り出すと、ぺいっと雑にそれを先輩へと押し付ける。
「はい、これ貼っておきなさい」
「ええー?ちょっとちゃんと見てよー。折れてない?大丈夫?」
「折れてない折れてない」
「ねえー適当すぎー。先生もっと優しくしてよー」
ケラケラと甲高い笑い声を上げながら別の先輩が青井先生の背中へとべったりと張り付いた。それを素早くひっぺばすと。
「今時の女の子って何でこうも恥じらいがねえの?びっくりだわー困るわー」
と大して困った様子も無く、盛大なため息を吐きだしていて。
「行こう新」
「それ」
「巻いておけばそのうち血も止まると思うから」
さすがにこの保健室に堂々と入っていく勇気なんて無く、わたしはくるりと踵を返した。
青井先生が来たばかりの日に、昴が言っていた言葉をふと思い出した。『あんな若いうちから保健室の先生なんてやましい気持ちしか無えに決まってんのに』と。
この状況を見ていると、あながち間違ってはいないのかもと思ってしまった。例えあの人が大して気にした様子も無く振る舞っていても、胸の内で何を考えているかまでは分からないから。
「どうした?」
―――とその時だった。
ふいに聞き慣れない声に問いかけられたのは。
わたしも驚いたけど、振り返ると新も凄く驚いたような表情をしていて。声のした後方へと視線を向けると保健室の扉をピシャンと後ろ手に閉めた青井先生が立っていた。
真っ白な白衣はとても様になっているように見える。
白衣の中に着ているシャツは新程では無かったけれど少しだけ気崩すようにボタンが2つ開けられていた。細身のジーンズはこの人の足の長さを強調しているようでついつい見入ってしまっていた事に慌てて視線を外した。
どうしたって、わたし達に聞いてるのかな。
だけど突然の事で言葉も声も出なくなったわたしの気持ちを察した様子で。
「何でもねえけど」
顔をそっと上げると、新がそう冷たく一言呟いてこちらへとやってきた青井先生をジっと見据えているところだった。
青井先生は肩をすくめながらも一度だけついっとわたしの指先に視線を止めたような気がして背中へと両手を隠す。
「昼休みで岡本先生出てるんだわ。俺で良ければ手当てするけど」
「かすり傷なので大丈夫です、」
「…そう?大した事無いなら良いんだけど、そういうの放っておくと後で痛い目みる事もあるから気をつけなさいね」
深くまで追求する様子も無く、青井先生はそのまま何も言わずにふらりと一度後退すると、保健室に取り残していた先輩達に「ほらもう出ていきなさい。俺にもちょっと休憩させてー」と気の抜けるような声をかけていた。
先輩達から非難の声が上がる。「先生が顔覚えたいから休み時間にでも顔見せに来てって言ったんでしょー」その声を最後にわたしは何となく居心地が悪くなって、未だ血が止まらないそこをぎゅっとハンカチで押さえながらも新と共に立ち去ったのだった。
傷ついた指先から溢れていた血がようやくしっかりと止まったのは放課後になってからだった。
不器用ながらハンカチを巻き付けた指先を見つめつつ、クラスの子達が街中に出来た喫茶店に行ってみようと盛り上がる中、わたしはバイトに向けて教室を後にした。
何となく寂しい気持ちを引きずりながらも校舎玄関へと向かうと、丁度保健室から出てきた青井先生の姿が視線に映った。
白衣のポケットに片手を突っ込みながらもこちらにやってきた青井先生はわたしの隣をふらりと通り過ぎると。
「指、大丈夫だった?」
ふと思い至った様子で立ち止まりこちらを見た。
黒縁眼鏡のレンズの奥の瞳はとても優しそうで、フっと口元に笑みを作ってわたしの様子を窺ってる。
一瞬細められた視線がわたしの指先に不器用に巻き付くハンカチを見ているみたいで凄く恥ずかしい気持ちになった。
「大丈夫ですっ」
「そう?」
「はい。そ、それじゃあわたし帰ります」
ハンカチを上からもう片手で押さえ、靴箱へと足を向けた。【榎本うり】と書かれたその場所からローファーを取り出すと。
「気を付けて帰んなさいねー」
気の抜けるような声でヒラリと片手を振った青井先生がその場から立ち去ったのが視界の隅に映り、ホっとした。
歩いていく青井先生が見えなくなると、遠くで女子生徒が「青井先生―!」楽し気に呼ぶ声が廊下へと響く中、わたしはその声を背に校舎を出た。
「あれ、」
おかしな事に気が付いたのはバイト先のロッカー室でカーディガンを脱ごうと手をかけた矢先だった。
ポケットに違和感を感じて動きを止めた。
カサリとポケットの中で音がする。指先をそっと中へと押し込んでみると、絆創膏が1つ入れられていた。
何で絆創膏が?入れた覚えは無いはずなんだけどーーーー、とそこまで考えたところでふいにフっと微笑んだあの人の姿が脳裏に過った。「気を付けて帰んなさいねー」と手を振った青井先生。
何でだろう、どうしてだろう。そんな疑問がわたしの頭の中を埋め尽くす。
視界に捉えていた絆創膏をそれから少しして、指先でぺりぺりと剥がして傷口の上へと張り付けた。今まで忘れていた痛みがジクジクと戻ってきた気がして顔をしかめた。
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