ド底辺人間の過ち
20
「彗ちゃ…ごめんなさいっ」
「え?」
「凄く待たせてしまって」
彗ちゃんからこの日、仕事終わりにご飯でも行きませんかと連絡をいただいた。
実は私も、彼女に相談したい事が色々あって、狙ったようなタイミングの良さにやはり彼女も女神様なのだなと感嘆の溜息を洩らしたのだった。
けれど仕事が終わるのがいつも遅く、待たせてしまうのは大変申し訳ないのでまた次回お休みが合って、クソド底辺人間に割ける時間がある時にでもと返答を返したら。
『私、明日はお休みなので、紬ちゃんは明日お仕事…ですか?』
「じ、実はあたしも明日は休みで…」
『もし紬ちゃんが遅くなっても大丈夫で今日お暇でしたら、今日ご飯に行きませんか?私いつまでも待てますから』
―――――彼女は本当に大天使様だ。
電話越しでも彼女の優しい笑顔が想像出来た、背中には当たり前だが天使の羽がはえている。
そんな優しい大天使様を何時間も待たせるわけにはいかないので、大体いつも終わる時間よりも30分程遅い時間で待ち合わせをお願いしたーーーーのだが、結局遅刻ギリギリの時間になってしまった。
お洒落なレストランには疎いので、お店は彗さんに指定してもらった。
場所は以前浅野さんがあたしの歓迎会をしてくださったバーに決まり、食べたローストビーフやサラダの美味しさを思い出すとお腹が鳴る。
刺繍が入ったシャツワンピースを着ている彗ちゃんは相変わらず、同性のあたしでも目を惹く程綺麗な方だ。
息を切らしながらも何度も謝るあたしを見つめ、彗ちゃんは慌てたように「大丈夫ですよ」とあたしの顔を上げさせる。
細い指先が肩へと触れて、とてもくすぐったい気持ちになった。
「全然平気なので、私も本当に数秒前に来たところです」
「1秒でも待たせてしまったのが申し訳ないです。本来なら彗ちゃんのご自宅まで迎えに行き、護衛しながら来るべきところなのに」
「私、護衛してもらう程凄い人間じゃないですっ」
あわあわと慌てている彗ちゃんに、何を言うかと内心で思う。
時間も時間だから、周りには疎らにしか歩いている人は居ないものの酒臭い匂いを纏っている男共が先程から彗ちゃんをじっとりと見つめている。
あたしはすかさず彼女の前へと立ち、薄汚い視線から彼女を遮断した。
良いか貴様ら、それ以上一歩でも近づいてきてみろ、彼女を汚す物にはクソド底辺人間からの裁きが下るぞ。
無様な醜態をさらす事になるからな。
「と、とりあえずお店の中に入りましょうか」
「それが良い。あなたはこの暗闇でも目立ちすぎます」
深く頷いたあたしを、彗ちゃんは困ったように見つめていた。
店内は薄暗く、カウンターには仕事帰りでマスターに愚痴を零しているスーツ姿の女性が二人居るだけだった。
あたし達は女性客からいくつか離れたカウンターのスツールへと腰を下ろす。
やっと一息つけた気がして、肩の力を抜いた。
「お疲れ様でした」
「彗ちゃんもお疲れ様でした」
マスターに適当な飲み物を頼み、届いたところでおずおずと互いに乾杯する。
普段は次の日が仕事で、控えているお酒だが、明日は休みだという事で互いに飲む事に決めた。
彗ちゃんが飲んでいるのはカシスオレンジ、あたしはカルーアミルクを注文した。
「この間、ちゃんとお話し出来なかったなって思ってて」
二色に分かれていたカシスオレンジの飲み物を静かに混ぜ合わせながらも彗ちゃんが言う。
あたしの顔を窺うようにそう言った彼女の肩から長い髪がさらさらと音を立てて胸へと落ちていく。
「……あたしも…実はその事でお話したくて…」
「あれから、柚子くんと何かありましたか」
「あなたは心の中が読めるのだな。彼と同じだ、さすが神様」
「そんな顔をしてらっしゃったので」
彼女は再び困ったように微笑むと、「私で良ければ何でも聞きます」と言ってくれた。
一人で考えていても、答えは見つからず、けれどこの感情を言葉にしてしまって良いものか、あれからずっと考えていた。
本来ならこんな気持ち、絶対許される事では無いから。
「何かの病気かと…思っていたけれど、そうじゃなかった」
「はい」
彼女はあたしの気持ちに気づいていた様子で、静かに深く頷いた。
気づかれていたことがまた恥ずかしくて、同時に申し訳なくて、この気持ち抹消出来るものなら今すぐ抹消してしまいたい。
でも、そうしようと思っていてもどうしてか出来なかった。
彼を見るとどんどん気持ちが高ぶってしまって、自覚したら尚更コントロールが効かなくて。
「あたし…彼の事が好きになって…しまいましたっ」
いつから好きになっていたのか分からない、と言うかハッキリ言って好きなんて陳腐な言葉一つでは到底伝えきれない思いだと思う。
絶対に彼には気づかれてはいけない。
重荷になるような事になってはいけない。
ファンたるもの、遠巻きに彼の幸せを願うのが仕事なのだ。
この気持ちはもう、簡単には消せないのだと知ったーーーー知ってしまった。
「どうしたら、彼を困らせずに出来るでしょうか」
「え」
「思いも決して伝えません、気持ちも絶対気づかれません、ただ遠くから見つめていられるだけで十分です、最高の幸せです。だけどここ最近、その気持ちにブレが生じてきている気がして」
見つめていると手を伸ばしてしまいたくなるような、触れてしまいたくなるような。
何をやっているんだろうあたしは、しっかりしなければとそこで一旦自らを叱咤するのだけれど、気づいたらまた同じような事を思ってしまう。
恋って恐ろしいーーーー。
病気では無いと思ったけど、やっぱりこれは一種の病だ。
恋という恐ろしい病気なのだ。
「彼の迷惑にならないためには、どうしたら良いでしょうか」
「……紬ちゃんは…」
「はい」
「柚子くんが、…別の誰かとお付き合いしても辛くは無いですか」
あたしの言葉を聞いていた彗ちゃんが、ぽつりぽつりと思案するように言葉を紡いだ。
静かにあたしを見つめる瞳は澄んだように美しく、やっぱり彼の瞳と良く似ている。
彼女も彼も、あたしの事を真っ直ぐに見つめてくれるのだ。
彼が誰かとお付き合いしてもーーーーそれはたぶん喜ばしい事だ、祝福すべき事だと思う。
なのにーーーーー嫌だって思ってしまうのはどうしてだろう。
無意味に泣き出しそうになってしまって、慌てて「目にゴミが!」と片手で目元をごしごしと拭った。
「紬ちゃんは、もっと自分の気持ちに素直になって良いと私は思います」
「…え」
「誰かを好きになるって気持ちは自由です」
「自由…」
カルーアミルクのグラスに手を伸ばす、喉がカラカラに乾いて中身を全て飲み干した。
あたしが彼を好きでいる事は自由――――なのか?
仮に自由だとして、彼に抱いてしまう感情はどこまでが許されるのだろう。
触れたいと思ってしまう事は?
もっと沢山一緒に居たいと思ってしまう事は?
その気持ちを悟られなければ、それを思ってしまう事は自由なのだろうか。
「でもあたしは、彼の迷惑になりたくない」
「迷惑だなんて、柚子くんはきっと思いませんよ」
「彼は優しすぎるのだ。優しすぎるが故、尚更彼を困らせたく無いのです」
「困るか困らないかは本人が決める事でしょう」
どっかと隣に誰かが腰を下ろす気配を感じた。
同時に聞こえてきた声に、あたしはサーっと血の気が引く。
「マスター、何か強いお酒頂戴よ」
優雅に長い足を組み合わせると、浅野さんは髪を一纏めにし柔和な笑顔をあたしへと向ける。
薄暗い店内で突き出た喉ぼとけが何だかとても美しく、妖艶に見えた。
そうして同時に恐怖を覚えるーーーー浅野さん、一体いつからどこまでの会話を聞いておられたのですか。
「ど、どうしてここに」
「どうしてって、ここはあたしの行きつけのバーだから」
浅野さんが頼んだお酒はすぐに届けられて、カウンターに置かれたそのグラスが滑るようにあたしの目の前へと差し出される。
「あんたってどうして自分をそんなに下にして考えちゃうの。困るか困らないか、迷惑か迷惑じゃないかなんて気持ち伝えてみなきゃ分かんないでしょ、そうよね彗ちゃん」
「えっと…そ、そうですね」
「ていうかあんたアシスタントの分際でやけに余裕ね。好きな相手が柚子だったなんて知らなかった」
「……」
「付き合っても振られても関係ないけど、仕事に支障が出るような恋愛ならやめなさいね」
浅野さんは楽し気にあたしの肩を組むと、強く引き寄せて目の前のグラスを指さした。
「まあとりあえず、悩み相談くらいは聞いてやるから、本心全部洗いざらいぶちまけな。あんたはきっと酔いが回ったくらいが丁度良いわ」
話はそれからよねと揺れる中身を示されて、あたしはどっと冷や汗をかきながらも両手をおずおずとグラスへと伸ばした。
これを飲んでしまったら、本当に奥底にしまいこんでいる本心全て話してしまう気がする。
助けを求めるように彗ちゃんへとチラリと視線を向けてみる。
けれど、彼女も彼女で困ったように視線だけで「すみません、助けられません」と言われてしまった。
そうですよね、浅野さんに勝てる人なんてきっと楓さんくらいだと思う。
「安心しな。あんたの本心聞いたとしても、“あたしの口から”柚子に言ったりしないから」
「物凄い醜態を晒してしまうやもしれません、気づいた時にはクビを切られていたり…」
「そんな心狭く無いし、酒進めてんのあたしだから」
呆れたように言った浅野さんが、マスターに同じものをもう一杯注文する。
「言えない気持ち、たまには全部吐き出したくない?」
それは悪魔の囁きのようで、あたしはゴクリと生唾を飲み込んだ。
言えない気持ち、それは沢山心の内に抱えてる。
いつも出てこないように抑え込んでる。
マスターから届いたグラスを浅野さんが受け取り、乾杯するようにあたしと彗ちゃんへと突き出した。
誘われるまま、グラスを当てる。
―――カチリと触れ合ったその音を合図にし、あたしは静かに中身のお酒を数口喉の奥へと流し込む。
強いお酒だと頼んだだけあって、数口で視界がクラクラした。
けれど気分はとても良くて、何を言っても今なら全て許される気がしてしまう。
感情ボックスに鍵をかけて、厳重に保管していた気持ちと言葉がお酒の魔法で解かれていくのを感じながら、彼の事をまた考えていた。
――――彼に会いたいと、そう思った。
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