抑止力

19

「柊さん、この辺りにはもう慣れた?」




鏡越しに優しい笑顔を浮かべる美容室emiの常連のお客様に、私は「うーん、まあまあです」と苦笑した。




夢ちゃんの常連客だったお客様は、夢ちゃんの勧めで私のネイルも一緒に予約してくれるようになった。夢ちゃんの勧めかたが上手なのだろう。




細かいラメが入っているフレンチネイルで爪先一本一本を塗りながらも、「電車が沢山なのは未だに驚きます」と言った。




「転勤した先がほぼ田舎の方だったので、電車なんて1時間に1本しかこないとか、1両しかないとか当たり前でしたよ」



「ええ?その一本逃したら遅刻しちゃうんじゃない?」



「そうなんですよ。高校生の頃、山奥の高校にバスで通ってたんですけど、ギリギリ間に合わなくて遅刻になった事何度かありました」



「凄い不便ね」



「だから電車一本逃してもすぐ次が来る都会はちょっと安心します。その分怖い事とかもありますけど」



「もしかして痴漢?」




柊さん可愛いから、とお客様に言われて「一度もされた事ありません」と真顔で答える。




「無い方が良いんですよ」




すかさず夢ちゃんがフォローしてくれた。それはそうなんですけど、でも何だろうこの選んで省かれてる感。




朝も帰りも満員電車に乗る事が多い。都会の満員電車は痴漢にあうと聞いていたから、身構えて乗っていたけれど一度もそれらしき事をされた事が無い。




奈々子に話すと「痴漢も相手を選ぶからね」と言われた。凄く失礼だと思う。ちなみに奈々子も無いと聞いて少しだけ安心したけれど。




「じゃあ怖い事って何?」



「目の前で引ったくりの現場を目撃しました」



「あら、この辺り多いのよ。大丈夫だった?」



「身体が勝手に動いて追いかけてしまいました。おまわりさんに凄く怒られましたけど」



「みちかさん足が速いから追いついちゃうんですよね。危ないから本当にやめてくださいよ」




夢ちゃんにも少し前にその話をしたけれど、驚愕の末「駄目ですよ。危ないんだから」と優しく叱られた。はい、とても反省してます。




「人が多い場所だから色々あるわよね。飲み屋街の方なんで夜危ないのよ」




お客様は困ったように「あの辺治安悪くて」と言う。




「え、私良く行きますよ」




確かに足元が覚束ないサラリーマンの男の人や、酔って道端に吐いている人はたまに見かける。




あんなに賑やかな飲み屋街を見たのはあそこが初めてなので、そういうものだとばかり思っていた。それとも治安が悪いという部類に当てはまる人達も、やっぱり人を選んでいるのだろうか。




「気を付けてね。あの辺、前にも色々あったんだから」



「色々って何ですか?」




カラーを終えた夢ちゃんは、手際よく手作りのメニュー表を持ってくると「お飲み物何になさいますか?」と問いかける。アイスのミルクティーの注文を受けて、夢ちゃんは裏へとアイスミルクティーを作りに行った。




「面倒な人達がいるのよ」



「酔って喧嘩しちゃうみたいな?」



「じゃなくって、セクハラみたいな」



「ええ、最低です」




顔を顰めた私を見て、同意するように頷いてる。




「あの辺りを歩いていた若い女の子も何人か被害にあってるらしいのよ。そう言えば、女性だけのお店でもそういう被害があったらしいわ」



「え」



「これはまた違う話だけど、スナックで働いてる子に恋しちゃった常連客が、他の男の人と話してるのを見て嫉妬の末刺したとか。そういう事件も前にあったのよ」




お客様は「ほんと男ってどうしようもないわよね」と溜息を漏らすと、店で貸し出しているタブレットを掴んで中に入っているファッション雑誌を指先で捲り始めた。




それって奈々子は大丈夫なんだろうか。美人だし、従業員は奈々子一人だけだ。ある意味格好の餌食なのではと思うと不安になってくる。




そういう話は一度も聞いた事は無いけれど、嫌な目に合っていないだろうか。




不安になりながらも、「怖いですね」と小さく呟くだけに返事を留めた。









「まあ、話は分かったけど」




仕事終わり、今日は休みだと言っていたみっちーに連絡を入れて、すぐさま駅で待ち合わせをした。




ちなみに急な連絡だったので会う事は少々渋られたけれど、私みちかちゃん作戦で何とか成功した。




電車を降りてきたみっちーは、階段下で待っていた私を見て「急なのやめません?」と肩を落としていた。




奈々子の話がどうしても気になって、一人で飲みに行こうと思っていた。けれど仮に何かあった時、果たして私一人で奈々子を守り切れるか不安になった。




そこで浮かんできたのは私の素敵なおまわりさん、沢渡充ことみっちーだったというわけだ。




どちらにしても、みっちーを連れて奈々子のお店には近いうちに行こうと思っていた。




「でもねえ」とみっちーは私の話を聞いた後、何とも悩まし気に腕を組んでる。




ちなみに非番なので当たり前に私服姿だ。みっちーの警察官姿を拝むのも毎日の楽しみだけれど、たまに見るこの私服姿も大好きだった。




派手な柄の白Tシャツに下は黒いパンツ姿だった。ぱっと見大学生にも見える姿に可愛い好き可愛い好きの感情が溢れていく。




「自慢じゃないけど、俺割とこの辺りでは有名なんだよな。私服と言えど顔バレしたら悪さもしないと思うけど」



「抑止力にはなるね」



「じゃなくて、今日悪さしなくても俺が居ない時に改めてしてたら意味ないだろって話」



「……ほんとだ!!でもみっちーが常連客かもって勘繰って、バックにおまわりさんがついてるなら悪さは止めようってなるかもしれないよ?」



「なるほどねえ。まあ一理あるけどな」




うーんと頭を傾げるみっちーに、私もうーんと傾げ返す。




「まあ、あの近辺治安悪いし、酔った男に抱きつかれたとか良く聞く話だからな。夜は見回りしてはいるんだけど、店の中となると」




警察官と言えど、一軒一軒「様子はどうですかあー」なんて見て回るわけにもいかないんだろう。




「奈々子から直接、そういう被害にあったって話は聞いてないんだけど。お客さんの話聞いたらちょっと不安になっちゃって」



「友達が一人でバーのマスターしてたら、そりゃ気になるわ。とりあえず行ってみますか」



「え、良いの?」




あんま意味ねえしやめようよーーーーーと、ならないのがみっちーだ。




さすが私の素敵な彼氏。大好きアピールで目をうるうるさせると、みっちーは「何ですかそれ?」と小首を傾げた。何で分からないの、大好きって伝えてるのに。




私の無理矢理な提案に付き合わせてしまったので、奈々子のお店の代金は全額私が払うと密かに決めた。




「いらっしゃ……いませ」




奈々子がマスターを務めるお店の扉を開くと、私とみっちーを見て何とも言えない表情を向けられる。反応に困る組み合わせだと言わんばかりの表情だ。




無理も無いはず。奈々子は私とみっちーの期間限定という普通とはかけ離れたお付き合いの事を知っている。




「久しぶりだね」




お店の中には何度か見た事のある男女合わせて3人ほどのお客さんが居た。カウンターの端の席にそれぞれと、二つほどあるテーブル席に一人だ。




私とみっちーは空いていた真ん中のカウンター席へと腰を下ろした。




声をかけられると、みっちーは愛想笑いを浮かべてる。そうですねとも、そうだっけ?とも言わない狡い返答だ。




「何飲む?」



「私いつもの烏龍茶で」



「俺もそれで」



「飲まないの?」



「緊急で何か入るかもしれないので」



「大変だね」




グラスを二つ取ると氷と烏龍茶を注いで手渡してくれる。口をつけたタイミングで「結婚式の時にビデオメッセージ見たんだけど、みっちーってあんな性格だったっけ」と奈々子は言った。




突然投げかけられた直球の問いに、思わず烏龍茶を零しそうになる。




そう言えば、奈々子にみっちーを今度連れて来るから詮索してみてと言っていたんだった。しまった、タイミングを間違えたかもしれない。




どうしよう、それはまた今度でと目配せしても奈々子にはちっとも伝わってない。




「えー?俺元々あんな感じだけどなー」




みっちーはみっちーで毎度の事ながら素知らぬ態度を取っている。




「結婚式どうだった?まさしは幸せそうだったか?」



「そうだね。ようやくって感じの顔してた」



「そっか、良かったわ。末永くお幸せに」



「みっちーってまあくんと仲良かったの?」




小学生の頃の記憶を手繰り寄せても、二人が話している所はあまり見た事が無い気がする。




あーちゃんの告白事件の時に当て馬にされていたのは知っているけれど。




「あんまり話した事は無いよ。ただ一途に思ってるなあーって感じが見てて分かったから、報われれば良いなって思ってた感じ。まさしのタキシード姿見たら俺も泣いてたかもしれねえわー。良かったなあー幸せになあー」



「相手があーちゃんで良いの?」




奈々子の辛辣な言葉に臆する事もせず「まさしが選んだ相手じゃん」とみっちーは言う。




「でも色々他の男食い散らかしてたって。またやるかもよ?」



「まさしって、自分の気持ちを直球で表に出さないタイプなんだよなー。気づいて貰えなくても良いって消極的な感じ。だから不安になって別の男に手出してみたんだろ。でも自分でやっぱ違うなって思って戻って来たんだし、まさしもそれ知ってる上で結婚選んだなら外野がとやかく言う事じゃねえよ」




烏龍茶に口をつけると「お、これ美味い!手作り?」と言う。




奈々子は意外そうな顔をしながらも「サントリー」と言った。あまりにも正直すぎる。




「何だ、あんまり変わんないね」



「え、俺の格好良さが?」



「それはみちにしか分からないけど」



「おい?」



「人って根っこの部分はあんまり変われないんだよ。どうしようも無い人も同じ。変わろうとしても相当気を付けてないと結局また元に戻っちゃう。生まれ育った環境とかもあるから」




奥の席に座っていた女性客が「お会計お願いします」とスツールから下りた。




スーツを着ているから仕事終わりに、一杯引っかけてから帰るという感じなのだろう。奈々子はすぐに女性客の元へと向かいながら、「アホに見せてるだけだね」と言った。




ドキリとして隣をそっと窺ってしまう。




みっちーは怒っている様子も無く、「え、そうなの?」と小首を傾げて問いかけてくる。それ、私が一番聞きたいよ。




その時、外の方からドン!と凄い音がして飛び上がった。




店内に居た全員が驚いて固まる中、みっちーだけがすぐにスツールから下りて外へと出て行った。




驚いた拍子に取り落としたお客さんの小銭がお店の床に、ちゃりんちゃりんと音をたてて落下する。




慌ててその場に居た全員で拾う中、みっちーは暫くすると店の中へと戻って来て「良く分かんなかったわー」とまた何事も無かった様子で腰かけた。




店内に居たお客さんがそれぞれ帰って行き、一旦私とみっちーと奈々子だけになった。




「あのさ、ちょっと来て」




最後のお客さんを奈々子がカウンター越しに見送ったのを確認すると、突然真面目な声音でみっちーが店の外へと視線を向けた。




「え、なに」



「看板凹んでた」



「……え、さっきのドンって音それ!?」



「来た時は凹んでなかったからな。外見て来たけど、怪しい奴は居なかったし、輝……後輩に連絡してここの近辺見回りさせてるけど、それらしき人物は見当たらないって連絡きたわ」




外へと出ると、店の脇に隠されていた看板が目に入った。




真ん中がベコリと凹んでる。思いっきり蹴り入れたような痕にゾっとした。




奈々子は「弁償して欲しいんだけど」と特に怯えた様子は無い。




「被害届出す?」



「出さない」



「何で!」




出してよ、と叫ぶ私をみっちーは「まあまあ」と宥めてくる。まあまあじゃない。




「被害届出して弁償してもらおうよ。防犯カメラとか無いの?」



「ここには無さそうだな。他の店もある所と無い所があるからなー。確認しても映ってるか怪しい所ではある。蹴ってる現場目撃してる人が居れば良いけど、外出た時そういう感じの人も居なかったし」



「だとしても」



「店とかの場合、被害届出すとさ、そういう店だって周りに知れ渡っちゃったりするからな。気持ちは分からないでもねえけど」




奈々子はそういう事と深く頷く。




危ない店だと認識されれば、必然と客足が遠のいていくものらしい。それは確かに困るけど、でもこのまま泣き寝入りなんて酷い話だ。看板一ついくらだと思ってるんですかと言ってやりたい。




「この辺飲み屋ばっかりだし、酔った末に看板に当たって壊したって事もたまにあったから」



「でもこれは明らかに蹴飛ばしてるよ」



「酔った勢いでって感じじゃない?弁償はしてもらいたいけど被害届は面倒臭い。自分であの時蹴った犯人ですってお金持ってきてくれればそれで良いよ」




そんな上手い話がこの世界にあるわけない。記憶が無ければそれまでだし、記憶があるなら尚更やばいと口を固く閉ざすに決まってる。




「許せない。私が弁償する」



「何でみちが弁償するの」



「許せないから」



「意味分かんないよ」




いらないよ、と頭を撫でられて全然納得出来なかった。




「変な嫌がらせとかはされてねえ?」



「何それ、職質的な?」



「いやいや、職質ってする相手間違ってるだろ。単なる問いです」




沈黙が落ちてきて、きっぱりと「無いね」と返ってきた。




考えたけれど心当たりがないという様子で、単純に酔っぱらった誰かが看板を蹴ったという事で話が終わった。




「納得いかないー」




この世の中は酷いと嘆く私を見て、みっちーは「まあなー」と間延びした返事を返す。




奈々子のお店で飲みかけの烏龍茶を飲んで、時間も時間だったので腰を上げた。




無理矢理払おうとするみっちーを押し退けての支払いはなかなか大変だったけれど、何とか勝ち取ったのでそこだけは少しスッキリしたけれど。




駅へと二人で向かいながらも、私はむしゃくしゃした気持ちをぶつけるようにバックをぶんぶんと振った。




「みちかって、奈々子の店良く行く?」



「うん。仕事帰りとかちょくちょく。毎日では無いけど」



「そっかあー」



「何で?」




うーん、と曖昧な返事が返ってきて「え、何で?」と食い気味に問いかける。




ざわりと胸の内に嫌な予感が広がっていく。




みっちーは真っ直ぐ前を見据えたまま「変な気起こさないって約束出来るか?」と言った。訳も分からず「うん」と言うと、「約束な」と隣から指切りをされた。




絡みついた小指に緊張していると「あれ、嘘だから」と言葉が続いた。




何が、と聞くまでも無い。




「無いね」と言った、奈々子の言葉の事だろう。




「思い当たる節があるって顔してたわ。みちかに心配させないように、無いって言ったんだろうな」



「……みっちー」



「俺も納得いかねーから、ちょっとあの辺り暫く見回り強化する」



「抑止力になる?」



「なるよ。だって俺だよ?ならねえわけねえじゃん?みっちーならこの近辺顔パスよ?みっちーちゃん、ちょっとうちの揚げたてコロッケ食べていきなさいとか、うちの魚貰って行きなさいとか、見回りしてて両手に大量の食材貰う程だぞ?」



「それ凄い。さすがみっちー!」



「だろ?だから俺が歩けば犯罪が減るってやつですよ」




私はその言葉に大きく拍手を送った。頑張れ我が街のおまわりさん。




奈々子の気持ちも良く分かるけれど、本当の事を言われないのは余計に不安になってくる。




べこりと凹んだ看板を思い出す。酔っぱらった末だと思っていたあれは、恨みの塊に思えてならなかった。




みっちーはグーサインを私に向けると、「任せておきなさい」と頷いた。




それはいつか見た、みっちーパパがヒーローのように見えたあの姿と重なって見えた。


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