第8話 失恋と甘辛生麩田楽②

 恋した相手には女性の恋人がいる。別れようとしているとしても、恋愛対象は女性なのだと薬師寺の言葉から理解した立花は、そう言われた瞬間に失恋した。


 好きになった相手がノーマルだったなんてことは、同性愛者にとっては日常話だ。

 けれどおそらく社会に出たばかりの立花は、大人になったら自分の夢や希望が叶うのではないかと、心のどこかで期待していたのかもしれない。だから、薬師寺が自分に優しいのは少しでも脈があるからではないかと勘違いしてしまった。


 いくら仕事を頑張ったところで、薬師寺は振り向いてはくれない。

 見てくれていたのは上司だけで、それも都合の良い社員としてだけ。おかげで早々に出世して、薬師寺との距離はいっそう開き、気が付いたら口も利かない間柄になってしまっていた。


 だから落ち込みが想像以上に激しくて、その後の立花は――。


「おえぇ……っ」


 チョコ味の栄養補助食品を一気に腹に入れ過ぎたからか、突然の吐き気に襲われた。甘いものは手軽に満足感が得られていいが、時々こんなふうに体が受け付けなくなってしまうことがある。きっと体が立花に「もうやめとけ」と注意喚起をしているのだろう。


(でも、なかなかやめれへん……。仕事山積みやし、薬師寺さんには嫌われとるし……)


 きっと薬師寺は、かつて懐いていた後輩が自分をひょいと追い抜いて上司になっているのだから、非常に面白くないに違いない。


(しゃあないよな。もう散々落ち込んだし、今はとにかく普通に仕事して欲しい、かな……)


 そう願っているが、叶うとは思っていない。とっとと雑務を片付けて、今夜はなるべく早く錦の店で癒されたいと思った立花だった――が。



◆◆◆


「もう嫌や。闇堕ちしそう……」


 上司との外勤が長引いてしまい、やはり派手にサービス残業となった立花は、深夜くたくたな状態で【酒処おにづか】を訪れた。

 立花を明るい笑顔で迎えてくれた錦からは、今日もフレッシュな陽のオーラが出ていて、キラキラと眩しくなってしまう。立花とは真逆だ。


「いらっしゃいませ! 立花さん。目の下のクマ、すごいですよ?」

「心も体もくたくたやねん……」


 立花はダウンジャケットを脱いで錦に預かってもらうと、やれやれと重たい足取りでカウンター席に腰を下ろした。一度座ってしまうと、疲労と自己嫌悪でもう二度と立ち上がりたくないような気分になってしまって嫌になる。


「……今日はやけ酒したい気分やわ。錦君、酒多めで。オススメのつまみもお願いします」

「いいですよー! いい生麩が手に入ったんで、それ使いますね!」


 温かいおしぼりで両手を温めながらオーダーすると、錦の元気な声が返ってくる。


「ええなぁ。めっちゃ好き」


 思わずふにゃりと顔が緩んでしまう。

 錦の陽属性の明るい笑顔は、ストレス社会を生きる立花にとってはまるで太陽のような存在だった。


(まぁそれは、錦君が会社勤めしてへんからかもしれへんけど……)


 立花が今日一日のことを思い出し、重いため息を吐き出していると、それが錦の目に留まったらしい。

 錦は「今幸せが逃げましたけど、僕が捕まえときましたよ」と言いながら、酒瓶とグラスをカウンターにコトンッと置いた。


「立花さんの幸せは、後で田楽に味噌と一緒に塗っときますから」

「幸せって塗れるんや」


 ため息と共に吐き出してしまった幸福を一時預かりされ、立花は思わず声を上げて笑った。

 あまり多幸感のある人生だとは思っていないが、錦が「捕まえた」と言うのであれば、自分の中にだって幸せがあるに違いない。


(ありがとう)


 胸の中でこっそりと感謝する。

 錦の何の気なしの言葉や、ささいな行動の一つ一つがいちいち沁みるのだ。

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