第2話

第1章


上海。


17世紀初頭、のちに、魔都として知られる上海は、今はまだ、静かな港町である。

その地に住む人々は、温暖な風土に恵まれ、豊かに暮らしていた。

しかし、それでも貧富の差はあり、金持ちと貧乏人の間には、相容れない線が引かれている。


金持ちは、城壁の中で暮らし、瓦屋根の大きな屋敷に住んでいた。

船を持たない漁民などの貧乏人は、海沿いの粗末な小屋で生活している。

世襲制が当たり前で、金持ちは金持ちのまま貧乏人はずっと貧乏だが、貧乏人が抜け出せる道が一つだけあった。

武芸である。


武芸所は、金持ちの子弟たちのための武芸所、貧乏人の武芸所と、城壁の内外にくっきり分かれていたが、一か所だけ例外があった。

崋山派の流れをくむ河家(こうけ)である。河家の武芸所は城壁の中にあるが、ここだけは貧乏人が入ってきてもいいという暗黙の了解があった。


河家は、河師父を頂点とする武芸一家だが、師父は温厚であり、金持ちにも貧乏人にも分け隔てがなかった。

師父の伴侶である師母の実家は、位が高く、宮廷への出入りも許されている高貴な一家だが、師母は、師父と恋に落ち、駆け落ち同然でこの地に嫁いできた。しかし実家とは切れておらず、師母の背景は豊かなままだ。

師父自身も金持ちの生まれで、幼い頃から厳しくしつけられ、武芸を学び、崋山派から師範の称号を得て、生まれ育ったこの上海で、武芸所を開いた。


師父は、修行の場では、弟子たちに厳しかったが、それは武芸においてであり、他の武芸所のように、えこひいきなどは一切なかった。

金持ちの子弟には、それを嫌がり、お世辞を言ってくれる武芸所に変わるものもあったが、河師父の高潔な性格と優しさに惹かれて、武芸所の門をたたく若者は引きも切らない。


弟子たちが厳しい修行に音を上げずに続けているのには、もう一つ理由があった。

師妹(しめい)の存在である。

河家には、ふたりの娘がいた。同年同日に生まれた双子の姉妹であるが、全く似ておらず、似ていない双子は、二卵(ニラン)と呼ばれている。

当時の中国では、そっくり同じ双子、一卵(イチラン)は感応力が強いと言われ、戦や間諜に使われていたが、二卵(ニラン)は能力が劣り、徴用されなかった。


双子の娘たちは、どちらも武芸に優れており、特に姉娘の蘭蘭は、師父である父親から教わることを、いつも、こともなげに覚え、楽々体現していった。

しかも蘭蘭は、背がすらりと高く、色白で卵型の小さな顔に潤んだ大きな目、鼻筋が通り、小さな唇はぷっくりと愛らしい。上海のみならず、近隣に聞こえる、たぐいまれな美少女である。

弟子たちは、少しでも、この蘭蘭の目に留まろうと、必死で修行を積んでいた。


妹娘の珉珉は、不細工ではないが、やはり姉と比べると、格段に見劣りがする。

背丈も普通だし、ほっそりした姉とは違い、骨太でややずんぐりしている。色も浅黒く、姉のような、たおやかな可愛らしさとは無縁であった。武芸の腕も、弟子の中で一番修行しているが、なんでも軽くこなす蘭蘭には、遠く及ばない。

しかし、性格も鈍重なのか、それを悔しがったり、気にしているそぶりは外からはわからなかった。



寒い日が続いた後、ぽっかりと暖かくなった春の日である。


「あ!蘭妹(ランメイ)だ!おはよう!」弟子たちが、嬉しそうに声を掛けた。

「蘭妹、今日は、春の装いだね。」


屋敷から出て来た蘭蘭は、衫(サン)と呼ばれる筒袖の長い上着に赤いズボンという服装で、上着は薄桃色に赤い花模様が描かれ、同じ模様の刺繍がされた小さな布靴をはいている。

髪は真ん中から二つに分けられ、耳の上でお団子に結っていた。


春の装いだねと声を掛けた兄弟子が、懐からかんざしを出した。

「蘭妹、きっとこれが似合うと思って、昨日買っておいたんだ。」


その兄弟子は、街一番の金持ちであり、武芸も達者で、他の弟子からも一目置かれていた。

蘭蘭は、桃の花をかたどったかんざしを見て、目を輝かし、

「まあ天兄さま、どうもありがとう!」と手を伸ばした。


師兄(しけい)ではなく、兄さまと呼ばれて喜んだ兄弟子、天健(テンケン)は、

「どれ、付けてあげるよ。」と、背伸びをした。蘭蘭は、目立たないよう少し背を屈める。


ちょうど屋敷から出て来た妹の珉珉が、ふたりを無表情に見た。

珉珉も、蘭蘭と同じ髪型をしているが、服装は、上下ともグレーで、布靴も黒だ。もちろん、髪にかんざしもない。天健にかんざしを挿してもらっている蘭蘭を見て、

(蘭姉さま、また背が伸びたんだわ。)と思っていた。


蘭蘭が、珉珉を振り返って見た。

「珉珉、どう?似合う?」

「お姉さま、素敵よ。」珉珉は、うらやましがるでもなく、淡々と答えた。


珉珉の後ろから、師父と師母が来た。

ふたりともやはり、衫とズボンであるが、師父は白で師母は赤い絹地であった。

師父は、髪を長くたらし、後ろで軽く結わえていた。師母は人妻らしく後ろで一つのお団子にして、赤サンゴのかんざしを挿していた。

師母は、蘭蘭に似て、非常に美人である。大きな娘たちがいるように見えなかった。


「師父、師母、おはようございます!」

弟子たちが声をそろえた。


色とりどりの動きやすい服装をした弟子たちがきちんと並んで挨拶をしているのを見て、師父も師母もにっこりした。


師父が、長いあごひげをゆっくりしごきながら、口を開いた。

「今日もそれぞれ修行に励むように。兄弟子は、弟弟子を正しく指導し、弟弟子は、兄弟子の言うことをよく聞くのだよ。問題があれば、この大師兄に言うこと。」と、

師父は、さっき、蘭蘭にかんざしを贈った天健を指した。大師兄と呼ばれた天健は、重々しくうなずいた。


「私達は、今朝から城内に呼ばれている。娘たちはここに残るから、ふたりにも修行をさせてやってくれ。」

師父がそう言うと、みんなは嬉しそうな顔になって、うなずいた。


師父は、一番後に立っている、みすぼらしいなりをして、顔を汚している少年をチラッと見たが、何も言わず、屋敷に戻った。

少年は、泥だらけの顔の中で、目だけを光らせ、屋敷に戻る師父をじっと見ていた。


天健が、みんなの前に立った。

「組み手を行う。二人一組になれ。」

そして、蘭蘭を見て

「蘭妹は、ぼくと組もう。」と言い、蘭蘭が、恥ずかし気にうなずいたので、弟子たちは皆ため息をついた。

珉珉は、さっさと後ろに歩いて行き、顔が泥だらけの少年の前に立った。

「土竜(ドリュウ)、私と組むのよ。」

土竜と呼ばれた少年が、小さくうなずく。

他の弟子たちは、珉珉には興味がなく、みすぼらしい土竜とも組みたくないので、ふたりを無視して、それぞれ二人一組になった。

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