序章

1


 今でも、美しかった母を夢に見る。


 今でも、美しかった母を覚えている。



 優しくて美しかった母は、いつものように笑って言った。



「忘れないでちょうだい。ずっとずっと、あなたは、愛されているから。忘れなければ、あなたも誰かを愛することができるのだから……」



 幼かった自分はしかし、それが別れになってしまう言葉だと悟った。



「いや、だ……ははうえ……」



 母の手を握ったまま、決してその手を離すまいと、決して母をどこにも行かせまいと、泣いた。


 喉が熱く焼けるようだった。こみあげてくる嗚咽は、全身を涙の膜で覆ってしまったように母の声を遠くした。



 母は、泣きじゃくる私に優しく言うのだ。



繰り返し、繰り返し。歌をうたうように。幼い私に、言い聞かせるように。


「ねえ、おねがいよ……忘れないで。決して忘れないで……」



「いや、いや……ははうえ、いやだ……」



 その約束を交わせば、母はどこか遠くへ行ってしまうような気がして、どうしても頷くことができなかった。



「いい子……いい子ね……ソウカ」



「ははうえ……」



 駄々を捏ねるように強く母の手を握った。


 私の手を優しく握り返してくれていたその細い手は、しだいに力を失い、



「は……は、う」



ついには、



「薔崋……」



 ぽつりと名前を呼んだきり、幼い私がいくら成長しようと、生きている限り決して手の届かない場所へと、逝ってしまった。




 今でも覚えている。



 今でも夢に見る。



 美しかった母の死に顔。



 自分をかばった母を。





 今でも、悪夢のようにまとわりついて、夢に見る。



 優しく美しかった母を殺した、あの日のことを。





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