第60話

「純粋に、北斗さんの美しさと可憐さに見惚れちゃったんだ。」


「何言って…「だから、思いがけず北斗さんと話せる機会に恵まれて幸運だなって想ったんだよ。」」



相手の唇が、ゆっくりと弧を描く。


長い睫毛に縁取られた目が、細められる。


綻んだその顔は、とても、とても、綺麗だった。



馬鹿馬鹿しいお世辞だ。そう想ったけれど言葉にならなかったのは、余りにも彼が真剣な顔で云うせいだ。


相手の放った言葉を否定する事に、罪悪感を覚えたせいだ。




「夜ちゃん、何してるの。」



背中に刺さった冷たい声に、肩が大きく跳ねた。


綴だ。後ろに、綴がいる。



折角一人でトイレに行く権利を捥ぎ取ったばかりだと云うのに、変な勘違いをされて彼の機嫌が悪くなれば、ほんの僅かな自由も泡になって消えてしまう。




「ほ、本当にぶつかってごめんなさい。それじゃあ私はこれで。」


「待って。」



早く綴の元へ戻らなければ。


その気持ちに駆られ会話を切り上げようとした私を、やっぱり相手は制してくる。



藤火とうか八神 藤火やがみ とうか、それが僕の名前だからどうか憶えて。」



咄嗟に、いかにもただ廊下で擦れ違っただけの人を装った彼は、去り際に言葉を置いていった。

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