私は平生から担当の入院患者さんに『雫ちゃん』って呼ばれていたため、苗字で呼ばれることに自分自身も違和感をいだいた。


「おはようございます。検温お願いします。あとできますからね」


 笑顔でみんなに声を掛け、体温計を渡す。


 窓側の右側が、中居保のベッド。

 今日もカーテンは閉まったままだ。


 一体、いつまで寝てるのよ。ここは自分の家じゃないんだからね。


 閉まったカーテンに苛立ちを感じながらも、山本さんから順番に血圧を計り始める。


「体温は三十六度、平熱ですね。血圧も安定してますよ。百十の六十だから、大丈夫ですね。痛むところはありませんか?」


「うん、ないない。雫ちゃ……じゃない、朝野さんの顔を見たら元気になったよ。朝野さんの笑顔は点滴よりも効果覿面、元気になれる」


「ありがとうございます。これ以上誉めても何もでませんよ」


 私は山本さんに笑顔で答えた。


 隣のベッドに移動し、田川さんのバイタルサインチェックを行う。血圧脈拍異常なし。


 吾郎の所へ行くと、カーテンの閉まった隣をチラッと見て、小声で私に謝罪した。


「昨日はごめんね。名前で呼んでさ」


「いいのよ。気にしないで、一週間の辛抱だから」


 私も小声で、吾郎に耳打ちをする。


「おいっ、辛抱ってどういう意味だよ?」


 や……やばい!?

 中居保に聞こえた? まさか、起きてるの?


 白いカーテンの向こう側で人の気配がした。


 地獄耳だな。寝たふりをして、盗み聞きするなんて、最悪だ。


 私は吾郎の血圧測定をすませると、何食わぬ顔で彼のベッドの窓際のカーテンを開けた。


「だっ、だからぁ、急にカーテンを開けたら眩しいだろ!」


 彼が眉をしかめ、窓に背を向ける。

 彼が吸血鬼なら、今頃は灰になっている。

 ていうか、ベッドにニンニクをぶら下げたいくらいだ。


「中居さんおはようございます。検温して下さい。先に血圧を計るので、左腕を出して下さい」


「はいはい」


 彼は私に左腕を差し出した。筋肉質で逞しい腕だな。いつも反抗的なのに今日はやけに素直だ。


 私は彼と目を合わせないように、血圧を計る。


「……ん? あれ? 昨日より少し高めですね? 百四十の八十です。どうしたのかな? 昨夜は眠れませんでしたか?」


「それは雫に腕を触られて、めっちゃドキドキしてるからだよ。コーフンしたら血圧って上がるだろう」


 彼は私を見てニヤニヤ笑った。


「えっ?」


 何を言ってるの?

 私は看護師として、真面目に仕事をしているのよ。そんなくだらない小ネタはいらないから。


「もう一度計りますから。その前に深呼吸を二~三回して下さい」


「はいはい。ヒーヒーフー、ヒーヒーフー」


 彼は私に顔を向け、わざと大きく息を吐く。妊婦じゃないんだから、『ヒーヒーフー』はないでしょう。


 本当に嫌な奴。


「もう一度血圧を計りますよ。えっ? 上がってるよ! 百四十三の八十二……どうして?」


「あははっ、やっぱり? だってさ、雫に手を握られたら、どんな男でも心臓がバクバクするだろ? 男ってデリケートな生き物だからな。数値にすぐに表れるんだよ」


 やっぱり最低な男だ。

 看護師をからかって遊んでいるに違いない。


「血圧は少し高いけど大丈夫ですね。冗談が言えるくらい元気だし、熱もないですよね?」


「熱は三十六度二分かな」


「平熱ですね。それと、中居さんにどうしても言っておきたいことがあるの」


「なんだよ? まさか、みんなの前で告白とか?」

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