「ねえ、雅久がくお兄ちゃん」

「ん?」

「今日のカレー、どうかな?」

 ドキドキしながらこう尋ねると、スプーンをプレートの上に置き、紙ナプキンで口元を拭いてからにこりとほほ笑む。

詩子うたこが作るカレーは今日も美味しいよ」

「よかった……」

「本当に美味しいからな」

 そうコメントしたあと、使用した紙ナプキンを畳んでテーブルの上に置き、カレーライスを再び食べ始める。

『詩子が作るカレーは今日も美味しいよ』

 わたしが作るカレーをほめてくれた雅久お兄ちゃん――。彼がこれをほめてくれた、それだけでこれを作った甲斐が、作った意味がある。

 わたしもカレーライスを食べようとスプーンを手にし、これを口に運ぼうとする矢先に「詩子の髪」と雅久お兄ちゃんが言い始める。

「ん?」

 雅久お兄ちゃんの顔を見つめる。と、私の髪をまじまじと見て「もうそんなにも伸びたんだな、って」。

「言われてみれば……」

 最近美容室に行っていない。伸びた髪、ヘアカラーの色落ちも気になる。今度美容室に行き、散髪して毛染めもついでに済ませよう。

「行ってくるね、美容室」

「ああ」

 やわらかな笑顔を浮かべる雅久お兄ちゃん。彼のそのやわらかな笑顔が好きだ。

 会話を交わし、笑い合う。それでもわたしたちを支配するさみしさは消えることがない、消えてくれない。

 ふたりきりで、ふたりぼっちでこのようにご飯を食べる日々、ふたりぼっちの食卓風景。

 両親に見放されて以降、わたしたちはここ、アベニール・セゾンの4階にある409号室でふたりきりの生活を送っている。

 兄、月雪つきゆき雅久こと雅久お兄ちゃんとふたりきりの生活は幸せな一方、かなしい。

 かなしさ、かなしみの中にあるかもしれないしあわせ、これを探し出し、わたしたちは生きる、生きてゆくしかない。

 紫煙がにわかに漂い、雅久お兄ちゃんを見ると、カレーライスをすでに食べ終えた彼は、人差し指と中指の間にマールボロを挟み、これを燻らせている。

 その細長く、まるで芸術品のごとく美しい人差し指と中指――美しいそれについ見とれてしまう。人差し指と中指だけではなく、その整い、翳りを帯びた横顔や、目許を縁取る長い睫毛を含め、雅久お兄ちゃんという人は神が丹精込めて作った被造物――唯一無二の美であり、唯一無二の人だ。

「詩子?」

「……へっ?」

「どうかした?」

「あっ……ううん……」

 しまった、と思った。

 その美しさに見とれてしまい、われを忘れた。

 これをごまかすようにハーブティーを一気に飲み干し、カレーライスを食べ始めるわたしを気にせず、マールボロを銜え、それの煙を吸い込み、それを一息に吐き出す。

 ゆらりゆらりと儚げにゆれる紫煙。これが好き、だけれどもこれはいつも、いつだってわたしを不安にさせるのだ。

 これがゆれるとき、わたしの気持ちはこの紫煙のようにゆらりゆらりと頼りなげにゆれる。

 キッチンから漂うカレーの香ばしい匂いと、マールボロのほろ苦い香りが融合した空間、これらが融け合うようにわたしたちは決して“ひとつ”になれないという事実がさらなる不安を煽る。

 不安な気持ちに支配されながらカレーライスを食べているわたしに雅久お兄ちゃんはきっと気づいていないに違いない。

 スプーンをプレートの上にそっと置く。

 食べられそうにない、もう。

 プレートに半分以上残った、具材、ルーとご飯が混ざった、まるでわたしのこころのようにぐちゃぐちゃの汚いカレーライス。この残りは明日の朝に食べることに決め、これにラップをかけることにした。

 スプーンをプレートの上に置いたとき、視線を感じ、雅久お兄ちゃんを見ると、彼と目が合う。

「ん?」

「残すんだな、カレー」

「うん」

「そっか」

 たった一言、そう返答し、煙草の灰をクリスタルガラス灰皿にトン、と落とした。

 雅久お兄ちゃんが灰皿に落としたグレーとホワイトの塊、これがドロっと粘り気を帯びた、腐敗しつつあるわたしのこころの塊と重なり、途端、気道を塞がれるように胸が苦しくなる。

 ――この瞬間、不安に支配されるわたしにやっぱり気づかなくていい、気づいてほしくないと思った。

 椅子から立ち上がり、キッチンまでラップを取りに向かう。

 ちらり、雅久お兄ちゃんの後背を見やると、思いなしかそれが淋しげに見えた。

 キッチンの引き出しからラップを取り出し、ダイニングテーブルに戻る。後、カレーライスにラップをかけ、これを冷蔵庫に入れた。

 買い物にそろそろ行かなければならない。

 卵や調味料など、必要最低限のものしかない、中身がスカスカのこの冷蔵庫は、まるでわたしのこころの中のようで――むなしい。

 うつろな気持ちのままダイニングテーブルにまで引き返そうとしたとき、汚れた食器類を手にした雅久お兄ちゃんがシンクにやってきた。

「あっ……ごめんね……」

「いいよ、別に」

 手間をかけてしまった、こうした罪悪感から俯くわたしに対し「ごめんな、いつも」と雅久お兄ちゃんが反対に詫び、ドキッとする。

「そ、そんな……」

 面を上げ、雅久お兄ちゃんの表情を見ると、苦笑ふ彼と視線が合い、口を噤む。

 食器類をシンクに置き「後で寝室な」と耳許でささやいたあと、リビングルームを去った。

 汚れた食器類をシンクに置いたあと、この汚れから、まるでわたしたちのけがれた関係性から目を背けるように寝室にそそくさと向かった雅久お兄ちゃんの様子を見て、この禁忌に目を瞑る、彼の中に共存する強さと弱さを感じた。

 ――犯す、今日も禁忌を。

 カレーの匂いが充満するシンクに突っ立ち、これに思いをはせる。この香りが鼻腔を突き抜け、五臓六腑を充たしたとき、わたしを支配する不安をこの香りがたちまちにしてカムフラージュした。

 わたしたちの関係は、歪んでいる。わかっている。だけれども、どうしようもない。

 それよりも食器類を洗わねばならない。食器類を速やかに洗い、雅久お兄ちゃんが待つ寝室に行かなければならない。

 そして――犯す、今日も禁忌を。

 寝室の方面を見つめたのち、雅久お兄ちゃんが置いて行った食器類を洗い始める。

 スポンジでプレートをさっと洗い、これを食洗機に突っ込み、グラスとスプーンもささっと洗い、これらも食洗機に突っ込む。それから洗剤を食洗機に投入し、これの電源を入れ、これを稼働させた。

 作業を終え、使い古し、縫い目がほつれたフェイスタオルで手を拭く。まるでけがれを拭い取るみたいに執拗に手を拭く。

 ――待っている、雅久お兄ちゃんが寝室で。

 一歩を踏み出し、シンクを離れる。シンクを離れて雅久お兄ちゃんが待つ場所に、寝室に向かった。

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