冷たい朝
和島秋
冷たい朝
右手に染み付いた赤が消えない。冬の冷たい水を気にしている余裕はなかった。早く落ちろと胸の中で叫びながら懸命に、ただひたすら手で手を擦る。私の手は冷水にさらされ骨まで凍てつき、自分のものではないようになってしまった。感覚はとうに無くなっている。
「殺してやる」と呟きながら右手に力を入れていたのは、ついさっきのこと。我に返り、凶器を、狂気を、片付けた。手の汚れも完璧ではないが、血流のいい肌の色に見えなくもない。目を凝らさなければ、ほんのり赤く色付いていることには気付かれないだろう。もうこれ以上、時間を浪費するわけにはいかない。急がなければ。私は手を揉みながら部屋を出る。
「人でも殺してきたの?」
席に着いた私に、椅子を傾けながら前方から短髪の女が話しかけてきた。この子はクラスメイトの原川。やはりこの子は鋭い。周りをよく見ているというか、視界から入る情報の把握に長けている。本人は明朗な活発少女の設定で高校生活を過ごしたいようだが。
「そんな手赤い?」
私が訊ねると予想外の言葉が返ってきた。
「違う。顔。顔についてる」
ああ、そんなあ。あれだけ手を洗ったのに顔の付着に気付かないなんて、とんだ間抜けだ。もし、ミステリの犯人が顔についた返り血で捕まったらどんな空気になるだろうか。そんな呑気な話あってたまるか。私は殺人鬼じゃなくてよかった。
原川に教えてもらい顔に付いた赤い絵具を手の甲で拭った。笑うようにチャイムが鳴る。
絵を描くとき、私は攻撃的な言葉を意識的に呟く。そうでもしなければ弱い私は恐怖に飲み込まれてしまう。強い言葉で自らを奮い立たせる。私にとって絵はアイデンティティであり、武器であり、全てだ。私の絵で他の絵描きも、冷たい目を向けてくる奴らも、自分自身のどろっとした黒い部分も、全部殺してやる。私の凶器は筆。勿論、周囲に人がいるときは自分の中に言葉を押し留めているけれど。
今日は危うく遅刻するところだった。無遅刻無欠席の記録は途切れさすわけにはいかない。朝に絵具を使うのはやっぱり控えた方がいいかも。明日からはまたデッサンだけの単調な朝に戻そう。朝から負い目は感じたくないし、無遅刻無欠席は私を満たしてくれる要素の一つだ。
眠そうな顔をした長身の教師が引戸を開けた。一限は現代文。私はカバンから新しいノートを引っ張り出す。一枚捲ると白紙が待っている。真っ新な状態から始まることは気分が良い。手を念入りに洗った甲斐があったものだ。汚れた手では綺麗な字は書けない。
冷たい朝 和島秋 @aki_wazima
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