第57話 安物の命

 メイリーは驚きで目を丸くして叫んだ。


「ハレー!」


 彼女が心配げな顔になるのも無理からぬことだった。ハレーは肉体労働をしているので体力はそれなりにあるだろうが、だからといって戦いに心得があるわけでも卓越した戦闘技術があるわけでもない。


 持ってきた角材で狼の牙を受け止めながら、彼はメイリーに向かって叫ぶ。


「何してる!早く逃げろ!」

「で、でも、ハレーが……」

「俺のことはいい!早く逃げるんだ!」


 メイリーが退避するのを見つつ、ハレーは狼を通すまいと尽力する。


 (そうだ、それでいい。俺は今まで君に多大なる恩を受けて来た。しかし俺はいったい君に何をしてやれただろうか。この薄汚い命、ここで恩義に報いずしてどうするというのか)


 狼が牙を離して一度距離を取る。ハレーも角材を構えて狼を見据える。獰猛な唸り声が空気を震わしていた。


  (来るなら来い。頼むからメイリーの方には向かってくれるなよ。俺ならば構わない。彼女を守れるのなら、腕の一本や二本くれてやる)


 しかしハレーの意に反して、何かが狼に向かって飛んでいった。石だ。狼は不快そうに、飛んで来た方角に視線を移す。なんとメイリーが居るではないか。手にはどこかから拝借してきた鉈を持っていた。彼女は逃げるどころか、助太刀の為に武器を探して来たのだ。


「何をしているんだ、メイリー!逃げろと言っただろう!」

「嫌よ!あんな巨大な狼、独りで勝てるわけないでしょ!二人で協力して生き残りましょう!」

「ダメだ!俺ならば死んでもいい。でもメイリーが死ねば大勢の人が悲しむだろう。良くしてくれている近所の人々、好飯販ハオファンファンの常連たち、ハイラン、そしてラヴィア・クローヴィア……だが俺が死んだところで悲しむ者などいない」

「いるに決まっているでしょう!」


 メイリーは大声で叫んだ。聞いたことも無いような大きな声であった。


「ラヴィアちゃんは貴方と話すのをいつも楽しみにしているし、それに私も……私だってハレーが死んだら悲しいよ。貴方のことを大切に想っている人が身近にいることを、どうか忘れないで」


 彼女は目に涙を溜めていた。鉈を握る両手も、両脚も震えていた。


 やがて狼はすぐ傍のハレーを突き飛ばすと、メイリーに向かって行った。ハレーの顔が青ざめる。なんとかすぐに起き上がって彼女の元に向かおうとするが、辿り着くよりも数段早くあの爪牙そうがに蹂躙されてしまうことだろう。



 その時だった。一人の黒い髪の女性がメイリーの前に飛び出していったかと思えば、襲い来る狼に強烈な蹴りを喰らわせてあっという間に昏倒させてしまった。夜の闇のように黒い髪、スリットの入った異国情緒のあるドレス姿、それは波浪ポーラン流拳術の師範にしてラヴィアに格闘のイロハを叩き込んだ女性――波海蘭ポーハイランであった。


「どうやら間に合ったみたいね。よかったよかった」

「……!ハイラン、ありがとう……」


 普段の言動がどうあれ、やはり彼女は頼もしい存在だった。メイリーは安心感から鉈を握ったままその場にへたり込んでしまった。ハイランは悠然とした足取りでハレーの元に向かうと、彼に手を貸して立ち上がらせる。


「ハレー、アンタもカッコ良かったわよ。弱っちいけど」

「……そいつはどうも」


 ハレーは忸怩たる思いであった。

 自分もあのようにメイリーを守ることができたなら……彼は心の中で歯噛みした。


 しかし安心も束の間だった。周囲の各所から唸り声が聞こえる。

 十数匹はいるであろう狼たちが、いつの間にかハレーたちを取り囲んでいた。再びメイリーの顔が絶望に染まり、ハレーは覚悟を決める。さしものハイランも冷や汗をかき始めた。


「ありゃー、ちょっと数が多いかな」

「メイリー!俺の後ろに隠れているんだ!」


 狼たちが大挙して迫り来る。どう見ても絶対絶命の状況であった。今にあの巨大な牙と爪が、彼らの肉体に深々と突き立てられる……!


 しかし実際の体験は彼らの理解を超越していた。狼が喰らいつく、しかしその牙と爪は彼らの肉体にちっとも刺さりはしないのだ。まるで狼がハレーたちに豪快にじゃれついているかのように、そこに身体的外傷は一切なく血の一滴たりとも流れずにいた。


 ハレーたちが動揺していると、遠くから一人の男が靴を鳴らして近づいて来る。


「ご苦労だったな、お前たち。まあ先ほどまでお前たちがしていた必死の攻防……まったく意味のない所業だったがな」


 その男はまるで裁判官や執政官を彷彿とさせるようなキッチリした衣服に身を包み、眼鏡を掛けて柳色の髪をしていた。両手には革の手袋をしている。


「お前たちは最初はなからおびやかされることなどなかったのだよ。この国に誰の加護があると思っている?偉大なる正義の神、マグナ様の加護に他ならぬ」


 眼鏡を上げる仕草をしつつ冷徹な声で語る。


「そして、マグナ様が作られし三眷属の一人……このレイシオ・デシデンダイがいるのだからな」


 三人はレイシオと名乗るその男を見ていた。正義の神に眷属がいるということ自体彼らには預かり知らぬことであったが、確かにその男からは神々しい力強さを感じさせた。


「お前たちは自分の身の心配すらも必要ない。この俺がいる限りお前たちは傷つくこともなければ、ましてや死ぬことなどありえない。ではな、俺はこの事態を引き起こしている連中を叩きのめしてくるとしよう……!」


 そう言うとレイシオは辺りの狼をものの数秒で殴り倒した後、飛び上がってそのままいなくなってしまった。狼たちの体が光り、消えていく。この光景からも、彼らが自然の存在ではない、神の能力によって作り出された存在であることが明白だった。




 今度こそ助かった……さすがに気が抜ける。

 ハレーは大きく溜息をいた。すると、メイリーが彼に飛びつくように抱き着いて来た。顔が彼の衣服に押し付けられる。少し服が濡れていくのを感じた。


「良かった……良かったよぉ」

「……」


 ハレーはメイリーの頭に手を置き、優しくさするように撫で始めた。桃色の、手触りの心地よい髪だった。彼女の温もりを感じる。命の温もりだ。今こうして彼女が生きていることにハレーは幸福を感じていた。


「君が無事で本当によかった。流石に肝を冷やした」

「……私が死んだら悲しい?」

「当然だ、身を裂くような激しい悲しみに包まれるだろうさ」

「もしハレーが死んだら、私もきっと同じ気持ちになるよ」


 メイリーの声には純真たる想いが滲んでいるようであった。


「そう……なのか」

「貴方が私のことを大切に想ってくれていることは分かってる。でも私だって、貴方のことを大切に想ってるんだからね」


 彼女の言葉を聞きつつハレーは奇妙な感覚に囚われていた。

 意中の女性が自分のことも憎からず想っていると、そう伝えてくれた。それは夢に見た情景であり、これほど嬉しいことはなかった。しかし素直に喜べない自分がいる。このような幸福を自分が享受してよいのかという、どこか悪びれた思いに囚われていた。自分は大罪を犯し、その罪をあがなうことすらしていないというのに!


「仕方のないことなんだ……俺の命なんかより、君の命の方がずっと尊く、重い」

「……ハレーはいつもそうよね。どこか自分の存在を軽んじている。どうして自分の命をもっと大切にしないの?」


 ハレーは少しためらう。しかし口を開き、ずっと堰き止めていた言葉を紡いだ。


「…………ずっと黙っていたがな、俺は大罪人なんだ。ブリスタル王国の貴族だった。他人を陥れる階級闘争や、ならず者を町にけしかけ人狩りをして私腹を肥やすようなことをしてきたんだ。だから正義の神に制裁され、すべてを失った」


 虚空を見上げながら、在りし日を述懐する。それはもはや彼にとって忌まわしき過去以外の何物でもなかった。


「今までは自分のことを特別な存在だと思っていたんだ。こんな振る舞いも自分ならば許されると、心のどこかでそう思っていた。すべてを失って、ようやく俺は目が覚めたんだ。しかし今更人並みの幸せを享受するには俺は罪を重ね過ぎた」

「だから自分の命は安いと、簡単に死んでもいいと思っているの?」

「……」


 ハレーは言葉を探す。本音を言えば彼女と幸せに暮らしてゆきたい。しかし、それが自分にとって虫のいい望みであることも事実であった。


「貴方は悪人だったのかもしれないわ。でも、私にとってのハレーは、優しくて思いやりがあって……貴方が死んだら私はすごく悲しいよ」

「メイリー……」

「ハレーはもう幸せになっちゃいけない、それは正義の神様が言ったの?」

「そういうわけでは……」

「誰が決めたの?貴方の命が安物だって、簡単に散らしていい命だって」


 言葉に詰まるしかなかった。確かに、誰かにそんな風に言われたわけではなかった。しかし道理で考えて自分の命が、毎日を清く正しく生きている命と同じ重さ、同じ尊さであるはずがなかったのだ。


「少しずつ、少しずつでもいいから世の中の為に生きていけばいいと思うの。困っている誰かにたとえ力になれなくても手を差し伸べてあげればいい、泣いている誰かに寄り添って心配ないよって囁いてあげるだけでもいいの。独りの力ではたいしたことはできないけど、そういう小さなことが繋がって、やがて素敵な世界ができていくんだと思うな。貴方がそんな世界の一つであれたなら、貴方の命を安物だと言う人の方が、私は許せない」

「……メイリー」


 メイリーはハレーから離れる。

 そして彼の手を取って、上目遣いに見上げた。泣き腫らしたような赤い眼、蒸気した頬であった。


「過去が暗く陰惨でも、未来はまだ何色にも染まっていないよ。二人で……ステキな明日を作っていきましょうね!」


 にっこりと、力強く笑っていた。


 ハレーの頬にもまた、涙が伝っていた。気が付けばメイリーを強く抱きしめていた。心地よく尊い温もり、そしてそれと出会わせてくれた醜くも美しき世界。これからの命、それらに報いていこう……彼は心の底からそう思った。



(なにいちゃついてんの、アイツら……)


 ハイランは独り、蚊帳の外であった。

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