もしも日常がこんなのなら

こへへい

健康診断がこんなのなら

「はい、次は聴力検査ですので、部屋を出て右手の椅子におかけください」


 看護師さんはまるで機械のように、流れる僕らお客さんを捌いていく。中には少しの世間話をしてくれる人はいるけれど、しかし最近こういう無感情で役割だけ果たすような、暗殺者としての素質を備えた「静かな退職者」が増えたような気がする。


 まぁ僕は気兼ねなく自分の健康を診断できるから良いんだけれど、仕事柄人との繋がりってのが希薄になってくると、ちょっとしたやり取りでもスパイスを求めてしまう。少しの世間話で救える命があることを世の中は自覚すべきだ。別に死ぬわけじゃないけれど(死ぬなら健康診断なんかに来ない)、生きながらにして日常が淡々と続いていくだけというのは、死んでいるのと変わらない。つっても生きている実感を健康診断で求めるなって言う人ももしかしたら出てくるかもしれないけれど。別に良いだろ? 健康診断ってのは生きるためのノイズを発見するための診断なのだから。屁理屈だけど。


「こへへいさんどうぞ〜」


 その声に意識が覚醒する。そして数分しか下ろしていない腰を浮かして、次なる部屋へ向いた。お客さんが入室したことを示すための、右手のバーコードを読み込むピロリという小気味いい音を聴いて部屋の中へ。

 その部屋には灰色の電話ボックスくらいの大きさの箱と、隣では聴力検査用のパソコンが置かれていた。あれで音を出したり出さなかったりするんだろう。


「ではこちらの中に入って下さい。赤は右耳、青は左耳になるようにヘッドホンを付けてください。音が鳴りましたらお手元のボタンを押してください」


 言われるがままに灰色の箱の部屋の中へ、そしてヘッドホンを装着。と同時に灰色の箱の部屋の扉が閉まる。瞬間、雑音が消えた。正常に聴力を検査するために部屋そのものがノイズキャンセリングしているようだ。

 ひょろひょろとコードが多いヘッドホンだなぁ、と思っていると外からくぐもった声で「ではいきまーす」と聞こえた。おっと、そろそろボタンの準備をしなければ。


 ……?


 あれ、ボタン、どこ? 音がなったら押すボタンってどこ?

 慌ててコードを辿り、くっついていそうなボタンを探すもそれがない。ヘッドホンから、ピーピーという音が聴こえるも、聴こえてますよ、という合図をするためのボタンが押せない。だってボタンないんだもん!


 そうこうしていると、ガチャりと扉が開く。看護師さんが抜けた声で結果を告げた。


「ちょっと聴力落ちてますねぇ〜。では次視力検査を──」


「ちょっと待ってください、聴力検査のボタンなかったんですけど、これじゃあ検査できないじゃないですか!」


 僕は慌てて看護師さんに尋ねた。しかし当の看護師さんはきょとんと、ナース帽が落っこちない程度に首をかしげて指をさす。


「ありますよ? ボタン。」


 その信じられない言葉に、いそいそと振り返る。

 指された方向に。ヘッドホンから垂れるコードに、明らかにボタンを押すためだけに取り付けられたボタンが付いていた。


「え、でもそんなはず、」


 灰色の箱と看護師さんを交互に見ることしかできない僕に、看護師さんは呆れたため息をついた。


「もう良いですか? 次の人がつかえてるので」


 そういうと、ピロリという音を奏でる音が聞こえた。そして僕はいそいそと退散することしかできなかった。生きた心地がしなかった。

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