1-5:「あのヒトは、ただしいニンゲン、デスカ?」
法則らしきものはこれで見えた。
カラスによって精神を操作された場合、これという後遺症は見られなかった。
しかし、それは最初の一回や二回に限定される話。
続けて三回精神の操作を行おうとすると、なぜか対象者は人間としての心を失い、なんらかの動物へと変貌してしまう。
浮浪者は犬に変わった。ゴミ屋敷の女は牛に変わった。
そして、一度動物の精神に変貌した後は、その後はどんな命令も受け付けなくなる。
元に戻れと言っても通用しないし、カラスがどんなに力を使おうとしても反応を見せなくなる。原理は不明だが、カラスによる精神操作は、やはり脳や心に大きな負担をかけるのではないだろうか。それがピークに達すると、自我が崩壊して自分を動物のように思い込んでしまうのかもしれない。
帰り道を歩きながら、芳市はそんな風に分析した。
「もちろん、わかってるよ。もうさすがに実験はしない。『どんなに多くても二回まで』しか一人の人間に命令を出しちゃいけない。それがどうもルールらしいってことまでは、なんとなくだけど見えたからな」
隣を歩き、一人でぶつぶつと語ってくる。
この先、あの浮浪者や太った女が元の心を取り戻す日は来るのだろうか。あのまま一生人間としての自我を失ったままこの世をさまようことになるのだろうか。
そう考えると、あまりにもむご過ぎる。
だいぶ日も落ちてきてしまった。『実験』を終えた後は、しばらくの間は呆然と立ち尽くしていた。そのせいで帰りが随分と遅くなってしまった。
芳市は両手をぶらぶらと振りながら歩く。実験を終えて少しした後、例のカラスは自分からどこかへ飛んで行ってしまった。
「芳市、わかってると思うけど……」
「わかってるよ。もうハーブには近づくなって言いたいんだろ? さすがに俺も少し引いたよ。最初はただすごいなって感動してたけど、さすがにあれはヤバいだろ」
芳市は目を細め、軽やかな足取りで道を進んでいる。鼻歌でも歌い出しそうな感じで、絶対に反省しているようには見えない。
どうにか、カラスと遠ざけられないか。どこかの研究機関に通報するとか。
そんな風に、考えを巡らせていた矢先だった。
不意に、隣の芳市が足を止めた。顔から緩みを消し、唖然とした様子で道の前方へと目を見開いている。
不審に思い、直斗も足を止める。自転車を支えたまま、彼の視線の先を目で追った。
もう間もなく芳市の自宅に辿り着く。既に視界には洋風二階建ての邸宅が入ってきている。赤い煉瓦の塀と、青い三角屋根に白い外壁。それが夕暮れの太陽によって赤黒く染め上げられている。
その赤煉瓦の塀の前に、ぼんやりと佇む影があった。
太陽の光を背に受けているため、相手の顔はよく見えない。
見たことのない人物だった。年齢としては四十前後。黒いジャージを全身にまとい、肩をいからせてこちらに歩み寄ってくる。背は高く、自分たちより頭一つ分の差はある。
男の顔はのっぺりとしていて表情がない。虚ろな目をしながら距離を詰め、道を塞ぐかのように左腕を大きく横に伸ばしてくる。
もう片方の腕には、見慣れた物が乗せられていた。
男は右肘を掲げ、そこに一羽のカラスをとまらせていた。カラスは男と同様にまっすぐにこちらを見つめ、無機質な光を瞳にたたえていた。
「オメデトウ、ゴザイマス」
間もなく、男が口を開いた。
抑揚のない声だった。コンピュータが文章を読み上げているような、酷くちぐはぐな感じのする喋り方。
「ワタシには、チカラがアリマス」
やがて、男は再び言葉を発した。
直斗は意識して瞬きをした。男が太陽を背にしているため、じっと見ていると輪郭がぼやけてくる。
「デモ、ツカイカタが、ワカリマセン」
男は尚も片言の日本語を発してくる。
「ダカラ、アナタたちに、オシエテほしいと、オモイマス」
芳市が身じろぎする。開いていた口を閉じ、恐る恐ると男の方へと一歩距離を詰めた。
「もしかして、お前が喋ってるのか?」
男ではなくカラスの方へ向けて、芳市は質問を発した。
カラスは首を揺する。頷いているように見えた。
「アナタたちは、ワタシのこと、ダレにも、イワナイでくれました。ダカラ、アナタたちに、オネガイ、したいと、オモイます」
男の口だけが無機質に動く。カラスが横で嘴を動かすと、それに合わせて男が言葉を再生する。
「ワタシが、ナニヲ、すべきなのか、コレカラ、アナタたちが、オシエテください」
それだけ言わせると、カラスは大きく羽根を広げた。ゆっくりと空へと舞い、二人の真上へと影を落とす。
芳市は呆然と見上げていた。カラスは夕日を背中に受けて、ほのかに輪郭をきらめかせている。眩さに目を細めながら、彼はただじっと空を飛ぶ鳥を見つめていた。
そんな芳市の唇が、やがて大きく吊り上げられた。
状況は確実に悪い方へと転がった。
「これはもう、逃げるわけにはいかないだろ」
ピンク色の自室へと入った後、芳市は声を高めた。
ベッドの上に胡坐をかき、興奮した面持ちで両腕を広げる。
「ハーブが喋ったのはびっくりしたけどさ、やっぱり、あいつも人間の言葉がわかってたんだよな。自分で話せなくても、人間を操れば俺たちと会話できるわけだ」
芳市は勢いよくベッドから降りる。すぐに窓辺へと行き、カーテンを開けていた。
あのジャージの男は必要な話を伝え切ると、すぐに我に返ったようだった。カラスも家の前から飛び去っていき、男は不思議な顔のままランニングに戻って行った。
カラスに三回意識を操作されると精神が崩壊する。でもおそらく、あの伝言の際にはあらかじめ決めておいた内容を喋るように命じておいたのに違いない。それを嘴の動きなどに応じて順に喋らせていたということなのだろう。
「さすがに、これ以上関わるのは危ないと思う」
「いやいや、放置する方が怖いとは思わない?」
芳市は再びベッドに腰を沈め、挑むような笑みを浮かべてきた。直
「あいつがすごい力を持ってるのはもう見ただろ? それならさ、今のうちに俺たちでちゃんと制御しておいた方がいいに決まってるじゃないか。俺たちが協力しないって言ったら、絶対にあいつは他の奴のところに行くぞ。そいつが何かヤバい奴だったらさ、それこそ何が起こるかわからないじゃん」
得意げにまくしたててくる。直斗は言葉に詰まり、絨毯に目を落とす。
「そういうわけだからさ、何度も言うように心配するなって」
ベッドから立ち上がり、芳市は肩に手を置いてくる。誇らしげに唇を緩め、ぽんぽんと二度肩を叩いてきた。
胃の奥に冷たいものが走ってきた。立っていると気分が悪くなってくる。
今日ほど、こいつと付き合いを続けたことを後悔した日はない。
考えなければ、という気持ちだけは膨らんでいった。
午後の六時半。芳市の家を去り、自宅へと自転車を押して歩いていく。今は頭がいっぱいで、自転車を走らせると事故を起こしそうだった。ゆっくり考え事もしたかったし、街灯の光に照らされる下をとぼとぼと歩き続ける。
街灯の光から目を逸らし、何度も瞬きをする。今日は色々なことがありすぎて、頭の整理が追い付いていない。そのせいか妙に目が渇いて仕方ない気がする。
そして、何度目かの瞬きを終えた時だった。
目の前に、影が現れた。
のっそりとした歩調で相手は距離を詰めてくる。街灯の真下に現れ、全身が白く照らし出される。
見たところ、学生のようだった。紺色のブレザーを着た男子生徒で、頭は丸坊主にしている。大きなボストンバッグを小脇に抱え、ゆっくりと歩み寄ってきた。
彼の右肩には、やはり例のカラスの姿があった。
「オメデトウ、ゴザイマス」
学生はなぜかまた祝福のセリフを口にする。
今度はなんの用だ、と直斗は唇を噛みしめる。
「アナタに、オネガイが、アリマス」
カラスが嘴を動かし、学生が言葉を再生させる。
直斗は何も答えない。自転車のハンドルを強く掴み、そっと肩を縮める。
「あのヒトは、ただしいニンゲン、デスカ?」
直斗は一度ゆっくり瞬きをし、相手の両目を見つめ返す。
どういう意味か、と頭の中で考える。
「ニンゲンとして、タダシイかどうか。あとで、オシエテ、ください。アナタにしか、たのめない、コトデス」
「どういう、ことだよ」
カラスは何も答えない。ただ黒い羽根を大きく広げ、嘴を目の前で揺すってくる。
「ソレデハ、オネガイします」
それだけ最後に言わせると、カラスは再び空へと飛び去って行った。
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