文章を具現化する力でヒーローに〜六法全書?売りましたが何か?〜

雨宮 徹

六法全書? 鈍器以外に使い道はないでしょ

 俺は転生者である。名前はまだない。転生先では。



 広がる青空は果てしなく、風は肌を撫でるように心地よく流れていた。しかし、そんな自然の美しさも、今の俺には関係ない。現実を直視すれば、俺はこの広大な草原に、たった一人で放り出されたのだから。



 前世では、俺は法学部生だった。だが、誤解しないでくれ。法学部だからといって、頭がいいわけではない。むしろ、その逆だ。成績は常に赤点ギリギリで、補習が俺の日常だった。そんな落ちこぼれであり、間抜けな俺が、あの日、小石につまずいて道路に飛び出したのも、まあ必然だろう。あっという間にトラックに轢かれて、死んでしまった。



 いや、死ぬ話なんて、もっと簡潔に済ませるべきだ。「トラックに轢かれて、転生した」、これだけで十分だろう? ダラダラと語るあたり、やっぱり俺は頭が悪いんだな、と今さら思う。



 転生の際、女神からは「スキルを選んでください」と言われた。だけど、ここでも俺はやらかした。「書物の現実化」という、今思えば使い道の少ないスキルを選んでしまったのだ。



 今、俺は前世で背負っていた重いバッグと共に、広大な草原に立ち尽くしている。このバッグには、俺の法学書や六法全書がぎっしりと詰まっている。重いが、これが唯一の財産だ。だけど、ラノベの転生主人公みたいに「チートスキルで無双する」だとか、「ハーレムを築く」だとか、そういう展開には程遠い。なにせ、まずは町すら見当たらないんだから。



 俺は広い空と果てしない地平線を眺めながら、町へ向かおうと一歩踏み出した。しかし、前途は多難だ。ここから町まで行く前に、俺は倒れてしまうかもしれない。そんな不安がよぎった時、運が味方した。



「あれは……商人か?」



 向こうから大きな荷物を背負った男が歩いてくるのが見えた。商人だろうか。よかった。これで少しは希望が持てる……と思ったが、すぐに現実が俺を打ちのめした。金がないじゃないか。俺は無一文だ。商人に会っても、買うものがない。それに、この世界の通貨なんて知らない。もう、頭を抱えたくなる。



「そこの青年、何か買わんかね? ポーションに食料や武器、何でもあるよ!」



 商人は笑顔で声をかけてくる。だが俺は、苦笑しながら首を振った。無一文の俺に何が買えるというんだ。商人もそれを察したのか、少し目を細めた。その時、俺の脳裏にひらめきが走る。



 そうだ、俺には六法全書があるじゃないか! そう思い、俺はバッグから分厚い法典を取り出し、商人に見せた。



「なあ、この本を売りたいんだが……」



 商人は本をじっくりと観察し、値踏みするような眼差しを向けた。しばらくして、ようやく言葉を発した。



「銀貨3枚だね」



 その額が高いのか安いのか、俺にはわからない。しかし、腹を空かせた俺には、もう選択肢がない。背に腹は代えられないのだ。俺は重い六法全書を手放し、銀貨3枚を手に入れた。



「じゃあ、この銀貨で食料を買いたい!」



 俺はすぐに商人に言った。商人は銀貨3枚を受け取り、少量の生肉を俺に渡した。生肉か……まあ、火を通せば食べられる。とにかく何か食べないと、先に進めないだろう。



 その時、バッグからもう一冊の本が転がり落ちた。俺の愛読書のラノベだ。


「それも売らないか? 銀貨1枚で」



「この本は何があっても売らない!」



 そう言い切ると、商人はため息をついて、「じゃあ、さよならだね」と言い残し、遠くへ去っていった。丘を越えるまで彼の姿を見送った俺は、手元の少量の生肉を見つめ、溜息をつく。



 生肉を手にしても、火を通さなければ食べられない。それに気づいた瞬間、再び自己嫌悪に陥った。なんて間抜けなんだ、俺は。このままでは飢え死にするだけじゃないか。



 こんな時、ラノベなら「勇者は優雅に馬にまたがり、町を目指す」なんて場面なのに、俺には馬がない。そう、このラノベのように馬がいてしかるべきなのだ。ふと、俺はラノベの表紙を指で軽くなぞった。すると――。



「馬が……現れた?」



 目の前に立派な馬が姿を現したのだ。嘘だろう? 馬なんて一体どこから? 驚きで頭が真っ白になりそうだったが、少し冷静に考えると、理解できた。そうだ、これは俺のスキルだ。「書物の現実化」という、あの使えないと思っていたスキルが、ここで発動したのだ。



 俺は試しに馬にまたがった。馬は驚くことなく、静かに俺を受け入れた。



「これが……俺のスキルか」



 このスキルを上手く使えば、無双できるかもしれない。「書物の現実化」の原理はという制約があるらしい。だから、無条件で何でもできるわけじゃない。そうだとしても、六法全書を手放してしまったことが、今さらながら痛手に思えてきた。刑法さえあれば、悪人を捕まえて手柄を立て放題だったのに。



 だが、ここで嘆いていても仕方がない。俺は馬にまたがり、町を目指す。そして、いつか取り戻すんだ、六法全書という名の聖典を。

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