腹痛

 本当に困った。

 街中で突然の腹痛に襲われ、運良く近くにあった公衆トイレに駆け込めたとこまでは良かった。

 ひとしきり腹痛の原因を排出し切ったところで気がついた。紙がない。芯すらも残っていない。

 なんとか問題を解決すべく、まず浮かんだのは隣の個室だ。どうせこんな公衆トイレなぞ、めったに人は来まい。下半身を露出して移動しても誰にもバレないだろう。

 簡単なことじゃないかと気づき鍵に手をかけた途端、カツカツと足音が聞こえてきた。急いで手を離して便器に座り直す。足音はそのまま隣の個室に入り、鍵を閉める音が聞こえた。

 この公衆トイレに個室は2つ。となりの個室が埋まった以上、移動案は潰えた。

 だが、ここで諦めるほどヤワじゃない。次なる案は、どこかにあると思しきストックを探すこと。きっと掃除用具入れや備品置き場がどこかにある。下半身丸出しには変わりないが、少し探せば有無の判別は付けられるだろう。

 そして再び鍵に手をかけたところで、今度は複数の声が聞こえてきた。

「鈴木くぅ〜ん、いるのは分かってるからね〜」

 どうやら隣の個室の主はいじめられっ子らしい。彼らに追われてトイレに逃げ込んだのだろう。行き場のない個室に逃げ込むなど悪手極まりないが、きっとそれどころではなかったのだろう。というか彼らが鈴木くんをいじめなければここに来ることもなく、平和に個室の移動が叶ったのではなかろうか。そう考えると無性に腹が立ってきた。

「出てくるまでここにいるよ〜」

 そう言ってトイレの入り口あたりから聞こえる騒ぎ声はそのまま居座り続ける。さてどうしようか。

 隣に移動する作戦も、用具入れを探しにいく作戦も封じられた。こうなったら、いっそ隣の鈴木くんに話しかけて紙を分けてもらおうか。

 勇気をこめて、優しく個室を隔てる壁をノックする。

「すみませんが、紙をわけていただけないでしょうか……」

 なるべく外の連中に聞こえないように声を潜めたつもりだったが、耳ざといやつがいたようだ。

「鈴木ぃ〜、分けてやれよ〜」

 女の声。続けて何が面白いのかたくさんの笑い声が聞こえてくる。ねっとりと揶揄うような言葉に悪寒がした。トイレで困っていることの何がそんなに面白いのか。

 イライラを抑えきれずにいると、隣からノックの音が聞こえてきた。

「……投げます」

 放物線を描き、落下してくる紙。空から降臨するそれは、まさしく神と言っても過言ではない。

 すんでのところで何とかキャッチ。ありがとうとお礼を述べると、鈴木くんは小さく「いえ」とだけ返事をした。

 そしてまたもや、不快な笑い声が響く。

「優しいじゃん鈴木ぃ〜」

「おっさんもさっさとケツ拭いて出てこいよ〜」

 いよいよ見境がなくなったのか、こちらにまで声をかけてくる。本当は無干渉でいたかったが、鈴木くんには大きな恩がある。

 しっかりとお尻が綺麗になったことを確認すると、敢えて大きな音を立ててトイレのドアを開けた。

「さっきからギャアギャアと、クソくらいゆっくりさせろや」

 高校生くらいだろうか。いかにもといった風貌の少年少女が、音に驚いたのかこちらを見て固まっている。そしてそのまま動くことなく、俺の姿を見て更に目を見開く。

 筋骨隆々のハゲ。一言で俺を表すならそんなとこだろう。

 学生時代にいじめられていた気弱な俺は、その状況を打破すべく筋トレに励んだ。そしてマッチョになった。

 だが、過去に周囲に舐められ悔しい思いをしていた俺はもう一つ何かが欲しかった。そして、スキンヘッドを選んだ。さながらアジアのドウェイン・ジョンソンだ。

 バカにしていたトイレからドウェイン・ジョンソンが出てきたら、そりゃまあびっくりするだろう。固まったままの彼らをこのままにしていたら、俺がいなくなった後で鈴木くんに何をするかわからない。

「さっさと失せろ」

 そういうとまるで蜘蛛の子を散らしたように方々へ逃げていく。姿が見えなくなったことを確認した俺は、個室の中の鈴木くんにそれを伝える。

 出てきたのは、小さく痩せた少年。ありし日の自分を見ているようで懐かしくなる。

 俺は鈴木くんの肩を掴み言った。

「まずは一緒にスクワットからだ!」

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