第11話


         ※


 私はすっかり身体に馴染んだソファに座り、がっくりと項垂れていた。

 自分で自分のことが分からない。

 強いて言えば、自分が父の背中を追いかけているということがあるのだろうと思う。


「はあ……」


 まったくこれでは、自分がファザコンみたいじゃないか。だが、私はそれを否定するつもりは毛頭ない。他人に指摘され、揶揄されても。


 正義漢、という言葉がぴったりだった、そして家族の誇りであった父。


「あんな殉職の仕方、私だってしたくないよ……」


 私には分かっていた。隣でリエンが時折視線を寄越していることも、ソフィアが私に声をかけたがっているのも。

 だが、それらに応じるだけの余力は残されていない。たとえ万力で今の私の心を絞ったとしても、最早汗も涙も出ないだろう。


 そんなキャビンの中で、もう一つのキャビンに繋がる扉の開閉音がした。

 誰かが入ってくる。しかしヴィルのような殺気は感じられない。


「どうしたんですか、ロブ?」

「おや、気づかれたか」


 ずっと顔を伏せたままでいようと思ったが、彼の優しいバリトンボイスに促されるように、私はすっと背を伸ばした。

 私の隣に腰を下ろしたロブは、ゆっくりと私に皿を差し出した。背の低いグラスが載っている。


「アイスティーを淹れてきた。コーヒーの方がよかったかい?」

「ああ、いえ……」


 ロブは自分のグラスに口をつけ、黙り込む。私にも『飲んでみろ』と言いたいのだろうか。

 あまり喉の渇きを感じない、というか感じる余裕がない状態だったが、熱中症で倒れては本末転倒である。


 私はゆっくりと、グラスから液体を口内に流し込み、こくん、と飲み込んだ。


「あっ、美味しい……」

「おお、よかったよかった」


 ロブと私は、しばし沈黙した。聞こえてくるのは、冷房設備の稼働音と、リエンがキーボードを叩く音だけだ。


 きっとロブが気を遣ってくれたのだろう、私がアイスティーを飲み干したタイミングで、奇妙なことを言い出した。


「ここなら弱音を吐いてもいいし、誰もあなたを死傷させようとはしていないから、そんな戦闘装備を身に着けている必要はない」


 大丈夫だよ、神矢一尉。あなたは守られている。

 そんな優しい言葉を聞かされ、一度は枯れたと思っていた瞳に新しい水滴が広がる。


「そろそろバトンタッチだな。ヴィルの奴、やはりあなたのことを気にしているらしい」

「なっ!?」


 待て待て待て待て。今の言葉は聞き捨てならないぞ。

 がばりと顔を上げた私は、そのままロブが言った『気にしている』という言葉について、さらに言及しようと息を吸い込んだ。

 

 しかしロブは、まあまあと私を宥めようとするばかり。

 そんな様子を、ソフィアは目を丸くして見つめ、リエンはぐいっと身を乗り出して事態の推移を見守っている。


 ううむ、こうなってしまっては、この場を収められる人物は一人というか、本人しかいないな……。

 まったく、シャワーの長い男だ。これでは私がさっさと逃げ出す算段もつけられない。


 自分の発した『気にしている』という言葉の意味合いが非常に曖昧だった。

 ……ということにロブが気づいて撤回するまで、十分はかかった。


 いや、それが分かったからといって、ロブが私たちを誤解させたことは立派な精神的罪だ。

 ヴィルのような朴念仁が、私のようなただの一兵卒ごときに恋愛感情など抱くものか。

 そう、ここにいる全員が日本語が堪能であるからこそ、こんな誤解が広まるのだ。

『気にしている』という言葉くらいで、どうして私はこんなに動揺しなければならないのか。


「……すみません、着替えてきます」

「ああ、了解だ」


 ロブの許可を取った私は、隣のキャビンへと続くドアの前でノブを捻り、向こう側へと押し開けた。それと、さらに向こう側。資材置き場があって、そのわきがバスルームになっていたはず。


 取り敢えず、ヘルメットや防弾ベスト、各関節部を守るプロテクターをさっさと外していく。下着だけの姿になったところで、部屋のどこかで金属の擦れる音がした。

 予備の二十二口径拳銃を取って、素早く音の方へ向ける。そして、強烈な既視感に襲われた。


「おう、また会ったな、神矢。おいおい、その拳銃、ちゃんとセーフティはかかって――」

「素っ裸で出歩くなあああああ!!」


 私は拳銃をわきに投げ、代わりに何故かその場にあったハリセンを手にしてヴィルに跳びかかっていた。


         ※


 さっさとヴィルを追い出して、私はシャワーを浴びた。擦り傷や軽い打撲があちこちにあって、少しばかりがっくりときた。

 人間には、物事の整然とした様子から受けるカタルシスがある。それが今の私には、完全に欠落している。


 誰に見せるわけでもない自分の裸体だが、人間としての本能的なレベルでの落胆は隠せない。そもそも痛いし。

 今、この瞬間にこの船に危機が迫ってきたとして、素早く戦闘装備を整えることはできるだろう。


 だが、よく言われる言葉に『身体が資本』というものがある。私は単純に、怪我をしたり病気になったりしたら任務に支障が出る、ということを説いたものだと思っていた。


「こんな痣だらけじゃ、明日以降の任務に支障が出るかも」


 真っ黒な短髪から滑り落ちる水滴を見つめながら、私は呟いた。

 普通の、というか一般的な女性は、どう考えるのだろう? 見栄えが悪くなるとか、そのせいで恋人にフラれるとか、そういったことだろうか?


 恋愛。友愛。愛情。そういった概念、イメージを否定するつもりはない。

 だが、私にそんな余裕というか、精神的な安定性、繊細さを求めるのは酷というものだ。

 

 私に恋人がいたことはない。恋愛というものが煩わしく思われて仕方がなかった。

 しかしその煩わしさ、言い換えれば他者の視線というものを、今の私は気にしている。

 敵の放った弾丸の軌道と同じくらいには。


「ああ……」


 そういえばここは、大型船舶のバスルームだった。水は節約しなければ。

 私はわざとゆっくりとシャワーの栓を閉め、早々にバスルームから撤退した。


         ※


 バスタオルで髪を擦りながら、私はキャビンに出た。リエンのラップトップがある方ではなく、その隣、バスルームに通じる方のキャビンだ。

 サブキャビン、とでも呼ぶ方がよかったのかもしれない。実際は、そこいら中に配管が張り巡らされた、窮屈感あふれる空間だが。


「誰もいない、か」


 腰に手を当て、ぐるりと周囲を見回す。念のために天井も一瞥すると、しかし、そこに人の姿はなかった。


 私はふわふわした感覚を抱きつつ、メインキャビンへのドアを開けた。


 そこには、一人の男がいた。

 ロブのように他人を甘やかすことなく。

 リエンのように突っぱねたり、噛みついてきたりするわけでもない。

 ソフィアは、私とヴィルが帰還した時には既に眠りに就いていたし、そもそも女性だ。


 と、いうことは。


「お早いお帰りだな、一尉殿?」

「ヴィル……」


 ヴィルは私のお気に入りのソファに深く腰掛けている。その周囲には、銃器の部品が散らばっていて、彼が銃器のメンテナンスの最中であることを示していた。


 リボルバーは整備が完了したのか、ソファの反対側に押し退け、次に自動小銃の弾倉を手に取った。一発一発、弾丸を込めていく。


 ぱちり。ぱちり。


「あんたも災難だったな、昨日といい今日といい……。普通なら、そこにある拳銃で俺の頭がぶち抜かれても文句は言えない」


 ぱちり。ぱちり。


「私なら、今からでもそれができるけど?」

「そうだな」


 私は何か変なことを言っただろうか? それを問い詰めようとすると、微かな音でやはり言葉に詰まってしまう。


 ぱちり。ぱちり。


 タンクトップに柔軟性の高いズボンを組み合わせた服装は、軍人以外の何者でもなかった。実戦で必要な筋肉が、適度に鍛えられている。

 

 ふと、彼のそばに何かの紙が置かれているのに気づいた。二人の人物が写っている。今の私と同じくらいの年頃の男女だ。


 私が何か尋ねる前に、いや、考えるよりも前に、ヴィルは語り出した。


「妻だ。名前はアリサ・クライン。享年二十三。俺のせいで、命を落とした」

「……」

「日本には、防衛省からも警視庁・警察庁からも独立した暗殺部隊がある。『グリーンフィールド』、通称GFというらしい。聞いたことくらいはあるんじゃないか?」

「……はい」


 おずおずと答えると、ヴィルは一つ頷いてから目を逸らした。写真の方へ。


「なあ、神矢。あんたから見て、俺は今何をしている?」

「えっ、そ、それは、銃器の装備と装弾を……」


 だよな、とだけ言って、ヴィルは黙々と作業を続ける。視線は写真に注がれてばかり。手元の弾倉や弾丸など、一瞥すらしない。


「これはな、神矢、ただの銃器じゃない。アリサを弔うための儀式に使う神具なんだ。史上最凶の悪魔に戦いを挑むにはうってつけだと思わないか?」


 そこまで言って、弾倉が一杯になった。

 ぱちり。ぱちり。という装弾音が止まる。どうやらこれで全部らしい。


「アリサは二人の男によって殺された。一人は現役のGF実戦部隊隊長、旗山竜城。そして俺、ヴィル・クラインだ」

「あなたが?」

「俺の偽造工作が完璧だったら、アジトもバレずに彼女は平和に暮らせたはずなんだ。彼女の人生の半分は、俺が奪ったようなものなんだ。だから――」


 何かを言い淀むヴィル。その考えを悟るのは、実に容易なことだった。

 

「旗山を殺してあなたも自殺する。そういうことですね」

「ああ」


 流石のヴィルも、これ以上は言葉を継げなくなったらしい。

 私に心理カウンセリングの技量はないが……。


「まあ、このぐらいはしてあげます」

「悪いな、神矢」


 自分が疲労で寝込むまで、私はヴィルの隣に座り、幅の広い背中を擦ってやった。

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