22.私に、どうか、勇気を。


   22



 儚樹はかなぎシラズは六階層に取り残されていた。


 一分間待ってほしい。という名無し男のお願いをシラズは律儀に聞き入れていた。素直に従った。そして名無し男が七階層に姿を消してからちょうど六十秒。シラズはロッカーに手を掛け――しかしドアは、開かない。


 ドアはロックされていた。


 最初は理解が出来なかった。なにが起きているのだろう? ドアに開け方なんてあったっけ? 普通に、それこそ教室後方に置かれている掃除用ロッカーみたいに、特別な操作など必要なく、開けようと思えば開けられるはずだ。……開けられない。


 ドアが、開かない。


 頭が空白に染まった。なんで? どうして? 経験がない。知識にもない。一体どうしたらいい? シラズは渾身の力でロッカーを引っ張る。ドアを叩いてみたりする。でも開かない。どうやっても、ロッカーのドアは、ひらかれない。


 なんで……なんでなんでなんでなんでっ!


 脳裏に掠めるのはリビング・ジャイアントの巨躯きょくだった。さらに『渇きのオーク』達の血に飢えた口臭だった。他にもたくさん……自分ひとりでは対処が出来ない魔物達が、この六階層にはうろついている。


 死ぬかも、しれない。


 ふと気配を感じてシラズは周囲に視線を這わせる。鬱蒼と生い茂る森林。緑のにおい。風はほとんど吹かない。太陽は遠い。こずえから漏れる光はシラズを避けているようにも思えた。



 ――無力だ。



 一階層から六階層までは名無し男という強力なジョーカーに守られ続けていた。リビング・ジャイアントにしても既に倒された後だった。いままでのすべて、自分は名無し男に守られ続けてきた。


 自分は、裏切ろうとしたのに。


 でも、いまは、ひとり。


 先ほどの魔物達が脳裏をよぎる。私ひとりではどうしようもない。遭遇すれば死んでしまう。間違いなく、殺される。まだゴブリン程度であれば……? いや。ゴブリンにしてもどんな目に遭うかっ。いや。冷静になれ。落ちついて。


 ――シラズは左手を開く。なんの変哲もない手の平。そこに右手の人差し指で円を描く。それは心を落ち着かせる自分だけの魔法。……自分たちだけの魔法。


 自分と、弟二人の、共通の魔法。


 気分をしずめる方法。


 円を描きながら考える。自分はこれからどうするべきなのか? 名無し男は七階層に消えた。火島達は五階層へ。しかし……そうだ。シラズは思う。火島達は救助を要請したと言っていた。であるならばじきに救助が来るはずだ。実技試験では受験者達のために幾重にも配慮がなされている。そのうちの一つが緊急事態に備えている、手練れの探索者達。救助隊だ。


 彼らがいずれやってくる。だからそれまで待てば良い。六階層で……待つ? いつまで? シラズはまた暗澹あんたんと押し寄せてくる不安に足首を掴まれた。いつまで待つ? いつまで待てばいい? いつまで待てば自分は救われる? 自分は。自分は自分は自分は自分は自分は自分は。自分はっ。自分はどうすれば救われるの! 自分は。……自分は。




 ――自分のこと、ばっかり。



 ――なんで私、自分のことしか考えてないの?




【大丈夫?】

【なにかあった?】

【変態は?】

【ロッカー行けないの? もしかして】

【それってなんだっけ】

【あれだあれ】

【あれってなんだよ】



 ふいに聞こえてくるのは配信コメントの読み上げだった。いや。先ほどからずっとコメントは流れ続けていた。ただ、聞こえなかっただけだ。なにも聞こえなかった。自分のことばかり考えていたから。


 コメントに答えようとして、喉の奥がひっついていることに気がつく。緊張と不安で口の中は渇ききっていた。唾液もぜんぜん分泌されない。声を出そうとして、声帯がひきつる。


「っ。あの。この状況、なにが起きているか分かる方って、いませんか」


 配信画面には自分の手元が映っている。震えている手元が。血流が回らなくて白くなった手が。



 ああ――弱い。


 自分は、弱い。



【七階層で異変だな】

【七階層でロッカーが壊れたんだと思う】

【それやばくね?】

【ロッカーを壊せる魔物ってなに】

【変態が壊した説】

【んなわけない】

【普通に変態、やばいかもね】



 視聴人数――1503人。


 どこから流入があるんだろう。視聴人数は急速に増え続けている。まあ、分かる。名無しさんの動きは豪快だから。それでいて鮮烈だから。なによりも意味不明だから。まるで――可能性の花。ありとあらゆる可能性を含んだ人だから、花があって、人が流れてきて、でも私には、なにもなくて。


 なにもない私に、出来ることなんて、なくて。



【三行で情報】

【①試験中 ②異変発生 ③相棒が行方不明】

【逃げた方いい】

【逃げた方いいね】

【試験中なら緊急連絡は?】

【してるはず】

【なら待機の方が】

【いや六階層もえぐい】

【五階層に引き返すべき】

【五階層なら他の受験者もいるはずだから】



 震える手を、握る。


 私には、なにも、ない。


 私は、無力だ。


 しかも、卑怯だ。


 狸谷という男にそそのかされて、名無しさんを裏切るって決めて、結局は裏切らなかったけど、でも悪事に荷担かたんしたのは事実で、悪いことをして、その上で――その上で、見捨てる?


 名無しさんを、見捨てる。


 見捨てようと、している。


 握った拳は、それでもまだ、震えている。


 だから思い切り爪を食い込ませて震えを止める!



「名無しさんは、まずいですか」



【……ぶっちゃけ】

【ロッカーが壊れるって相当だからな】

【知能を持ってる魔物だ】

【悪魔の可能性ある?】

【それはないでしょさすがに】

【A級相当の魔物がいるかも】

【やばいね】

【シラズちゃんは逃げた方いい】



「――してくれませんか」



【?】

【音、聞こえない】

【マイク調子悪い?】

【もうすこし大きい声出せる?】



「力を、貸してくれませんか」



 ああ。私は私が嫌いだ。無力な私が嫌いだ。弱い私が嫌いだ。ずるい私が嫌いだ。臆病な私が嫌いだ。醜い私が嫌いだ。すぐに言い訳する私が嫌いだ。すぐに逃げに回ってしまう私が嫌いだ。賢い風を装っている私が嫌いだ。真面目ぶっている私が嫌いだ。善人ぶっている私が嫌いだ。なにより……。



 ――勇気のない私が、嫌いだ。



 でも、だからこそ、いま、ほんのすこし、ほんのわずか、ほんのちょっと、かけらほど。


 わたしは、つかまないと、ちゃんと……、ちゃんと、たいせつに。



 ――私に、どうか、勇気を。




「名無しさんを、助けにいきたいです」



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