竜人の王である夫に運命の番が見つかったので離婚されました。結局再婚いたしますが。

重田いの

竜人の王である夫に運命の番が見つかったので離婚されました。結局再婚いたしますが。


「ファニア、私の番が見つかった。よってそなたとは離婚することになるだろう」

「まあ、レヴィ。そう。そうなの……」

ファニアミリアはまばたきをした。夢から覚めることはなかった。

少しだけ目を伏せ、開いたときには心は決まっていた。いつか来ると知っていた日がついに来たのだった。

「番様の出現を心よりお慶び申し上げます。本当にようございました、レヴニール陛下」

ファニアミリアが綺麗な一礼をすると、レヴニールの顔はわずかに、だか確かに歪んだ。

白百合宮殿と呼ばれる竜人帝国の大宮殿は、思えば数日前から騒がしかった。使用人たちは暇さえあれば数人で固まって噂し合い、官吏たちも浮足立ち、王妃であるファニアミリアの翼の被膜を拭く係の娘でさえ心ここにあらずの風情。

――何かがあったのだろう、とは思っていた。まさか番の出現とは、それもレヴニールが三百歳を数えるこの年になってとは予想外だったが、覚悟はしていたことだ。

「どうかこれからは、心より愛し愛される番様と寄り添って歩んでいかれますように」

「ああ。――すまない、ファニア。そなた用の離宮を用意している。卵たちとともに、そこで心穏やかに暮らしてくれ」

「はい」

彼女は頷いた。スカートの裾を大きく広げ、背中から生えた優美な薄紫色の翼はふるりと震える。

「どうぞお幸せに。我が君」

それで、そういうことになった。



一年後。

ゆるやかに準備は進んだ。ファニアは王妃の地位から退き、真新しい離宮に移った。もちろん孵化がまだの卵たちも一緒に。

春。

王レヴニールは壮大な結婚式を挙げ、番の少女を新しい王妃とした。村娘だった少女はその愛らしい美貌で感極まって泣いてしまったそうだ。王は非常に豪華なウエディングドレスを仕立てたので、花嫁が神殿の大階段を昇りきっても裾はまだ一段目にあったという。

新しい住処の小さな中庭でファニアはその祝賀の様子を想像する。壮麗な式だろう、そうに決まっている。

竜人の王の、運命の番との結婚式なのだから。

「お父様はきっと番様に無我夢中だわね。寂しいけれど、しょうがない、しょうがない……」

ファニアは微笑み、つるりとした卵の殻を撫でる。翡翠のように透明な緑の殻には真珠色の動脈が走り、鶏の卵よりやや楕円形に近く、両手で抱きしめられるほどの大きさ。

卵の数は三つ。まだ顔を見たことのない我が子たちは、内側でコロコロと寝返りを打つ。



竜人の一族は三千年に渡ってこの世界の支配者であった。

ヒト族や獣人族の手が届かない断崖絶壁に宮殿を構え、ひとたび戦があれば上空より隊列を組んだ戦士たちが飛来して敵を焼き払った。人の身体に、不釣り合いなほど巨大な被膜のある竜人の翼、手足の先についた鉤爪、そして牙。一族は不死身と言われるほど強く、誇らしげに空を飛び回り、あるときは他種族、またあるときは同族と戦った。

風と共に生きる魔法の種族。最強の竜人にもひとつだけ、問題点があった。それは子供の生まれにくさ。

竜人の女は子供ではなく卵を産むが、その卵たちは適切な時期を待たねば孵化することはない。そして適切な時期とはいつなのか? ということは、三千年に渡る研究の果てにもまだ解明されていなかった。

星の巡りに影響されるのかもしれないし、気候や風によるのかもしれない。両親の魔力、祈り、翼の温度。どれもが微妙に孵化の時期に関係し、また関係ないようにも思えた。

他種族は神があまりに強い種族の数を増やさぬよう工夫したのだと陰口を言った。げんに、両親が存命のうちに孵化することなく家屋敷の奥に安置されたままの卵が、誰もに忘れ去られた百年後、唐突に孵化した事例もあった。

卵の孵化を待ちに待って、疲れ果てて死んでしまう母親もいた……。

竜人の一族はこの性質のために徐々に数を減らしていった。通常、戦死以外で死ぬことはないと称されるほど強い種族である。だが個体数の減少は、止まらない。

しかしこのゆるやかな滅亡に歯止めをかける、唯一の手段があった。それが運命の番である。

運命の番とは――竜人の男女の千年に及ぶ長い人生の中に、たった一人だけ訪れる素晴らしい他種族の存在だった。彼もしくは彼女は必ず竜人以外の種族の出身者で、ゆえにか弱い。他種族を醜いと見下すことの多い竜人一族だが、ただ番その人だけは竜人の目にこの世の何よりも美しく見えるという。

そして番は竜人の子を産む、あるいは産ませることができた。産んだあとはひたすら孵化を待たなければならない卵ではなく。それも何人も、何人も、続けざまに、まるでヒト族や獣人族のように。

番というものは目が合えばそれとわかるのだという。王レヴニールは小規模な反乱が発生した領地を平定するために訪れた先で、村娘であった番と運命の出会いをしたのだという。

「どんなものなのかしら……私にはまだ経験がないから」

ファニアは卵を撫でる。卵はどこか嬉しそうに発光する。

「たとえ竜人がどれほど番を嫌がっても、番との子をもうけるのは義務よ。何人も、何人もね」

彼女は寂しかった。

番との性交と出産は義務だった。それほどに一族全体が焦っている。結婚前に何度も話し合った。彼らは竜人一族のための王と王妃だ。法律に、しきたりに、定められた通りにしよう。いつか番が現れたら、その人と子供を作ろう。たくさん、たくさん。みんなのために。

でも寂しい。理解はしていた。納得もしていた。けれど感情は、大暴れしそうだ。

彼が隣にいない。貧相なヒト族の女にとられてしまった。

……しょんぼり。

「でもいいわ。おまえたちがいてくれるもの」

ファニアは微笑んだ。中庭にはさんさんと陽光が差し込み、きらめく泉は宝石のよう、丁寧に整えられた芝生には花が咲き乱れ、そして卵たちは真珠色に輝く。

愛する夫――であった人が、用意してくれた最高の環境だ。これ以上を望むことはあるだろうか?

「おお……愛しい私の卵たちよ。眠る小さな赤ちゃんたち。早く早く、可愛いお顔を見せておくれ」

ファニアは囁く。どうしようもない現実は一度放っておいて。だって彼はファニアより義務を選んだのだし、ファニアの卵は孵化しないまま、そして彼女に運命を操る力はない。運命の番ばかりは、どうしようもない。

そのようにして月日は過ぎる。



ファニアは寂しさを紛らわすため、兎を飼い始めた。これが竜人とは真反対によく増える種族であるから面白かった。少し前、貴婦人たちの間で話題になっていた趣味だった。王妃であるうちは流行物に飛びつくなんてはしたなくてできなかった。でも今は、気ままな隠居暮らしである。

そのうちに熱中し始めた。こっくりしたバター色の毛並みをもった子兎を作るため、そしてそれらから良質な毛皮をとって襟巻にするため、手間暇を惜しまなかった。誰にも迷惑を掛けない趣味は、いい気晴らしになった。

「ああ、日当たりのいい運動場を作りましょうね。大丈夫、庭は広いし、年金もたっぷりもらっているから。私の思うままの場所を作ってちょうだい。滑り台も、ブランコも置いて」

「はい、奥様」

と出入りの職人に命じて作らせた兎用の運動場には遊具がいっぱい、エサ場に水場は銀の器でできていて、決して破られない魔法がかかった檻には雨除けの天蓋さえついている。

宮殿からついてきた数少ない侍女たちはヒソヒソと噂したものの、ファニアは自分でも自分を止められなかった。生まれて初めて行う自分のためだけの遊びは、それほど楽しかったのである。

竜人にとっては瞬く間に時が過ぎ、兎たちは十代目の世代を迎えた。すでにファニアや世話係に慣れ切って、懐いて、愛らしいことこの上ない。彼らのチイチイというカン高い声が何を意味するか、感情もわかりかけてきた頃。

「――奥様」

「なあに?」

緊迫した様子で年老いた侍女がしずしずと進み出、腰を屈めて囁いた。すでに王妃殿下と呼ばれないことが普通になっていたファニアは、たわむれる兎の家族から目を離さないまま聞いた。

「王陛下の番様がいらしております」

「まあ……」

ヒュッと喉が鳴る。一気に現実に引き戻された気分。

ファニアがちらりと中庭のベンチに目をやると、卵たちはすやすやとまどろむようにそこにある。

「いいわ、会いましょう。卵を中へ」

侍女の一人がさっと籠に卵をまとめ、そのようにした。ファニアは室内へ戻った。仮にも王妃であった女なのだから、客人に会うなら衣服を改めなくてはならない。

「そういえば……私が王の元を離れて、どのくらい経ったのかしら?」

「七年です、奥様」

「そうなの。それならひょっとして番様は、七人の王子様のお母様でしょうねえ」

レヴニールの番がヒト族であること、ヒト族の妊娠期間は一年未満ほどだということ。ファニアが知っているのはそれだけである。

彼女の周りの人々はあえて情報を遮断した。夫に捨てられた竜人の妻など、何をしでかすかわからないと思ったのだろう。竜人の力はそれほどに強い。空を飛べるし、岩を砕くし、火を操るのだから。

答えは誰からもなかったが、ファニアは気にしなかった。もはやあらゆることを知っていなくてはならない王妃ではないのだ。離宮までついてきてくれた侍女たちが精一杯尽くしてくれているのを知っているのに、それ以上を望むべきではない。

「さて、いいわ」

どの侍女のどういう判断だったのか。着せられたドレスは王妃時代に勝るとも劣らない豪華な、だが華美ではない優雅なものだった。土蜘蛛一族の糸からできた絹で作られ、裾は絨毯の上にさらさらと流れる。背中にあしらわれたレースは翼の付け根を取り囲み、ファニアの薄紫色の翼はまるで朝明けのようだった。首と手首に最上級のバター色の兎の毛皮を巻き、準備はできた。

そのようにして訪れた応接間で、レヴニールの番はソファに腰かけていた。扉の音で振り向いた彼女は勢いよくファニアを睨みつけると、金切り声で叫ぶ。

「遅いんだけど!? 嫌がらせのつもりぃ!?」

「まあ……」

びっくりした。断末魔のような声だと思う。ファニアは目をぱちくりする。こめかみに広がる小さな鱗が数枚、ざわ、と立ち上がり、男に比べれば小さい角の先まで神経が張り詰めた。

「あたしがそんなに憎いか!? あたしに負けたのが悔しいかあ? ええ?」

「はあ……」

番様は立ち上がると大きなため息をついた。よく手入れされた栗色のふわふわの髪。緑の目。ピンクのドレス。

装いとは正反対に胸の前で腕を組む仕草はなんだか雑で、ふらふら仁王立ちする姿の意図が読めなかった。体調が悪いのだろうか?

「あーあ、やっぱり産めない女ってダメね。いくら竜人様ですうったってどうせ子供育てたことないから、人格が破綻してんだよね。かわいそー」

思わずしっぽが動きそうだった。危ない危ない。淑女たる者、この丸太のように太く鱗が生えたしっぽは夫以外に決して見せてはならないのだ。

「あっあっ、わかっちゃった!? あたしのレヴィがあたしのこと大好きだから嫉妬してんだぁー! ヤダー醜ぅい。三百歳過ぎたおばさんのくせにキツいわあー、若い娘に嫉妬とかっ」

キャハキャハ言いながら番様は手を叩いて地団駄を踏む、違った、踊っているようだ。相変わらずふらふらしている。ヒト族の音感は竜人族とずれているし、普段も竜人としか接さないのでよくわからない。

「あたしは二十五歳よっ、わかるう? に、じゅ、う、ご! 二十代! お前なんかより何百年も若いの! 格が違うの!」

「それで、いかなるご用件でしょうか、王妃様?」

ファニアは首をかしげて膝を折り曲げる。服従の姿勢に気をよくしたのか、レヴニールの番である女性はふんと鼻を鳴らした。

「あんたが嫉妬してあたしのこと殺そうとして、陰謀企んでないか見に来てあげたのよ。感謝しなさい?」

「左様で……」

「じゃ、見せてもらおっかー。ふんふんふーん? 貧乏ったらしい屋敷! こんなとこに住んで元王妃様でーすって偉そうにしてんのぉ? 惨めねー」

意気揚々と歩き出す彼女の背中を見て、一瞬躊躇したもののファニアは従うことにした。なんといっても彼女は竜人王の番様、そして王妃様だった。

レヴニールがどういうつもりで番の外出を許したのだとしても、お付きの者たちによりこの面会でのファニアの行動は逐一彼に筒抜けになるはずだ。別れた夫に情けない態度を取ったと思われたくなかった。

衣擦れの音がいくつか、二人の女の後ろに続いた。番様のお付きの侍女たちだった。ちらりと後ろを振り向いて確認したところ、知った顔はいなかった。

レヴニールの番の女性は色々な部屋の扉を開けては中にダメ出しをし、廊下に飾られた絵画を床に落とし、最後に中庭に出た。私室に至る道は発見されずにすんだ――卵たちがいる部屋への道はカーテンと家具で巧妙に隠されていたのだ。ファニアは自分の侍女たちに感謝した。

「――兎!」

ついに弱点を見つけたといわんばかりの嬉しそうな声で番様は叫んだ。

「いじめて遊んでるのね!」

「いいえ、毛皮をとっておりますの。ほら、これもここの兎のものですわ」

嫌悪感に満ちた顔で彼女はファニアを睥睨した、これほどの憎悪と激情をいったいどうして彼女は抱くのだろう? すでに勝敗は決した。敗者のファニアは潔く宮殿を立ち去り、竜人の王レヴニールは番を王妃となした。だから、生きている限りこの世は彼女のものであるのに。

「イヤダァ! 信じられないっ、野蛮ンンンー! 野蛮っ、野蛮っ、蛮族!」

彼女は再び、ふらふらと地団駄を踏んだ。体調がよくないのだろうか、興奮により顔は赤くならずドス黒く変色する。ファニアは頭がくらくらするのを感じた。

レヴニールの番はどんな人だろうと、想像したことはあった。ヒト族の村娘だったというのだから、天真爛漫で天使族のように清らかな娘だと想像していたのに。

――番に向ける竜人の本能的な愛情は、理性では制御できない絶対的なものである。

ファニアは知っている。とても理性的な学者だったひとが番を得て愚かな道化師に成り下がり、全財産を使い果たされるのを目を細めて見守っていた。とても恐ろしいと思ったものだった。もっとも彼女はその番によって十五人の跡取り竜人を得たのだから、孵らない卵と十五人の竜人族と全財産を天秤にかけた場合……確かに、彼女の一家の命脈を繋いだのはあの番の男だった。彼女が財産を再建するまで百年かかった。

番に頼まれて妻と母を殺してしまった男。番を愛するあまり心中した女。番への愛以外全部忘れてしまった男……。

かつて夫だったレヴニールがこの女性に脂下がり、心から愛情を感じ、発情し、なりふり構わなくなっているのかと思うとファニアは悲しかった。レヴニールの思慮深さ、強さ、賢さを彼女は愛していたから。

(宮殿を出てよかったわ。そんなところを見ないですんで)

「兎殺しのババア竜人」

低い恨みに満ちた威嚇の声でファニアは我に返った。

見ると、目の前にレヴニールの番が憎しみに満ちた目で拳を握っている。

「お前なんかが生きてるからあたしが番なのにつらいんだろうが。王の番のあたしを苦しめていいとでも思ってんのか!?」

そしてドンッと胸を押されたものの、腐ってもファニアは竜人、ヒト族の力では揺るがない。

きょとんと、ファニアは困り果ててしまった。角もいくらか輝きを消し、翼はシュンと下がる。

「どうしてそんなふうにおっしゃるの? 私はあなたに何もしていないのに」

この世を支配する竜人の王に愛されるいとも尊き番様は、白い頬を真っ赤に紅潮させて叫んだ。

「殺させてやるッ、お前、レヴィに頼んで殺させてやるからな! 覚えとけ、あの優しいレヴィはお前のせいで前の妻を殺すことになるんだ、お前のせいでっ、なにもかもお前のせいだ!」

ファニアの心に彼女の声は響かない。元王妃はひたすら呆然とするばかりである。だってこの人が何を言っているのだか、言葉は通じるのに内容はまったくわからない。

「帰るッ!」

と叫び、足をひきずって番様は立ち去っていった。

外がいっとき騒々しくなって、旅行用の四つ足の使役竜が飛び立つのが中庭から見える。ファニアはこの離宮が高い白亜の壁に囲まれ、空が仕切られていることに今更気づいた。まるで彼女を閉じ込めようとするかのように。

――レヴニールは幸せなのだろうか?

その疑問はファニアの心に唐突に舞い降りて、ああ、根を張った。彼女は顔を覆った。こうなるのがいやだったのに。これを考えたくなんてなかったのに。

番を得てばかになった竜人たちの奇行とも呼べる溺愛を、優しく無視するようにこの世はできている。番様が竜人族にもたらしてくれるたくさんの子供たち、冷たい孵化しない卵たちではない、最初から頭があって動く手足としっぽと角がある子供たち、彼ら以上に大切なことなどないのだから。

「レヴィは彼女を愛しているの? 彼女と食事を共にして、庭園を散歩して、子供を慈しむの? 私としたように?」

――光でしか反応を返してくれない卵ではなく、笑って、泣いて、愛してるよママ、パパと言ってくれる子供たちと?

ファニアは侍女たちに連れられて静かに室内に戻り、物言わぬ卵たちに出迎えられた。

その真珠色の光をファニアは薄紫色の翼で包み、沈黙に慰められる。

それは確かに救いだった。



うつらうつらとうたた寝するように日々が過ぎていった。卵は孵化しない。レヴニールがどうしているか心配になっては、きっと大丈夫、と思う。

きっと大丈夫。何もかも、大丈夫。

そして十年が過ぎた。長いようで短い、寂しいけれど温かい年月だった。とはいっても千年を生きる竜人が半分眠りながら過ごしたのだから、ほとんど瞬きほどの時間である。

「――ファニアミリア。俺の妻。ファニア。起きておくれ。俺のファニア」

それは哀願するように切ない、愛に満ちた声だった。

うん……ファニアは夢うつつに頷いた。あなたが求めてくれるなら。きっとそうします。

そして目を開けた。目の前にレヴニールの美しい顔があった。覚えているのとほとんど相違ない。均整の取れた顔立ち。堂々とした漆黒の角、黒髪は長く伸びて、唇からのぞく牙の端にひとすじが流れ落ちている。

彼は泣いていた。彼女は身を起こし、愛しいその頭を腕の中に招き入れた。

「どうしたの? つらいことがあったの?」

「ああファニア、ファニア。まだ俺を抱いてくれるのか。俺のファニア……」

「ええ。だって好きだもの」

懐かしい彼の匂いに包まれて、幸せを感じながらファニアは微笑む。もう寂しくはなかった。彼がここにいるのだ。

「今までもこれからも愛しているわ、レヴィ」

大きな翼が薄紫色の翼ごとファニアを包む。漆黒の闇の中に金と銀の粒が光る。レヴニールの色は夜空そのものだ。あの番様もこうして抱かれたことがあったのだろうか? それならなんて……なんて。

「でもごめんなさい。妬ましさが消えないの。あなたの番を私、憎んでいるわ。こうして抱かれていると、あなたのことも憎んでしまうかもしれない」

「憎んでいい。憎んでお前が楽になるのなら。そうしていいんだ」

二人は身を離す。ファニアはぱちぱちと涙を瞼から払い、照れ笑いをした。

「だめね。あなたの顔を見ると許してしまう」

「そうか。俺もお前が愛しいよ。お前にされることならなんでも許そう。俺を殺してもいい」

「だめよ。――お子様たちがいらっしゃるでしょ?」

「ああ……」

最期に見たときと同じ歪み方で、レヴニールは頬をひくつかせる。

「何人?」

「二十七人。だから、もう跡取りの心配はない」

「まあ。ヒト族にしてはとても多いわ」

「魔法使いどもに魔法をかけさせた。子宮を拡張し、卵巣の機能を極限まで底上げし、一度につき必ず五つ子や六つ子を孕むよう。それが王妃にする条件だった。この身は、本能は、番に無理強いするな、望みを叶えてやれと叫んだ。だが己の愚かさに勝つために、俺はなんでもやったのだ。困難だったが、やり遂げた」

ファニアは息を飲み、彼の背中に手をやった。息が苦しかった。

「あなたの……苦しみに、同情します。レヴィ。そして番様の苦しみにも。私は彼女のことは嫌いですけれど、それでもきっとその処置は、痛かったでしょうから」

「どうだか。俺の身体と肩書しか見ていなかった女だった。――その上、ただのヒト! 魔法も使えない、良家の出でもない田舎娘。本能はともかく、理性の部分では早々に見限った」

「それでも苦しむ姿を見るのは、つらかったでしょう? あの人は、年若い女性でした」

レヴニールは笑ってファニアの頬に口づけた。

「優しい愛しい俺のファニア。あんなものにまで同情するなんて。心配しないでいい。俺は揺るがなかった。あれを憐れみもしなかった。番への愛情とは性欲由来なのだとこの身をもって知った。だが俺の感じるお前への愛は……本能に寄らない、心で選んだ愛だ」

「なんてこと……」

ファニアは絶句する。レヴニールは悲し気に目を細め、弱々しい声でそっと聞いた。

「俺を軽蔑するか?」

「いいえ、いいえ」

「俺の生涯で一番の恐怖は、お前が腹に卵を詰まらせて、薬で溶かされた卵の殻を産んで泣いているのを見たときだった。お前が死ぬかと思った。あのとき以上の恐怖は味わったことがない」

ファニアはこつんとレヴニールの肩に額を乗せる。かつてこうして抱き合ったまま眠った夜があった。愛し合った過去があった。それらはなかったことにはならない。終わったことにされても、事実がなかったことにはならない。

「ファニア。俺の美しい妻よ――あの番は死んだよ」

「えっ?」

「もう産めない年になる前に、最後の仕事をしてもらったのだ」

レヴニールは冷徹な為政者の酷薄な笑顔を浮かべた。覗く牙の切っ先、ご機嫌にゆらゆら揺れるしっぽ、角も翼も瑞々しく輝いて、ファニアは彼が心から喜んでいることを知る。

「最後の最後で、八つ子を産んでくれた。ヒト族にしては快挙の出産だった」

ファニアは思う……かつてこの宮殿に乗り込んできた彼の番の、そういえば名前も知らない女性の荒々しい憎しみを。

詳しく聞いてみると、あの時点で彼女は一人、双子、一人、一人そして手術を受けて五つ子を出産したあとだったのだという。嫁いで七年目にそれほどのことを成し遂げて、自分が逃げられないと知ったのだろう。だからファニアが憎くなったのだろう。

思えばここを訪れ暴れ狂った彼女は、ずっとふらふらしていた。身体が、辛かったのだろう。ひょっとしたらまだ出血していたのかもしれない。

ファニアは卵を産む。卵がいつ孵化するかは誰にもわからない。そしてファニアは――レヴニールと同じ、千年を生きる。

栗色の髪のヒト族の彼女は、自分が死んだあとレヴニールがファニアの元を訪れると確信したのだ。自分が死んだあともファニアとレヴニールの時間は続いていくのだと。むしろそのときを早めるため番に無理強いされているのだと、気づいたのだ。

ファニアはレヴニールの胸元を握りしめ、薄紫色の翼を震わせた。

だがかわいそうに、とは口が裂けても言えなかった。もういない人の魂まで、侮辱するなんてできない。代わりにこう口にした。

「私の卵は孵化しないかもしれないわ」

「構わない。跡取りたちはいる。お前の負担が減ってむしろいい」

レヴニールの愛情が皮膚と被膜から染みこんでくる。彼女は顔を上げ、完璧な美貌を持つ王を見上げる。見つめる。ずっと昔からただ唯一の人のことを。――どんなに取り繕ってもこの人がファニアを王妃の座から下ろし、あの女と結婚した事実は覆せない。

けれどファニアは、彼の笑顔ひとつでそれさえ許してしまうのだった。

竜人族に番が現れるのは、生涯に一度きり。これは三千年の歴史で証明されている。だから、こんな思いをすることはもうない。

それに、お互いの番が現れたらいったん別れようというのは結婚する時の取り決めだった。嫉妬する姿などお互いに見せたくなかったし、何より番に狂っておかしくなった姿を見られたくなかった。

「私、あなたの番が長生きする種族でなくてよかったとさえ思っていたのよ。せいぜい六十年の命のヒト族で、よかったと……あと五十年も我慢すればあなたが帰って来てくれるだろうと、誰にも言わずにそれだけを支えにしていたの」

レヴニールはファニアに口づけた。別離の期間などなかったかのように簡単に。

そうして抗えない言葉が彼から放たれる。

「一族のために我が身を犠牲にしたつもりだった。だがファニア、それがどれほどお前を傷つけたことか……。残りのすべての時間を使って償いをさせてくれ。どうか、麗しき朝焼けの翼のファニア……もう一度我が妻に。もう一度、結婚してくれ。愛しいファニアミリア」

ファニアは頷く。

翼はほんのりと赤味を増し、卵たちが震えるのをしっぽと繋がる背骨で感じる。

千年後、死ぬ間際にきっとファニアはこのことを思い出すだろう。ヒト族なんかに夫を奪われた屈辱の思い出のことを。

でも今は。

彼と一緒に過ごす時間があるうちは、思い出さないですむだろう。



ファニアは再び宮殿に戻り、レヴニールの子供たちを我が子として育てた。番様が産んだのは、すべて男の子だった。

十年のうちにファニアの三つの卵たちは孵化して、三つ子のように愛らしい女の子たちが生まれた。ファニアは泣いて喜び、レヴニールまた同様だった。

竜人王レヴニールは兵権と私兵、そして魔法の知識や魔石を息子たちに譲ったが、それらは厳格に平等な相続で、息子たちは肩透かしを食らった。父親の一番のお気に入りになるために、二十七人の兄弟でずっと争ってきたというのに。

王レヴニールは残りの領土や宝飾品、そして宮殿そのものをファニアの卵から孵った女の子たちに分け与えた。よって激しい求婚戦争が勃発した。

白百合宮殿は竜人族の権威の象徴。レヴニール王の実質的な権力は二十七に分割され、ひとうひとつは一領主ほどに小さい。ならば女の子を――たった三人の女の子のうちいずれかを娶ることができれば、十分に対抗できる。諸侯や他国の王、立身出世を夢見る竜人たちはそう考えたのだった。

世界が混乱と戦にずぶずぶと沈んでいく中、もはや番がどうのこうのと言っていられる状況ではなくなった。

ある竜人は目が合った運命の番を切り捨てて後顧の憂いを断ち、またある竜人は魔法の実験に使い、珍妙なところではせっかく番だとわかって囲ったのにあまり構わなかったので餓死させてしまったなどという例さえあった。

混乱の大本が王の死んだ番にあったということを、他種族も竜人族も知っていた。真に許されざる者は誰か? 王妃ファニアミリア様か? まさか。あのお優しい王妃様に咎などあるものか。

分不相応に白百合宮殿に乗り込んだ諸悪の根源が、かつていたはずだっただろう。



相次ぐ他種族の反乱を鎮圧するレヴニールをファニアは支え、その中で自身の運命の番と出会った。そして見つめ合う彼女たちの真ん中にレヴニールが身体をねじ込ませたのが見え、瞬間、猫の獣人族のその番は夫の手によって引き裂かれ、文字通り八つ裂きにされてしまった。

「まあ」

とそのとき彼女が発したため息が、はたして嘆きだったのか驚きだったのか。千年後の研究でも結論は出ないままである。

これが歴史に残された竜人の番の最後の記録となる。結局、運命の番なんてものは平和な時代のおままごと遊びだったのだ。一族の数を増やすことは大事だが――今は生き残れる者が生き残るべき時代だった。

ファニアがこのことについて何か意見を発したとは残されていない。

王レヴニールと王妃ファニアミリアは混乱へと向かう世界の修復にその生涯を捧げ、そのかたわらには常に美しい三人の娘たちの姿がった。王が彼女たちに相続させた宝飾品のうち、もっとも重要であった世界の根幹を司る神器が、次の時代の物語において最重要の役割を果たすことはまた別の話である。

王と王妃、三人の王女たちの名前は歴史に残った。彼らを祀る神殿が今も各地に残り、人々の崇拝と祈りを引き受けている。

八百年間殺し合った二十七人の王子たちと彼らを産んだ番様の名前? さて、なんだったか……。

兎みたいにポコポコ増えた数だけ立派な王子様のお名前なんて必要かい? 国どころか大陸じゅうを戦乱の渦に巻き込んだ悪魔どものことじゃないか。

存在が記録されてるだけ上々だよ。ねえ?

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竜人の王である夫に運命の番が見つかったので離婚されました。結局再婚いたしますが。 重田いの @omitani

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