パスポート・変身・花

 残り時間20分でデータ飛んだ!!!←言い訳。


 花の香が鼻を通り過ぎる。

 懐かしい匂いだった。ここはオランダだと言うのに。

 

 僕は今、日本からはるばる旅行に来ているのだ。

 オランダ、世界一の花の国。

 友人に会いに来て、暫く遊んだが時間が少し余ってしまった。

 だから少し、ヨーロッパの街並みをふらついていたのだ。


「お兄さん、日本人?」


 中世的な町並みに見惚れながら散策していると、そこには一人の少女が立っていた。

 白く長いワンピースに、黒髪がよく映える。頭には黄色い髪留めが可愛らしく着けられていた。

 アジア風の顔立ちが、久し振りに故郷を思い起こさせる。

 

「そうだけど……もしかしてあなたも?」

「一応。旅行に来てるの。お兄さんも?」


 眼の前の少女は幼かった。だから旅行に来ているという言葉に少し違和感を覚えたのだ。

 高校生にもならないような少女が、一人でヨーロッパをうろつくなど考えられない。


「一人なの?親御さんは?」

「いないよ」

「危ないじゃないか、こんなところに一人で」

「別にいいじゃない。もし何かあったらお兄さんが守ってよ」


 そういって彼女ははにかんだ。その顔に何処か見覚えがあった。

 華やかで、それでいてお淑やかな笑顔。

 それと同時に花の香が彼女から立ち上るように鼻を過ぎる。


「君、どこかで……」


 そう言いかけると、彼女は走ってどこかへ逃げてしまった。

 一瞬、追いかけようと思うが、追いかけるような義理も関係もないのだと思い留まる。


「一体何だったんだ……」


 一縷の不安と、わだかまりを心に残しながらその場を後にするのだった。


 そうして帰国の日がやって来た。やってきたのだが……。


「パスポートが無い……!」


 どこかでパスポートを紛失してしまったらしい。

 ホテルにも、友人の家にもどこにもなかった。

 帰国後には仕事のスケジュールがみっちりと詰まっている。

 穴を開ける訳にはいかなかった。


 タクシー会社、レストラン、観光名所。どこに連絡しても見当たらなかった。

 絶望とともに空港へ向かう。再発行、どれくらいの時間がかかるだろうか。

 暗い気持ちでタクシーを降りると、ふと後ろから肩を叩かれた。

 その主は、あのときの少女であった。


「お兄さん、忘れ物してるよ」


 その手には、赤い、日本国のパスポートが握られていた。


「えっ......それはもしかして」

「そう、お兄さんの」


 確かに、中には僕の顔写真が貼られてあった。

 あの短い間に落としたのだろうか。でもなぜ彼女が?

 それでもやはり彼女が僕のことを救ってくれたのは確かだろう。

 

 「ありがとう……」


 そう言って顔を上げると、既にそこに彼女は居なかった。

 一瞬、もしやあれは亡霊の一種であったのではないかと思考が巡る。

 ただ、その考えは、たしかに彼女が残した痕跡によって払拭されるのだった。


「菊の香り……」 


 甘くお淑やかな香りが、そこに滞留していて、それ以上彼女を疑う余地は残されていなかった。

 パスポートの表紙には一輪の菊が、いたずらっぽく咲いていた。

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