羊たちの悲傷
008
「きみも飽きないね。さっさと僕のところから去ってしまえばいいのに」
白い巨塔のとある一室、窓際の片隅。その一角を取り囲むクリーム色のカーテンは、開け放たれた窓から差し込む風でふわりと揺れている。
無機質なベッドをわずかに起こして、本を読む女性は、傍らに座る少年に目もくれずに、冷たくそう言い放った。
「安孫つゆり先生……。そんな、つれないこと言わないでくださいよ。おれが悲しくなっちゃうじゃないすか」
「勝手になっていればいい」
「ひどいなあ」
学生服を身にまとっている少年は、どうやら学校帰りのようである。大きなリュックが足もとで存在感を感じていた。女性は、すっかりうんざりだ、と大きなため息を吐いた。
「先生と話している時だけが、生きたいって思えるんです。それくらい許してよ」
「僕には先がないことを理解した上での発言ならば心底不愉快だね、きみ」
女性は、長い黒髪をさらりと耳にかける。零れ落ちた髪が、彼女の表情を隠してしまっていて少年からはその顔をうかがうことができなかった。
「だからこそ、です。先生の強さをおれに分けてください」
「……いいだろう。だけれどいつまでこういうことができるだろうかね」
「さあ」
「はたして僕の命が続くうちに、きみが僕の話に飽きるか、強くなるか、生きたいと願ってくれるかしてくれればいいんだが」
「それは……どうでしょうね」
女性は、読んでいた本を閉じて、急にせき込み、そして、身を捩る。急に風が吹き込んで、彼女の腕は鳥肌が立った。
「強さ。それはとりわけきみには難しいものらしい。だがね、僕が思うに強さはそこまで難しいものではないのだよ」
「と、言うと……?」
「知っている、ということだよ」
女性は例えば、と語り始める。少年はじっと彼女の青白い肌を見つめて、その言葉の先を待っているようだった。
「強さが必要になる場面、というのにはたいてい〝戦い〟が潜んでいるものだ。その戦いというのは何かと言えば、それは自分と対象がぶつかること、ということができる。さて、人生をうまく進めるためには、この戦いに絶対負けてはならないというわけだ」
「負けては、ならない?」
女性は、こくり、と一回頷く。
「負けるということは自分にとっての害にほかならない。きみも、損害は被りたくないだろう?」
「それは、確かに利益で満たされたらいいなあとは思いますけど」
「つまりは、そういうことだ。負けないために必要なんだよ、強さは」
女性は、傍らの棚にきれいにたたまれ置かれていたカーディガンを引っ張り、自身の肩にかける。
「情報を制する者は、すべてを制する。これは僕の自論だけれど、つまりは自分のことも対象のこともよく知っていれば、どんな状況でも負けないように対処できるってものだよ」
そう言って彼女は、少年の瞳をじっと見る。女性にはわかっていた。少年は今、生死、あるいは自分の人生そのものと戦おうとしているのだ、と。だから、こうやって誰かに縋っている。彼女からすれば、自分に頼るのは適切だとは到底思えなかったのだが、それでも少年が自分を頼ってきたことにはなにかしらの意味があるのだろう、とそう思えた。
「きみが今、強くなるためにしなければならないことは、知を身に付けることさ。他の人の生き方を学んだり、あるいは疑似体験したり、きみは、人生を知らなすぎる。だから、自分には強さが足りないと感じるんだよ」
女性の言葉に、少年は理解したいとは思っていても、できないようだった。
「はは、面白い顔」
「そんなやんわりしたことを言われても、おれは……」
「考えよ、きみ」
毅然として、彼女は言い放った。
「きみは、人の在り方を考え続けなさい」
はらりと一房おちゆく髪には、魂は宿っていないのに。
「そうやって考えているうちは、きっと死ねないから」
「その言葉、先生にもそっくりそのまま返せばいい?」
「だめだ。私はもう、結論を出してしまったからな。やがて死にゆくだろう」
まだ、彼女の蝋燭は残っている。それでももう、どうやら手遅れらしい。
「北」
「なんですか、先生」
「……いつか、きみが昔にいっていた〝彼〟に会いに行ってみるといい。今の彼なら、もしかするときみが欲しい答えをくれるかもしれない」
少年は、驚いたように目を丸くした後、静かに目を伏せる。
彼女は、強い。彼女に助けを求めた自分はきっと間違いじゃなかったんだろう、と。少年は、確信する。
女性は、大きく二、三度咳すると、再び静かに本を開き始めた。
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