第5話約束
レフィは夢を見ていた。小さい頃の夢だった。
母がいて、血の繋がっていないとはいえ優しい義父がいた。義父には彼と血の繋がった息子がいて、彼は六歳年の離れたレフィのことを弟のように可愛がってくれた。
義父が国王であり、正妃がいなければそれは普通の家族の有様だったのかもしれない。義父は『運命の番』である母をことさら愛した。
多分、レフィが幸せな時を過ごしていたのは一年にも満たない。母が義父の正妃に殺されたからだ。レフィは母の最期を見ていない。気が狂ったように慟哭する義父が母を離さなかったからだ。
「お母様がお亡くなりになりました――」
父の乳母でレフィの身の周りの世話をしてくれているジーナが泣きながらレフィの前で頽れた。
「え、お母様が? どうして……。だって朝は元気だったのに!」
ジーナの悲痛な声は嘘を言っているようには聞こえないのに信じられなくて、レフィはジーナのスカートを握って叫んだ。
「お母様は王妃様に刺されて……陛下の胸の中で息をひきとりました」
ジーナは喉を詰まらせながら、そう告げた。
「お母様、一人じゃなかったんだ……。良かった……、あ……う……ううっ、お母様……っ! お母様ぁ!」
母が刺されて一人ぼっちでいかなかったのだと知って、レフィは少しだけホッとした。その後でとてつもない孤独感が襲ってきた。今までずっとそばにいて愛してくれた母がもういないのだと思うと、地面に吸い込まれていきそうだ。
レフィは正妃と面識がなかった。大好きな義兄の母親でアルファの美しい人ということしか知らない。その人は、義父の命令によって閉じ込められたと聞いた。
厳戒態勢が敷かれていて、どれくらい時間が経ったのかわからなかった。義父と正妃の親族が対立し、レフィの命も危ないかもしれないから住居から出ないようにと厳命されていた。義父と母とレフィの住んでいたところに隔離されてレフィは泣くことしかできなかった。
「お母様……、お母様……。どうして」
どうしてという言葉しか出てこなかった。涙が尽き果てぬくらいに溢れてもレフィの心は癒やされなかった。
母は殺されるようなことをしてしまったのだろうかとジーナに聞いても首を振るばかりで、レフィの知りたいことは何もわからなかった。
『レフィ、辛いことがあってもそこばかり見ていては駄目。目を上げて空を見てみるとか、散歩してみるとか、歌を歌ってみるとか……。気持ちの持ちようで人生は変わるの』
母の言葉はまるで未来を暗示していたように思えて悲しかった。
震える声を空に放りだすように、レフィは子守歌を歌った。母がこの王城に来る前はよく歌ってくれた歌だ。
「寝る子……の頬に口付けて……っ星空に挨拶をして……今日はおやすみ……おやすみなさい。お母様……」
レフィはシーツを掴んで転がり、母を呼んで目を瞑った。
「レフィ!」
扉が開かれて、エルネストが入ってきたのはレフィが微睡んでいたときだった。
厳戒態勢の中、入ることのできないはずの兄が入ってこられたのはジーナが一緒だったからだろう。久し振りに見たエルネストは顔色も悪く眉間に皺が寄っている。綺麗な空色の瞳も曇っているように見えた。こんな顔をみたのは初めてだった。いつも穏やかに微笑む美しい人なのに。
「エルネスト兄様!」
「ジーナから聞いた……。レフィがどこかへ行くのだと」
レフィは何も聞かされていなかった。
「どこか……」
一緒に入ってきたジーナを見ると痛ましいものを見る目でレフィを見つめていた。ジーナは幼少期のエルネストにも仕えていた。レフィはそれを知って、大好きな義兄の話をよくねだったものだった。レフィが城を去ると知ったジーナがエルネストに報せてくれたのだろう。
「レフィ……」
「僕は行きたくありません! 兄様の傍にいたい!」
寝台で寝転がっていたレフィが起き上がると、エルネストは寝台の端に座った。思い切り抱きつくと、エルネストは同じように抱きしめ返してくれた。
「すまない、レフィ。謝って済むことではないけれど、君のお母様を私の母上が……」
「兄様! 謝らないでください。母はいつも正妃様に申し訳ないと謝っていました。皆も言ってた……正妃様はとても立派な人なのに、お義父様が血迷ったのだと。母やお義父様が悪いのでしょう?」
母は『運命の番』である義父を拒めないのだと言っていた。義父は、母しか見えていない人だったから、こんな未来が全く予想できなかったのだろう。レフィにも母にも王城の不協和音は耳が痛くなるほど響いていたというのに。
どうして母が殺されたのですか! 返して! と訴えることがレフィにはできなかった。
悲愴な顔でレフィの母の死を悼んでいるエルネストをこれ以上傷つけたくなかった。
レフィは母が生前言っていたことを思い出して、義父と母が悪かったのだ思い込もうとした。けれど、エルネストは抱きしめたままのレフィの顔を人差し指の腹で撫でながら首を振った。
「レフィ、違う。母上にも譲れないものがあっただろうし、辛かっただろう。でも殺していい理由にはならない。レフィの母上はオメガで、とてもか弱かった。母上は、オメガを擁護したいと言っていたのに……」
エルネストは信じていたものを失った。それによって基軸が揺らいでいるように見えた。
アルファとしても上位で、王太子として至高の立場にいる人なのに、何故だか大丈夫だよと金色に輝く頭を撫でて慰めたい。背が高いエルネストにそんなことはできないけれど、今は寝台の上に二人とも座っているから手が届く。失礼にならなかいかと迷っていると、ポツポツとレフィの頭に水滴が落ちてきた。温かいその雫は、涙だった。
エルネストは強くて頼りがいがあって、涙を見せるような人ではなかったのに。
「エルネスト兄様、僕……」
顔を上げると、綺麗な青色の瞳に水滴が散りばめられていた。
「レフィ?」
どうしてそんなことをしたのかレフィは自分でもわからなかった。膝立ちになりエルネストの涙を吸うと、彼は大きく目を瞠り、次いで笑顔を浮かべた。
「兄様の涙はしょっぱいね。海の味がする……」
自分がしたことが少し照れくさくて、レフィはそう言った。
「海か……。行ったことがないな……」
同じように照れているのか目元をほんのりと染めたエルネストが天井を見上げて答えた。
「エルネスト兄様、僕が海へ連れて行ってあげる」
全然関係のない話をした。母のことでもない、義父のことでもない。これから訪れる辛い別離ではない、未来の話をいくつも。
「レフィ、甘い花の匂いがする……」
握っていた手の甲にエルネストが口づけた。そして不思議そうに匂いがすると言った。
「甘い匂い? 何も食べてないけれど……」
「ああ、頭の芯が痺れるような……」
エルネストの目が熱に浮かされた人のように虚ろになった。レフィは驚いて控えているジーナに助けを求めた。
「殿下! まさか……」
ジーナの悲鳴に驚いたが、エルネストが目を醒ましたような顔になったのでレフィはホッと息をついた。
「これは……」
「殿下、抗性剤を飲んでいますか?」
アルファは第二性徴と共にフェロモンに抗うための薬を飲むようになる。番がいなければ、フェロモンに抗えず望まぬ番を作ることにもなりかねないからだ。同じようにオメガも発情抑制剤というフェロモンを抑える薬を飲むことになるが、十歳のレフィに第二次性徴はまだ訪れていない。
「もちろんだ。このことを父には……」
「私は陛下に忠誠をもってお仕えしております……が、『運命の番』を失ったばかりの陛下に二人のお子様が『運命の番』であったと告げれば不幸しか訪れないことは明白です。陛下のためにもお二人のためにも私は無言を通します。第二次性徴が始まる前に抑制剤をレフィ様に飲んでいただくことになりますが、ベータとして擬態していたほうが安全です」
エルネストは神妙に頷いて、レフィの額に口付けた。
「レフィ、どんな困難があっても迎えにいく。誰のものにもならず、待っていて――」
二人の言葉の意味はわからなかった。ただ、エルネストが待っていて欲しいというならいくらでも待てると思った。エルネストの言葉を信じて待っていればまた一緒に遊んだりご飯を食べたりできるのだ。
「兄様、迎えに来てくれる? 僕、待ってるよ」
これ以上近づいたことなどないほど密着して、その温度にレフィもそしてエルネストも癒やされた。
「ああ、レフィ。愛しい私のレフィ……」
エルネストはレフィの顔のあらゆるところに口付けた。
「兄様……唇は?」
唇だけはわざと外しているような気がしてレフィは頬を膨らませた。
「そこは恋人になってからだ。おませさん。……ジーナ、レフィを頼む」
義理の兄弟だけでなく恋人になれるかもしれないと知って、レフィは熱くなっていく頬をつねってみた。まるで夢のようだ。もしかして自分は今眠っていて、本当に夢だったらどうしようと思った。ちゃんと痛いのが嬉しくて、レフィはエルネストを見上げた。
エルネストの目にもう涙はなかった。いつもよりも強い意志を瞳に宿しているように見えた。未来を見据えたエルネストの頼もしい顔を見て、レフィは胸に恋という火を灯した。
それから十年の歳月が過ぎた。成人を迎えてもエルネストは来なかった。ジーナはレフィが十八の時に亡くなってしまった。その頃には預けられた神殿で友もできていて、内緒で薬を融通してもらうことができた。友となったユア神官はレフィと同じようにオメガだった。ジーナには言えないこともユアには気軽に話せたのはオメガだからかもしれない。ユアにだけはエルネストのことを話していた。
「兄様が僕を番にできなくても、あの人のために何かしたいんだ」
「レフィ様は歌が得意でしょう?」
「もっと役立ちたい!」
そう願えば、神殿の計算業務を手伝わせてくれた。
「私は計算が苦手なので手伝ってくれてありがたいです」
「ユアの教え方が上手なんだよ。神殿教室で子供達に教えているからかな? 他にも教えて欲しい」
ユアはレフィを褒めて伸ばしてくれた。書類仕事や簡単な治療なども学んだ。オメガを保護する神殿はほとんどないから、皆がここに助けを求めにくるのだ。いくら人手があっても足りないくらいだ。
「陛下に怒られませんかね」
そう心配する神官もいたが、基本的に皆仲間意識があったから誰もレフィがリュートの練習をさぼっていることを言いつけたりしない。
「お母様もリュートが得意だったわけじゃないからいいよ。義父上は別に僕のリュートを聞きたいわけじゃないし」
オメガを保護する施療院も兼ねた神殿は、かつて母が身体を壊した時に助けてもらった。ここで身体を治しているときに義父と出会ったといういわくがある。義父はレフィを守るために沢山の寄付をしていたし神殿の外を騎士が巡回して守っているという。
義父はレフィがオメガだとは気づいていなかったが、母の面影を追うための人形のように思っていた。レフィがリュートを上達しなくてもかまわない。義父は愛のせいで盲目だったが、レフィの母だってリュートは得意というわけではなかった。
いつかエルネストが迎えに来たとき、もし既に妃がいたらレフィは彼を助ける文官になりたいと思っていた。十年という月日は遠かった。二人の約束は、レフィの中ではすでにおぼろげだった。
音沙汰のないエルネストのことを、ユアは感謝祭などで酒を飲んで酔っ払うたびに酷い人だと言った。ユアが真剣にレフィを心配してくれているのだとわかっていた。
「兄様は弟として迎えにくると言っていたのかもしれない……」
エルネストは『運命の番』であるレフィを迎えにくるつもりだとジーナは言っていたけれど、勘違いだったのだろうと諦観していたある日。義父が亡くなって王城から迎えが来た。
レフィはエルネストが寄越した遣いだと疑わなかった。
「良かったです。レフィ様、お迎えがきましたよ」
ユアも他の神殿のものたちもそう言ってレフィを送り出してくれた。それが間違いだと気づいたのは、馬車に入って縄で拘束されたからだった。
「あの腑抜けの王の護りがなければ、さっさと殺してやったものを――」
連れてこられた屋敷は豪奢だが王城ではなかった。レフィを迎えた男は瞳に憎悪を隠さず、襟元を掴み上げた。
「誰だ!」
レフィが問うことすら、その男には汚らわしいと思えるのだろう。
「オメガの楽士の子供風情が無礼な――」
そう言って、レフィを掴んだ襟元を握って投げ飛ばした。男はアルファなのだろう。レフィは抗う事もできずに力任せに投げられた。身体は横に倒れ、書斎の机の端にぶつかって痛みに呻いた。こめかみから温かいものが流れ、レフィはその場に倒れ込んだ。苦しむ姿を嗤い、男は自分の手をハンカチで拭いた。
「こんな淫乱なオメガにうつつを抜かすなど、二代そろって間抜けな王共だ。淫売にふさわしい舞台を用意してやろう。ブランカ姉上の顔に泥をぬったオメガに相応しい罰だ」
「ブランカ……?」
「自分の母を殺したものの名前も知らないのか、低能なオメガめ」
「どうして……オメガって……」
ズキズキと痛む頭を押さえると手に血がついた。
「あの神殿はオメガの施療院だ。木を隠すには森へと言う。アルファであるジーナが大量の抑制剤を用意してたのはお前のためだろう? 優秀な女も年で耄碌すれば隠すことも下手になる」
オメガであると知っていたわけでなく、当てずっぽうだったのだと気付いてレフィは呻いた。
「目が……見えない」
開けているはずの視界には何も映らず、レフィは恐怖から身体を抱きしめた。こんな状態では逃げることもできない。
「目が見えない? でっち上げか、まぁどうでもいい。王を支えるこの家にオメガを売ったはした金などいらぬ。最低なアルファの好事家にただ同然で売ってやろう。目など見えなくてもかまわん」
レフィは文字通り引き摺られて、馬車に押し込められた。
王は約束の香りを娶る さちさん @sinonomesati
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