第9話 少年

 バレンタインデーの翌日。授業中にも関わらず、僕の頭は勉強とは全く関係のないことで、隙間なく埋め尽くされていた。


 たとえば、どうやって学校を抜け出そう、とか。


 「はい、あと5分で答え合わせね~」


 教壇に立つ国語の阿部あべ先生が、手首に巻かれた腕時計を見て言った。僕たちが今やらされているのは、入試対策の問題が載ったプリントだ。制限時間内に文章を読解して、内容を要約したり問いに対する回答を記述しなければならない。多分、教室にいる生徒は僕以外、黙々と問題を解き進めている。


 ちら、と前を見やる。阿部先生は女性で、顔に刻まれた皺から、かなり年を重ねていることがわかる。人当たりの良い先生として定評があった。


 よし、と僕は心の中で呟いて、天井に向かって真っすぐ手を挙げた。


 「あら、どうしました?」

 「すみません……ちょっと、トイレに行きたくて」


 阿部先生は黙って頷いた。みんなの集中を乱さないよう、なるべく静かに席を立ち、僕はそそくさと教室を後にした。



 トイレに行く、なんてのは真っ赤な嘘で、僕は人目を気にしながら階段を駆け下りた。授業中の校舎は静まり返っていて、時折声のデカい先生の話声が耳を掠めるだけだ。


 ―宮村がこの町を出るのは、今日の午前11時すぎ。特急電車に乗って岡山まで行き、その後は新幹線に乗り換えて東京に向かうらしい。出発前に宮村に会うには、学校から脱走せざるを得なかった。


 誰にも見つからずに昇降口までたどり着き、僕はガッツポーズでもしたい気分に駆られた。だけどそこはグッと我慢して、作戦の遂行に集中した。


 自分の靴箱から、水色の体操着袋を取り出す。宮村に渡すマフラーは、この中に入っていた。本当はお洒落な包装紙で包みたかったけど、靴箱に隠しておく必要があったから、目立たない体操着袋に移し替えた。この中には他に、キャラメルなどの保存が効くお菓子も入れてある。受験の際、糖分補給に食べてくれたらいい。

 

 外靴に履き替え、袋を担ぐ。用意は万端。あとは、学校を抜け出すだけ――


 「おい。お前、なにしてる?」


 後ろから声がした。全身の毛穴が驚愕にかっぴらき、そこから冷や汗が噴き出した。


 「ひ、平尾先生」


 おそるおそる振り向いた僕の目に映ったのは、担任の平尾だった。


 「今、授業中だろ。どこへ行く気だ?」

 「い、いや、えっと、その……」


 頭が真っ白になる。いざという時に練っておいた言い訳は、あっけなく記憶から剥がれ落ちていた。動揺を隠し切れない僕を、不審感を強めた目で平尾が睨み付ける。


 「こら!まて結城!」


 平尾の怒声が響いた。僕は混乱のあまり、無意識に駆け出していた。


 「はぁっ…!はぁっ…!」


 わずかに雪が残る学校の敷地を、僕は逃げる、逃げる、逃げる。この判断が正しいことを信じて、脇目も振らずに脚を動かす。


 「逃げるな!待てぇー!!」


 すぐ後ろから、平尾の怒声が聞こえてくる。それが恐怖心をいっそう駆り立て、僕は泣きそうになりながら、逃亡を続けた。


 校門を抜けた後も、一心不乱に走り続けた。住宅街に入り、ちょうど目についた茂みの裏に、思い切り飛び込んだ。


 ―まさに、危機一髪。ばくばくと暴れる心臓を押さえつけ、辺りを見回す。僕を追う平尾の姿はおろか、近隣住民の姿も見えなかった。確認を終えた途端、とてつもない安堵が胸に広がるのがわかった。



 「はぁ……マジで終わったかと思ったぁ……」


 僕は長く、細い息を吐き出した。全力でダッシュしたせいで、太ももの筋肉がぷるぷると震えていた。体操着袋を握りしめる手も、多分、こっちは恐怖と罪悪感で、震えを刻んでいた。


 「あれ……?これ、もしかして……」


 体操着袋に視線が向かった時、僕はあることに気が付いた。同時に、熱が昇っていた顔から、サッと血の気が引いた。


 僕は半ば機械的に袋をこじ開け、中を覗き込んだ。そこには、見覚えのある、僕のものではないジャージが入っていた。


 「………やらかした」


 それは、はる姉が高校で使っているジャージだった。つまりこの体操着袋は、僕のものではなく、はる姉のものだ。


 痛恨のミス。僕とはる姉の体操着袋は色も形もそっくりだ。だから、十分注意する必要があったのに……。


 しかし、今朝の失敗を悔やんでいる暇はなかった。時計がないので正確な時刻は分からないけど、宮村の出発まであまり余裕はない。取り違えたということはマフラーの入った体操着袋は、はる姉が持っているはずだ。東高に向かわねばならない。


 僕は立ち上がり、ここから東高までの最短ルートを思い描いた。……全力で走って15分か。これは明日、筋肉痛確定だな。


 苦笑しつつ、僕は地面を蹴って走り出した。すると後ろから、今度は甲高いクラクションが耳に届いた。思わず足を止めると、黒い光を放つ高級車が、僕の横に追いついて、音もなく停車してきた。


 「秋久、お前、こんなとこで何してんの?」


 ういいん、と開いた窓から顔を出したのは、なんと航だった。


 「い、いやこれは……っ!てか、航こそなんで……」

 「あ?おれは普通に遅刻だよ。病院行ってたんだ」


 眉をしかめた航を見て、思い出す。そういや、航は今朝、教室にいなかった。


 「お前も遅刻か?なら送ってやるよ。いいだろ、母さん」


 航が隣の運転席を向いた。暗くてよく見えないが、航のお母さんがいるらしい。


 「いや……俺は、これから東高に向かわないとなんだ」


 僕は俯き加減で言った。すると、航が目を細めた。


 「晴花さんに、何かあったのか」


 予想を越える真剣な声色に、僕はかすかな驚きを覚える。


 「まあ、そんなとこ。体操着、取り違えちゃって」


 「だったら、早く乗れ」


 僕が体操着袋を掲げるのには目もくれず、航は後部座席を指差した。僕を迎え入れるように、艶のあるドアが自動で開いた。



 わずかな逡巡を経て―僕は、伸ばされた手を掴むことに決めた。

 


 「お邪魔します。あの、僕、結城秋久っていいます」

 「は~い、こんにちは。ワタちゃんと同じクラスよね?」


 航のお母さんが振り向いた。淡い金髪に、真っ赤な口紅。羽織りものも純白のコートと、全体的に派手な恰好だった。


 「雑談はいいから。早く東高に向かってよ」


 「えぇー、ワタちゃん反抗期ぃ?冷たい態度取られたって、お父さんに言いつけちゃうぞ?」


 「いやっ…親父にチクるのだけは勘弁…」


 航が懇願するように手を合わせた。なるほど、航にも怖いものがあるのか……と、僕は新たな発見をした。


 「ちゃんとシートベルトしてね~。私、運転荒いから」

 「あっ、はい」


 お母さんからの警告に、僕は腰にベルトを巻き付けた。一秒後、うぉんとエンジンが高鳴り、中西家の車がロケットスタートを切った。


 *


 車窓越しに移り変わる景色を、目で追っていた。高級車になると馬力からして違うのか、早送りのような速度で風景が流れていく。そして、その瞬間瞬間に目に飛び込むのは、道路の片隅に蹴散らされた雪だった。昨日はあんなに真っ白だった雪が、何十台を越える車に轢かれ、今ではカビのように黒ずんでいた。


 焦る気持ちを必死で抑えながら、前を向いた。運転席から覗くデジタル時計は、【AM 10:40】と告げていた。宮村が乗る電車の出発まで、あと30分もなかった。


 「着いたわよ」


 はやる僕に応えるように、航のお母さんが言った。車は堂々と正門を突っ切って、昇降口の真ん前に停車した。扉を開け、地に足を降ろすと、県下一の進学校の校舎が、目の前に現れた。


 「ぼさっとしてんな!早く届けてこい!」


 窓から顔を出した航が、僕に喝を入れた。格式高い校舎を前に、足のすくみを覚えていた僕だったが、そこでようやく目が覚めた。


 「航ありがとう!お母さんも、ありがとうございました!」


 感謝の言葉を放って、僕は昇降口へ駆け出した。2年生の靴箱から、はる姉のローファーを探す。『2-A』と書かれた札が置かれたスペースに置かれてあるのを見つけ、僕は靴下のまま階段を駆け上がった。


 はじめて入る高校の校舎。通り過ぎる幾つもの教室。その一つ一つで、自分より年上の高校生たちが、今まさに授業を受けている。


 魔窟に迷い込んだような気分を味わいながら、はる姉のいる2-Aの教室を目指して、僕は廊下を走り抜けた。


 「はる姉っ!!」


 ついに辿り着いた2-A。僕は勢いに任せて、教室前方の扉を開け放った。


 「な、なんですかあなた!?」


 すぐ横で、スーツに身を包んだ女性教師が、怯えたような目で僕を睨んだ。授業を受けていた高校生たちも、一斉にペンを置いて僕を見上げてきた。


 「秋久?なんで、あんたがここに?」


 後ろの窓際の席から、誰かが言った。声が上がった場所に視線をたどらせると、ブレザーに身を包んだはる姉が、小さな口をポカンと開けて、僕を見つめていた。


 「はる姉……!」


 全く知らない顔の群れの中に、見慣れた姉の顔を見つけた時の安堵は、何にも代えがたいものがあった。全身から力が抜け、緊張の糸がほどける。


 「待ちなさい」


 その時。右腕に、締め付けられるような痛みが走った。見ると、先ほどの女性教師が、僕の腕をむんずと掴んでいた。


 「あなた、見たところ中学生のようですね。 一体何をしているんですか!」


 飛んできた怒号に、鼓膜が震えた。―マズい、今の僕はただの不法侵入者だ。このままだと連行されてしまう……!


 「その悪ガキは、私の弟です」


 諫めるような声がした。視線をやると、僕たちの方に顔を向けたはる姉が、天井に向かって、高々と挙手をしていた。


 「え?あの子、はるちゃんの弟さん?」

 「言われてみれば、顔似てるかも」

 「てか、何しに来たの?」


 静かだった教室に、どよめきが巻き起こる。普段浴びることのない、大量の視線が僕を捉えた。羞恥と不安に、こくん、と喉を鳴らす。


 「ゆ、結城さんの弟さん……?」

 「そうです。ひとまず、掴んだその手を離してあげてください」


 席を立ったはる姉が、こちらに向かって歩んできた。教師は一瞬、迷うような表情を見せたが、はる姉が近づくのを確認して、手を離した。


 「秋久、どうしたの?」

 「いや、これ……」


 僕がスッと体操着袋を差し出すと、目の前のはる姉は一度顔にハテナを浮かべて、それから、重大なことに気付いたように「あっ」と短く叫んだ。


 「それ、私の体操着袋じゃん!」

 「うん。僕たち、取り違えちゃったみたい」


 それから、はる姉の対応は早かった。すぐに踵を返して、ロッカーから僕の体操着袋を持ってきた。中を確かめると、ちゃんと宮村に贈るマフラーが入っていた。その後は『一度話を聞かせてもらいます!』と僕を連行したがる教師を、生徒会長権限で抑え込んだ。僕は改めて、姉の偉大さを痛感した。


 「それ、雪乃ちゃんにあげるんでしょ?」


 昇降口まで送ってくれたはる姉が、不意に尋ねてきた。


 「な、なんでわかったの?」


 驚いて聞き返す僕に、はる姉は悪戯っぽい笑みを浮かべた。


 「わかるよ。弟だもん」


 そう言って、はる姉が僕に向かって何かを投げてきた。なんとかキャッチしたそれは、小さなピンク色のポーチだった。


 「なにこれ?」


 「今、緊急事態なんでしょ?私の小銭入れ貸してあげるから、必要だったら公衆電話とか使って、連絡しなさい」


 「あ、うん……。ありがとう」


 至れり尽くせりだった。僕がお礼を言うと、はる姉がウインクした。僕は一瞬、そのウインクは自分に送られたものだと思ったが――後方に佇む高級車。その助手席に座る航の顔が真っ赤に染まっているのを見て、全てを理解した。


 「はる姉ありがとう!それじゃあ!」


 「青春しろよ!中学生!」


 のびやかな姉の声に送り出され、僕は中西家の車に向かって走り出した。半分開いた窓に近づくと、車内のお祭り騒ぎが耳に入った。


 「え!?え!?ワタちゃん、あの女の子のこと好きなの!?」

 「だああああああ!うるせえババアぁぁぁぁ!!」


 少女のように瞳を輝かせるお母さんと、悶絶して頭を掻きむしる航。出来上がった"愉快な親子"の構図に苦笑しつつ、外から声を掛けた。


 「航、ありがとう。僕は、これから駅に向かうよ」


 「は?駅?」


 航が困惑の色を見せた。


 「うん。理由は、あとでちゃんと話すから。……じゃっ!」


 僕は背を向けて駆け出した。しかしまた、プアンッというクラクションの音が僕の足首を掴んだ。


 「……別に、乗せてやってもいいぞ」

 「ここから駅は遠いわよー!送ってあげるわー!」


 母子2人が、窓から顔を出して叫んでいた。ありがたい申し出だったが、僕はゆっくりとかぶりを振った。


 「いや。航は早く、授業を受けた方がいいよ。東高受かって、はる姉に告るんだ

 ろ?」


 「なっ……」


 僕の言葉に、航が赤面した。走り出した僕の背に、「秋久のくせにぃぃぃ!!」という、悔し気な叫び声が降りかかってきた。

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